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2章

空っぽな心とあたたかな日々と03

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♢ ♢ ♢






「へぇ~」

そういって綾香は私を見つめる。その瞳が面白がっているように見えるのは私の気のせいではないだろう。口元も心なしか緩んでいるように見える。まるでほかに何か言いたげだ。

「何よ~?」

どこか愉快そうな綾香を見返すとずいとこちらに身を乗り出してきた。

「その人って、何歳?年上?年下?」
「私よりは、年上……かな?」
「何で疑問形なのよ」

問われたけれども、まさか馬鹿正直に同居ドールという人形だから私よりも長く存在しているから正確な年齢はわからないとは言えない。少なくとも100年以上は私より長く存在しているって言っていたし。曖昧に誤魔化すと、綾香は興味津々とばかりに口を開く。

「最近知り合ったの?」
「うん、まぁ」
「どこで知り合ったの?」
「喫茶店かな?」
「身長高い?低い?」
「高い……かな?」
「高いんだ。何センチくらい?」
「180センチはいかないくらいかな?170センチ後半くらい?」
「へ~。高いじゃん、結構。じゃあ、ぶっちゃけ、イケメン?かっこいい?どっち?」
「綾香、イケメンもかっこいいも同じ意味だよ」

綾香が変な勘違いをしているのが手に取るようにわかる。ふーと息を吐いてどうしたものかと思っていると

「ごめん、ごめん。冗談だって」

綾香は両手を合わせて、片目を閉じて申し訳なさそうな表情を浮かべた。どうやら私が怒っていると思ったらしい。ちょっとだけいたずら心が湧き

「どうしようかな~」

ちらりと綾香を見れば

「何卒、お許しを~」

とグラスに並々注いだ日本酒をさっと差し出してきた。

「苦しゅうない」

短くそう答え緩慢な速度でそのグラスに手をやると

「はは~、ありがたや~」

なんて綾香が冗談めいて言うもんだから、完全に拍子抜けだ。いや、別に怒ってはいないのだけれど。思わず二人して笑ってしまう。こんな会話をしているとなんだか大学時代を思い出す。ひとしきり笑ってゆっくりと目を閉じて開くと、綾香は右ひじをテーブルに乗せ、自身の右頬を右の手のひらで支えていた。

「いい表情するようになったよ、理子は」

そして、綾香は先ほどと打って変って優しい顔をしていた。そして、ぽつりと一言続ける。

「私もその人に感謝だね」
「感謝?」
「理子の笑顔をまた見せてくれてありがとうって」
「綾香……」

綾香の一言に思わずハルと出会ってからのことを思い起こした。

出会った当初

「うん、私も感謝している」

綾香を見ながら部屋に備え付けられた小さな小窓に映る月を見た。ハルと初めて出会ったあの日の月夜のように、キラキラと輝く星夜、その中で月がより一層光り輝いている。

♢ ♢ ♢




カチコチ、カチコチ。個室の部屋にかかってある時計を見れば、すでに22時を指していて窓の外はすっかり真っ暗だ。他の部屋で大学生が飲み会でもやっているのか、賑やかな声が聞こえる。飲み会の次の日の1限は眠さとの戦いだったななんて思い出して入れば

「次の仕事とかは考えているの?」

綾香は何げなくそう尋ねてきた。昔の懐かしい思い出、今の近況などを一通り話してしまい、これらの話をしてしまえば、当然話題はこれからの話。

「そうね……」

次の仕事ね、と頭の中で思案すると脳裏に“ある人”の声がフラッシュバックする。



♢ ♢ ♢



『あんたなんて、どこに行っても一緒よ!この仕事向いてない!』
『使えない人間は一生使えないのよ』
『あんたの代わりなんていくらでもいるのよ!』
『ここから逃げたところで、どうせまた結果は同じなのよ!』




♢ ♢ ♢



「……――理子?」
「あ、ごめん……」

どれほど過去に思いふけっていたのか。心配そうに私を見つめてくる綾香が瞳に映った。

「ちょっと飲みすぎたのかな」

誤魔化すために私はぐいっとお冷を煽って、『次の仕事、ね』と切り出した。

「……何の仕事をしようかって迷っていて」

ずっとなりたかったものを掴んだと思ったものは、一瞬でこの手のひらからあっさりとすり抜けていってしまった。いや、自分で捨ててしまった方が正しいか。あのまま我慢して続けていれば、あるいは……。けど、もういいのだ。

「でも、いつかは何かしなきゃなってのは思う。このままの状況がずっと続けれるわけはないし」

貯金だってこのまま使い続ければいつか底をついてしまう。けれども、昔のトラウマを思い出すと思わず身を竦めてしまう。また、あのような日々が始まってしまうかもしれないと。金切り声の罵倒に怒声。物を投げつける大きな音。本当に地獄のような日々。楽しみなんてない。ただ機嫌をうかがう毎日。もう、うんざりだ。

自分でも甘えだとはわかっている。わかっているのだけれども、今もまだあの上司のあの金切り声を聞いていた日々を思い出すだけで、震えが止まらなくなるのだ。私は震えそうになる体を鎮めるため、綾香に気取られないようにゆっくりと息を吐いた。

「もう“教えないの”?」

すると唐突に綾香は短く尋ねてきた。“誰に”とは言わなかった。わずかに首を傾げる綾香の表情はどこかぎこちない。遠慮しているようだ。けれども、まるでそれを心の底から願っているような……。

「前の会社の上司にずっと言われ続けていたの。『あんたなんて、どこに行っても一緒!この仕事向いてない』って」

だから私には向いてなかったんだよ、そう続けて苦笑いをすると

「そっか……」

と綾香は一瞬何か言いたげな表情をしたが、口には出さない。綾香の思っていることはわかる。わかっているつもりだ……。

私には、それをもう一度やる勇気がないだけだ。

そんな私に綾香は「……けどな」とボソッと呟いた。聞き取れなかった私が「え?」と尋ねると綾香はとても真剣な表情を浮かべて、昔を懐かしむように言った。

「私は好きだったな。“小野寺先生”の授業」

グラスに入った氷が溶けたのか、カランと高い音を響かせた。
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