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2章

コーヒーの香りと「黄色いゼラニウム」を添えて02

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♢ ♢ ♢



「恋…ですか?」


どんな契約があるのだろうと、身構えていただけに拍子抜け。確かに、亜麻色の髪の人形は、とても目を引くものがあるが、さすがに、人形相手に恋愛感情を抱く予定はない。少なくとも、今まで一度もない。せいぜい、素敵だなと思うくらいだ。


けれども、一応、聞くだけは聞いておこうと思う。からかわれているのかと思ったけれども、目の前の彼は、「はい」と穏やかに笑っている。彼は、本気で言っているようだ。


「もし、守れなかったらどうなるんですか?」


おそるおそる聞くと、彼は困ったように答えた。


「もし、これを破れば、同居ドールは、あなたの目の前からいなくなります」
「…どうしてですか?」

いなくなる?どういうことだ?それに、人形にいなくなるという表現は正しいのだろうか。消えるというのが適切ではないか。そもそも、人形なのだから、なくさなければ、消えることはない。なまじ、消えるとしても、なぜ消える必要がある?

頭の中で、さまざまな疑問がわいていると、彼は丁寧に質問に答えてくれる。

「同居ドールの存在意義は、契約者に安らぎを与えることです。ですが、恋の感情を抱くということは、この存在意義に反してしますのです」
「…どういうことですか?」
「では、お嬢さん、安らぎとは何でしょう?」

私が、尋ねれば彼は逆に問うてきた。

「…心が穏やかに落ち着いていること…でしょうか?」
「じゃあ、その反対はなんでしょう?」

心が穏やかじゃないこと。焦り、焦燥感といった感情。つまり、一言で言ってしまえば…。

「心が乱されること…?」
「その通りです」

私の答えに彼は深く頷いた。


「同居ドールはあくまでも、人形です。人と人形とでは流れている時間が違います」


言われて、はたと思いつく。

「…つまり、恋をしたとしても、一緒に生きることができない」
「はい」
「契約者は、それを気に病みだす」
「えぇ」
「同居ドールは、契約者に安らぎを提供できなくなる」

だから、存在意義に反してしまうのか。
どんなに恋焦がれたとしても、一緒の時を過ごすことができない。人と人ならざる者の宿命だ。

自分なりに考えたことを述べれば、彼は正解だといわんばかりに「そうですよ、お嬢さん」と再び深く頷いた。

けど、なんとなくわかった。けれど、なんて皮肉だ。近くにあるのに、それは一生手に入ることができない。きっと、それは、その人にとって、不幸なことだ。

例をあげるならば、童話の「人魚姫」。
海底の底に住んでいた人魚姫は、初めて地上に赴いた際に、王子様に一目惚れをしてしまう。そのとき、突然、嵐が船を襲い、海に落ちた王子を救うが、そこでどこからか娘がやってきて、王子はその娘が命の恩人だと勘違いしてしまう。それを見た人魚姫は、王子のそばにいたいと思うようになり、魔女のところにいき人間にしてほしいと願うと、美しい声と引き換えに、人間にしてもらうが、「王子がほかの女性と結婚すると2度と人魚には戻れず海の泡になって消えてしまう」と告げられる。それでも「人間になりたい」と願うと、王子に再会を果たすが、声がでないため、自分の思いを告げられず、結局、王子は命の恩人だと勘違いした娘と結婚が決まる。
そんな人魚姫の前に、人魚姫の姉たちが自分の髪と引き換えに魔女からもらった剣で、王子を殺害すれば人魚の姿に戻れると告げるが、愛しい王子を殺すことができなかった人魚姫は、死を選び、海の泡になって消えてしまう。

あぁ、なんていう悲劇なのだろう。人魚姫が、王子に恋に落ちなければ、嵐が来なければ、彼女は死なずに済んだのに。

「恋は盲目」とはよく言ったものだ。理性や常識を失ってしまう。

けれど、人形に本当に恋なんてするものなんだろうか。心の中で、この言葉の可能性を考えてみる。

…いや、ないわ!

なんて、心の中で、冷静に突っ込んでいると、目の前に置かれた空色の瞳と目が合う。柔らかそうな亜麻色の髪。澄み切った空色の大きな瞳。長いまつげ。整った顔立ち。実際に居たら、芸能人も真っ青な美形だとは思う。

まぁ、私のタイプは、切れ長の二重瞼のスポーツマンタイプなので、私自身のタイプではないが。というか、そもそも、人形だし。

…うん、ない。

そんなことを思ってふと視線をあげると

「ですから、長く居たければ、気を付けてくださいね、お互いに」

彼は、なぜか“お互いに”を強調させて、私と亜麻色の髪の同居ドールを見比べ、念を押すように言った。


♢ ♢ ♢


「では、こちらを」


さきほどの亜麻色の髪の人形を持ち運びやすいように、手提げ袋に入れてくれて手渡してくれた。


「…本当にありがとうございます」


美味しい料理、サービスのアイスコーヒー、楽しい世間話、それに同居ドール。いろいろな感謝を込めて、ありがとうと伝える。たった数時間しかいなかったにもかかわらず、なんでこの人は、こんなにも私に親切にしてくれるのだろう。そんなことを思っていると


「予期せぬ出会い」


唐突に彼はつぶやいた。


「え…?」
「黄色いゼラニウムの花言葉ですよ」


思わず聞き返すとにこりと笑って、意味深に笑う。


「同居ドールの存在意義が、安らぎを与えることならば、この喫茶 ゼラニウムの存在意義は、それです」

そして付け加えるように口にした。

「それに、ここは、招かれたものしか扉を開くことができませんから」と。

♢ ♢ ♢


すっかり暗くなった夜道を街灯が照らしていた。夜なので、人通りも少なく、たまに、自転車が横切るくらいだ。そんな中を私は自宅マンションめがけて歩く。


私は片手にエコバック二つ、片手にはいただいたすごく高そうな“同居ドール”。
最初はどうなることかと思ったけれど…。


「あ、意外といけたわ…」


この時ほど、自分の握力が強いことに感謝したことはなかった。


♢ ♢ ♢


「ただいま…」


がちゃりと自宅マンションの扉を開けば、暗闇が広がっていた。一人暮らしの自宅マンション。当たり前だが、返事はない。しーんとしている室内。もう、慣れたものだ。電気をつけると、人工の光が部屋を明るく照らす。


とりあえず、リビングに入って、同居ドールを袋から取り出すと、袋からメモのような紙がひらりと落ちた。拾って読み上げる。白いカード状の紙に、文字が書いていた。


「えっと…箱から出して、月明かりに当ててご使用ください。それで、契約は結ばれます」


書いてある文字を読み上げる。


ん?月明かり?何故?しかも、契約?『主人』と『同居ドール』の関係うんぬんのことだろうか。まぁ、いいや。とりあえず、月明かりに当てればいいのだ。ここまで来たら、最後までやってやる。


「じゃあ、ここか…」


そういって、窓が大きく月明かりが入りやすいリビングのテーブルの上に置く。

う~んと置かれた同居ドールを眺める。カジュアルテイストの部屋にアンティーク人形は合わない…、いや、同居ドールだったか。下に敷くクロスでも、合いそうなものを買ってくるかな。まぁ、でも、せっかく譲り受けたものだし、大切にしなければ。


「…本当に、生きているみたい」


しげしげと見れば見るほど、今にも動き出しそうなほど精巧な作りだ。白いタキシードをキッチリ着こなして、柔らかそうな亜麻色の髪と空色の瞳は、気品がある。


「ふわぁ…」


いつまでも見ていたいが、そろそろ瞼が重くなってきた。思わずあくびが出る。壁にかかっている時計を見れば、20時半近くを指していた。

今日は、歩いて疲れた。今日は、いい夢が見れそう。

まずい、またあくびが出そうだ。

「…とりあえず、お風呂に入って、寝よう」


テーブルの上に置いた同居ドールの頭を一つ撫でてから、私は立ち上がった。
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