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第七話 知りたくなかった
scene7-1
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―慶一―
朝早くから降り続いていた雨も、昼過ぎになって勢いを弱めたのか窓の外は静かだった。
「確か、この辺に……」
数年前に引っ越してきて以来、あまり開けた記憶がないキャビネットの戸を開く。
雑多な細かい物が仕舞われている奥の方に、目当ての細長い箱を見つけて引っ張り出した。
端が擦り切れた箱の蓋を開ける。中から翡翠色の花瓶が出てきた。
手に持ち、リビングのテーブルに横たえてあった薔薇の花束を差し込んでみる。思った通り、花瓶の口が細すぎて十二本も刺さらない。
諦め、花瓶をテーブルに置いた。ふと見ると、根元を水を含ませた紙で包んでいたとはいえ花弁がだいぶ弱って見えた。
仕方ない、花瓶を買いに行こう。萎れてしまったら可哀想だ。
窓の外を見る。雨はやんでいたけれど、空を覆う雲はまだ厚い。もしかしたらまた降ってくるかもしれないし、行くなら早めに出た方が良さそうだ。
電車に乗り、雑貨屋がある隣の区まで移動した。
落ち着いた雰囲気の雑貨屋には、休日とあって若い女性客で溢れていた。
陶器の置かれたコーナーを見て回り、白い花瓶を手に取る。真っ赤な薔薇だから、入れ物はシンプルな方が合うかもしれない。
『―あなたには、赤い薔薇が似合いそうだと思って』
……思い出すと、鼓動が早くなる。
透人と別れて、俺の誕生日なんて誰も覚えていないと思った。親に祝われる年でもないし、友人と祝いあう習慣もない。
『こんなものしか思いつかなかったけれど……』
それでも、俺の事を考えて選んでくれたと思ったら、すごく嬉しかった。夜景を見せてくれようと、部屋にまで連れて行ってくれて。
抱きしめられた時の温もりや、体の重みを思い出す。いつもつけている、香水の匂いも。唇を重ねると、こぼれる吐息はいつも少し苦い。
―会いたい、という言葉がふと浮かんで眩暈がした。
だめだ。俺は一体、どうしたんだ。こんなに柳さんの事ばかり考えて。
どうせ、腕の怪我が治るまでの付き合いだと思っていたのに。体を重ねることだって、深い意味なんか無かったはずなのに。どうして。
まさか俺、柳さんの事―。
会計を済ませ、外に出ると頬に冷たい雫が落ちてきた。
持って来ていた折り畳み傘を広げる。相変わらず巻かれたままのギプスのせいで手こずってしまう。何とか開き、左腕に花瓶の入った袋を下げて傘を持った。
顔を上げた先に、水色のカーディガンを羽織った背の高いシルエットが見えた。白とネイビーのストライプ柄の傘を差している。
どこかで見た柄だと思っていたら、その傘の持ち主が立ち止まった。
「慶ちゃん?」
「透人……」
足を止める。俺の後ろから歩いてきていた人が、迷惑そうにこちらを振り返り追い抜いて行った。
「えっ……と、久しぶり」
ぎこちなく笑う透人の手には買い物袋が下げられていた。ちらりと、青いネギが覗いている。
「……料理、するようになったんだ」
「あ、うん。少しずつだけどね」
透人は買い物袋を持ち上げると、中を覗いて小さく笑った。
「結構レパートリー増えたんだよ?」
「そっか」
透人の表情につられ、頬が緩む。
「良かったじゃん。包丁もうまく使えなかったのにな」
透人は、何故か驚いた様に目を丸くした。
「慶ちゃん……」
「何だよ」
「何か、雰囲気柔らかくなったね……?」
「そう?」
そんな風に言われると思わず、反応に困ってしまう。もしかして、と透人は何か思いついたように言った。
「好きな人が出来た、とか」
心臓が勝手に跳ねあがる。慶一さん、と呼ぶ声を思い出して耳たぶが熱くなった。
「……そんなんじゃない」
「そっか。そうだといいな、と思ったんだけどな」
ごめんなさい、と形のいい眉尻を下げて透人が謝る。
「黙って部屋飛び出したりして……」
「もういいよ、その事は。あの人とは上手くやってるの?」
すると、透人の表情が陰った。
「桃瀬さん……実は、最近が具合悪くて」
「具合悪い?どこか体悪いのか」
「あ、そっか。慶ちゃんに話したこと無かったよね」
実は、と言いにくそうに透人は続けた。
「桃瀬さん、心臓が悪いんだ。小さい頃からずっと、入退院繰り返しているらしくて」
「心臓?」
ー昨日柳さんから聞いた話が、脳裏をよぎる。
いや、そんな。……まさか。
「そう、か。それは、なんて言うか大変だな。」
当たり障りない言葉を探しながら、心臓が嫌な感じに脈打つのを感じた。
一度会っただけの、桜色の髪の小柄な姿を思い出す。
桃瀬。―下の名前は、何て言った?
「透人」
「うん?」
「その、桃瀬サン、って、下の名前は……」
「桃瀬さんの名前?」
―お願いだ、やめてくれ。
違うと言ってくれ。
「朔也、だけど?」
「……っ」
―朔也。
桃瀬、朔也。
引き出しに仕舞われていた指輪の裏に、刻まれていたアルファベットは。
M to S……まさたかから、さくやへ。
「慶ちゃん?どうかしたの」
透人が、黙ってしまった俺に戸惑うように聞いてくる。
答えようがなくて黙っていると、そういえば、と思い出した様に透人は言った。
「桃瀬さんて、世良さんと幼馴染なんだよね。世間て狭いよね……」
―傘を叩く、雨音がうるさい。
花瓶の入ったビニール袋が、雨粒に打たれて、けたたましい音を立て始めた。
朝早くから降り続いていた雨も、昼過ぎになって勢いを弱めたのか窓の外は静かだった。
「確か、この辺に……」
数年前に引っ越してきて以来、あまり開けた記憶がないキャビネットの戸を開く。
雑多な細かい物が仕舞われている奥の方に、目当ての細長い箱を見つけて引っ張り出した。
端が擦り切れた箱の蓋を開ける。中から翡翠色の花瓶が出てきた。
手に持ち、リビングのテーブルに横たえてあった薔薇の花束を差し込んでみる。思った通り、花瓶の口が細すぎて十二本も刺さらない。
諦め、花瓶をテーブルに置いた。ふと見ると、根元を水を含ませた紙で包んでいたとはいえ花弁がだいぶ弱って見えた。
仕方ない、花瓶を買いに行こう。萎れてしまったら可哀想だ。
窓の外を見る。雨はやんでいたけれど、空を覆う雲はまだ厚い。もしかしたらまた降ってくるかもしれないし、行くなら早めに出た方が良さそうだ。
電車に乗り、雑貨屋がある隣の区まで移動した。
落ち着いた雰囲気の雑貨屋には、休日とあって若い女性客で溢れていた。
陶器の置かれたコーナーを見て回り、白い花瓶を手に取る。真っ赤な薔薇だから、入れ物はシンプルな方が合うかもしれない。
『―あなたには、赤い薔薇が似合いそうだと思って』
……思い出すと、鼓動が早くなる。
透人と別れて、俺の誕生日なんて誰も覚えていないと思った。親に祝われる年でもないし、友人と祝いあう習慣もない。
『こんなものしか思いつかなかったけれど……』
それでも、俺の事を考えて選んでくれたと思ったら、すごく嬉しかった。夜景を見せてくれようと、部屋にまで連れて行ってくれて。
抱きしめられた時の温もりや、体の重みを思い出す。いつもつけている、香水の匂いも。唇を重ねると、こぼれる吐息はいつも少し苦い。
―会いたい、という言葉がふと浮かんで眩暈がした。
だめだ。俺は一体、どうしたんだ。こんなに柳さんの事ばかり考えて。
どうせ、腕の怪我が治るまでの付き合いだと思っていたのに。体を重ねることだって、深い意味なんか無かったはずなのに。どうして。
まさか俺、柳さんの事―。
会計を済ませ、外に出ると頬に冷たい雫が落ちてきた。
持って来ていた折り畳み傘を広げる。相変わらず巻かれたままのギプスのせいで手こずってしまう。何とか開き、左腕に花瓶の入った袋を下げて傘を持った。
顔を上げた先に、水色のカーディガンを羽織った背の高いシルエットが見えた。白とネイビーのストライプ柄の傘を差している。
どこかで見た柄だと思っていたら、その傘の持ち主が立ち止まった。
「慶ちゃん?」
「透人……」
足を止める。俺の後ろから歩いてきていた人が、迷惑そうにこちらを振り返り追い抜いて行った。
「えっ……と、久しぶり」
ぎこちなく笑う透人の手には買い物袋が下げられていた。ちらりと、青いネギが覗いている。
「……料理、するようになったんだ」
「あ、うん。少しずつだけどね」
透人は買い物袋を持ち上げると、中を覗いて小さく笑った。
「結構レパートリー増えたんだよ?」
「そっか」
透人の表情につられ、頬が緩む。
「良かったじゃん。包丁もうまく使えなかったのにな」
透人は、何故か驚いた様に目を丸くした。
「慶ちゃん……」
「何だよ」
「何か、雰囲気柔らかくなったね……?」
「そう?」
そんな風に言われると思わず、反応に困ってしまう。もしかして、と透人は何か思いついたように言った。
「好きな人が出来た、とか」
心臓が勝手に跳ねあがる。慶一さん、と呼ぶ声を思い出して耳たぶが熱くなった。
「……そんなんじゃない」
「そっか。そうだといいな、と思ったんだけどな」
ごめんなさい、と形のいい眉尻を下げて透人が謝る。
「黙って部屋飛び出したりして……」
「もういいよ、その事は。あの人とは上手くやってるの?」
すると、透人の表情が陰った。
「桃瀬さん……実は、最近が具合悪くて」
「具合悪い?どこか体悪いのか」
「あ、そっか。慶ちゃんに話したこと無かったよね」
実は、と言いにくそうに透人は続けた。
「桃瀬さん、心臓が悪いんだ。小さい頃からずっと、入退院繰り返しているらしくて」
「心臓?」
ー昨日柳さんから聞いた話が、脳裏をよぎる。
いや、そんな。……まさか。
「そう、か。それは、なんて言うか大変だな。」
当たり障りない言葉を探しながら、心臓が嫌な感じに脈打つのを感じた。
一度会っただけの、桜色の髪の小柄な姿を思い出す。
桃瀬。―下の名前は、何て言った?
「透人」
「うん?」
「その、桃瀬サン、って、下の名前は……」
「桃瀬さんの名前?」
―お願いだ、やめてくれ。
違うと言ってくれ。
「朔也、だけど?」
「……っ」
―朔也。
桃瀬、朔也。
引き出しに仕舞われていた指輪の裏に、刻まれていたアルファベットは。
M to S……まさたかから、さくやへ。
「慶ちゃん?どうかしたの」
透人が、黙ってしまった俺に戸惑うように聞いてくる。
答えようがなくて黙っていると、そういえば、と思い出した様に透人は言った。
「桃瀬さんて、世良さんと幼馴染なんだよね。世間て狭いよね……」
―傘を叩く、雨音がうるさい。
花瓶の入ったビニール袋が、雨粒に打たれて、けたたましい音を立て始めた。
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