6 / 14
6."大丈夫"の呪文
しおりを挟む
ー瑠維ー
「え、院長先生って独身なんですか?」
「そうよ。何年か前に離婚されて、それきりらしいわ」
元木さんはシニヨンに結っていた髪をほどくと、あくびを噛み殺した。
もうすぐ日付が変わる。今夜は僕と元木さんが夜勤の日で、そろそろ元木さんは仮眠を取る時間だった。
「その別れた奥様っていうのが随分若い方だったらしくてね。世良先生が研修医で入ってきた時は、すごいざわついたのよ」
「どうしてですか?」
「まさか院長に息子がいたなんて、誰も知らなかったから。別れた奥様の子にしては年が近すぎるし、院長とは雰囲気が全然違うでしょ」
「確かに」
院長先生は元ラガーマンだったらしく、色が黒くて体の大きな人だ。華奢で色白の世良先生と血が繋がった親子だなんて最初は驚いたけれど、よく見れば何となく、顔の雰囲気が似ている気もする。
「世良なんて、そんなざらにある名字でもないから息子には違いないんだろうけど、ひょっとして院長には愛人がいて、世良先生は隠し子なんじゃないかとか、当時色んな噂が立ったの」
「へえ……」
何もかも初耳な話ばかりだった。元木さんは勤続十年目になるベテランだから、世良先生が研修医になる前からこの病院に勤めていて色んな話を知っている。
「世良先生って、怖いとか近寄りがたいって言われてるでしょ?」
「そう、ですね」
「クールな雰囲気もそうだけど、こういう噂のせいでもあるのよ。触れちゃいけないとこ触れて、地雷踏んだら怖いじゃない」
「まあ……」
「あんた世良先生と仲良いのに、そういう話はしないの?」
怪訝そうな元木さんに、肩をすくめてみせる。
「そんな話するわけないじゃないですか。アメリカ研修の件だって、未だに何も言ってくれないのに」
「まだそれ根に持ってたんだ」
元木さんが苦笑いする。
「ラウンド行ってきます」
懐中電灯を手に、逃げるようにステーションを出た。
―怖い印象なんて、最初から無かった。
初めて話したあの日、先生のポケットから出てきた薄荷キャンディは辛くて、思わず顔をしかめてしまった。
それからまたしばらくして、先生に会った時。
『いたいた』
『あ……』
『もう、元気になった?』
『は、はい』
手出して、と言われて訳もわからず手を差し出した。そこに載せられたのは、一掴みもあるいちごミルクキャンディだった。
『え?あの』
『これなら辛くないだろ?』
そう言って微笑んだ。白衣を翻して立ち去っていった後ろ姿は、今でもまだ脳裏に焼き付いている。
ピンクと白の包紙を開き、三角形のキャンディを口に含んだ。すごく甘くて、ちょっとだけ酸っぱかった。
それはまるで、初恋の味。
そんな事を考えたら、馬鹿みたいに鼓動が早くなった。
癖っ毛の黒髪、色白の細い顎のライン。笑うと細くなる二重の目元。僕を気遣う、優しいハスキーな声。
僕は、先生に恋をしたんだ。
非常灯の明かりしかない暗い廊下の足元を手に持った懐中電灯で照らしながら、循環器病棟の病室を一部屋ずつ見回っていく。
眠れないおばあちゃんの手を擦ったり、トイレに行きたいおじいちゃんに付き添ったり。いつもいびきのひどい人が妙に静かに眠っていたら呼吸が止まっていないか確かめたり、点滴の管がからまりそうになっていたら解いたりしながら、ずっと頭の片隅には先生の事ばかりが浮かんでいた。
大丈夫、大丈夫。
呪文のように心の中で唱えながら、揺れ動く気持ちを必死で宥める。
アメリカなんて、そう遠くない。ずっと向こうにいるわけじゃ無いし。きっとすぐ帰ってくる。もう会えないわけじゃ無いんだから。
でも、いつまで?何をしに?
分からない。だって、僕は先生から何も聞いていないから。
『―世良、アメリカ行くんだってね』
結局、僕は桃瀬さんには敵わないって事か。
先生にとって一番大事な人は、桃瀬さん。
大事な話を一番に聞いてもらいたいのも、桃瀬さん。
僕の事なんてきっと、先生の頭には無い。
「……っ」
最後の病室から出たところで視界が滲んで、慌てて目を擦った。
大丈夫。泣くな自分。
きっとその内、話してくれる。なんでもない調子で、実はアメリカ行くんだよね、なんて言ってくるだろうから、そうしたら笑って、とっくに知ってますよって。そうだ。また精一杯、可愛く拗ねてみせないと。
深呼吸を一つ、ゆっくりとしてから歩き始めた。
ナースステーションに近づくにつれて明るくなってきたので、懐中電灯の明かりを切る。
元木さんは仮眠中のはずなのに、何故か人影が動いたのに気付いて足が止まった。
「……よ」
いつもの白衣に片手を突っ込み、ホワイトボードの前に立っていた世良先生が、僕に気づいて手を上げた。
「え、院長先生って独身なんですか?」
「そうよ。何年か前に離婚されて、それきりらしいわ」
元木さんはシニヨンに結っていた髪をほどくと、あくびを噛み殺した。
もうすぐ日付が変わる。今夜は僕と元木さんが夜勤の日で、そろそろ元木さんは仮眠を取る時間だった。
「その別れた奥様っていうのが随分若い方だったらしくてね。世良先生が研修医で入ってきた時は、すごいざわついたのよ」
「どうしてですか?」
「まさか院長に息子がいたなんて、誰も知らなかったから。別れた奥様の子にしては年が近すぎるし、院長とは雰囲気が全然違うでしょ」
「確かに」
院長先生は元ラガーマンだったらしく、色が黒くて体の大きな人だ。華奢で色白の世良先生と血が繋がった親子だなんて最初は驚いたけれど、よく見れば何となく、顔の雰囲気が似ている気もする。
「世良なんて、そんなざらにある名字でもないから息子には違いないんだろうけど、ひょっとして院長には愛人がいて、世良先生は隠し子なんじゃないかとか、当時色んな噂が立ったの」
「へえ……」
何もかも初耳な話ばかりだった。元木さんは勤続十年目になるベテランだから、世良先生が研修医になる前からこの病院に勤めていて色んな話を知っている。
「世良先生って、怖いとか近寄りがたいって言われてるでしょ?」
「そう、ですね」
「クールな雰囲気もそうだけど、こういう噂のせいでもあるのよ。触れちゃいけないとこ触れて、地雷踏んだら怖いじゃない」
「まあ……」
「あんた世良先生と仲良いのに、そういう話はしないの?」
怪訝そうな元木さんに、肩をすくめてみせる。
「そんな話するわけないじゃないですか。アメリカ研修の件だって、未だに何も言ってくれないのに」
「まだそれ根に持ってたんだ」
元木さんが苦笑いする。
「ラウンド行ってきます」
懐中電灯を手に、逃げるようにステーションを出た。
―怖い印象なんて、最初から無かった。
初めて話したあの日、先生のポケットから出てきた薄荷キャンディは辛くて、思わず顔をしかめてしまった。
それからまたしばらくして、先生に会った時。
『いたいた』
『あ……』
『もう、元気になった?』
『は、はい』
手出して、と言われて訳もわからず手を差し出した。そこに載せられたのは、一掴みもあるいちごミルクキャンディだった。
『え?あの』
『これなら辛くないだろ?』
そう言って微笑んだ。白衣を翻して立ち去っていった後ろ姿は、今でもまだ脳裏に焼き付いている。
ピンクと白の包紙を開き、三角形のキャンディを口に含んだ。すごく甘くて、ちょっとだけ酸っぱかった。
それはまるで、初恋の味。
そんな事を考えたら、馬鹿みたいに鼓動が早くなった。
癖っ毛の黒髪、色白の細い顎のライン。笑うと細くなる二重の目元。僕を気遣う、優しいハスキーな声。
僕は、先生に恋をしたんだ。
非常灯の明かりしかない暗い廊下の足元を手に持った懐中電灯で照らしながら、循環器病棟の病室を一部屋ずつ見回っていく。
眠れないおばあちゃんの手を擦ったり、トイレに行きたいおじいちゃんに付き添ったり。いつもいびきのひどい人が妙に静かに眠っていたら呼吸が止まっていないか確かめたり、点滴の管がからまりそうになっていたら解いたりしながら、ずっと頭の片隅には先生の事ばかりが浮かんでいた。
大丈夫、大丈夫。
呪文のように心の中で唱えながら、揺れ動く気持ちを必死で宥める。
アメリカなんて、そう遠くない。ずっと向こうにいるわけじゃ無いし。きっとすぐ帰ってくる。もう会えないわけじゃ無いんだから。
でも、いつまで?何をしに?
分からない。だって、僕は先生から何も聞いていないから。
『―世良、アメリカ行くんだってね』
結局、僕は桃瀬さんには敵わないって事か。
先生にとって一番大事な人は、桃瀬さん。
大事な話を一番に聞いてもらいたいのも、桃瀬さん。
僕の事なんてきっと、先生の頭には無い。
「……っ」
最後の病室から出たところで視界が滲んで、慌てて目を擦った。
大丈夫。泣くな自分。
きっとその内、話してくれる。なんでもない調子で、実はアメリカ行くんだよね、なんて言ってくるだろうから、そうしたら笑って、とっくに知ってますよって。そうだ。また精一杯、可愛く拗ねてみせないと。
深呼吸を一つ、ゆっくりとしてから歩き始めた。
ナースステーションに近づくにつれて明るくなってきたので、懐中電灯の明かりを切る。
元木さんは仮眠中のはずなのに、何故か人影が動いたのに気付いて足が止まった。
「……よ」
いつもの白衣に片手を突っ込み、ホワイトボードの前に立っていた世良先生が、僕に気づいて手を上げた。
9
あなたにおすすめの小説
地味メガネだと思ってた同僚が、眼鏡を外したら国宝級でした~無愛想な美人と、チャラ営業のすれ違い恋愛
中岡 始
BL
誰にも気づかれたくない。
誰の心にも触れたくない。
無表情と無関心を盾に、オフィスの隅で静かに生きる天王寺悠(てんのうじ・ゆう)。
その存在に、誰も興味を持たなかった――彼を除いて。
明るく人懐こい営業マン・梅田隼人(うめだ・はやと)は、
偶然見た「眼鏡を外した天王寺」の姿に、衝撃を受ける。
無機質な顔の奥に隠れていたのは、
誰よりも美しく、誰よりも脆い、ひとりの青年だった。
気づいてしまったから、もう目を逸らせない。
知りたくなったから、もう引き返せない。
すれ違いと無関心、
優しさと孤独、
微かな笑顔と、隠された心。
これは、
触れれば壊れそうな彼に、
それでも手を伸ばしてしまった、
不器用な男たちの恋のはなし。
【完結】毎日きみに恋してる
藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました!
応援ありがとうございました!
*******************
その日、澤下壱月は王子様に恋をした――
高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。
見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。
けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。
けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど――
このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。
鈴木さんちの家政夫
ユキヤナギ
BL
「もし家事全般を請け負ってくれるなら、家賃はいらないよ」そう言われて鈴木家の住み込み家政夫になった智樹は、雇い主の彩葉に心惹かれていく。だが彼には、一途に想い続けている相手がいた。彩葉の恋を見守るうちに、智樹は心に芽生えた大切な気持ちに気付いていく。
義兄が溺愛してきます
ゆう
BL
桜木恋(16)は交通事故に遭う。
その翌日からだ。
義兄である桜木翔(17)が過保護になったのは。
翔は恋に好意を寄せているのだった。
本人はその事を知るよしもない。
その様子を見ていた友人の凛から告白され、戸惑う恋。
成り行きで惚れさせる宣言をした凛と一週間付き合う(仮)になった。
翔は色々と思う所があり、距離を置こうと彼女(偽)をつくる。
すれ違う思いは交わるのか─────。
【完結】幼馴染に告白されたけれど、実は俺の方がずっと前から好きだったんです 〜初恋のあわい~
上杉
BL
ずっとお前のことが好きだったんだ。
ある日、突然告白された西脇新汰(にしわきあらた)は驚いた。何故ならその相手は幼馴染の清宮理久(きよみやりく)だったから。思わずパニックになり新汰が返答できずにいると、理久はこう続ける。
「驚いていると思う。だけど少しずつ意識してほしい」
そう言って普段から次々とアプローチを繰り返してくるようになったが、実は新汰の方が昔から理久のことが好きで、それは今も続いている初恋だった。
完全に返答のタイミングを失ってしまった新汰が、気持ちを伝え完全な両想いになる日はやって来るのか?
初めから好き同士の高校生が送る青春小説です!お楽しみ下さい。
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる