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7.もう、好きじゃない?
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ー瑠維ー
あまりの不意打ちに、一瞬思考が止まった。
懐中電灯をカウンターの脇に置き、ホワイトボードの前に立っている世良先生に近づく。
「今日、当直の日でしたっけ」
「いや。最近忙しくて家帰ってなくて、ずっと病院にいるんだけど」
白くほっそりとした指が、ホワイトボードに貼られた『今日の夜勤担当』の名札をなぞる。
「お前、いるかなと思って」
「そう、なんですね。ええと、コーヒーでも飲みます?」
逃げるように休憩室へ行こうとしたら、苦笑いされた。
「どういう風の吹き回しだよ。いつもはコーヒーばっか飲むな、ってうるさいくせに」
「……そうですね」
立ち止まる。何を言って良いか分からず、沈黙が落ちた。心電図モニターから時折鳴る、不穏なアラーム音が妙に大きく聞こえる。
カラ、と、固いものが転がるような音がした。
「先生、何か食べてます?」
「ん?」
世良先生は、白衣のポケットに突っ込んでいた手をズボンのポケットに入れた。
「禁煙しようと思ったけど口寂しいから、最近飴舐めてんの」
ポケットから出てきた色白の手の中には、見覚えのあるピンクと白の包紙にくるまれたキャンディが一つ。
「食べる?」
差し出されたいちごみるくキャンディを受け取り、見つめる。
「先生、覚えてますか」
摘まむと、中身の飴は三角形のかたちをしていた。
「初めてちゃんと話した日、僕に薄荷キャンディくれたこと」
「ん、覚えてるよ」
世良先生は懐かしそうに、少し目を細めて微笑んだ。
「何で薄荷キャンディだったんですか?」
「あー、確か入院患者から貰ったんだろ。で、そのままポケットに入ってたから」
「……僕、辛くて思わず顔顰めちゃって」
「確かに。すげー顔してたよな」
「そしたら、今度はこれをくれたんですよね」
包み紙を開けて口に含む。広がる、甘酸っぱい味。
僕の、初恋の味。
「……っ」
あの時の事を思い出したら胸が詰まって、堪える間もなく熱い雫が頬を伝って床に落ちた。
「何だよ、何で泣くんだよ」
咄嗟に顔を背けたのに、世良先生は下から僕の顔を覗き込むと、困った様に笑った。
「どした?……ん?」
堪らず、抱きついた。
初めて触れた先生の体は、見た目よりずっと華奢だった。思わず顔をうずめた白衣からは、微かに消毒の匂いがした。
「おー……どした?」
世良先生は戸惑った声でそう言いながら、細い両腕でそっと抱きしめ返してくれた。
「お前、ほんと背でっかいなあ」
耳元で苦笑する世良先生を抱く腕に、力がこもる。
「先生……」
「ん?」
「アメリカ行くって、本当なんですか?」
僕の腕の中で、一瞬だけど先生が身を固くしたのが分かった。
「うん」
「どうして僕にだけ話してくれないんですか。皆、知ってるのに」
聞くと、はあ?と呆れたような声がした。
「あのな。言っとくけど、俺はまだ看護師の誰にも個人的にこの話してないからな。誰が最初に噂し始めたのか知らないけど」
「ほんとに?」
「本当だって。明日たぶん話があると思うけど、その前に片倉には言っておこうと思って。それで今、わざわざ……」
「でも桃瀬さんには言ったんですよね」
思わず言うと、小さくため息をつかれた。
「仕方ないだろ。俺がいない間、主治医を代わってもらわないといけないんだから」
「あ、そうですよね……ごめんなさい」
体を離した。洟をすする音がステーション内に響いて恥ずかしくなる。
僕を抱き留めた姿勢のまま、行き場をなくした様に宙に浮いていた世良先生の手が伸びてきて、僕の目元にかかる前髪をすくいあげた。
「何だよ、寂しい?」
僕のおでこに触れてくる、世良先生の小さい手を握る。
「寂しいって言ったら、行かないでくれるんですか」
「……あのな」
僕の手を握り返してくれたかと思ったら、そのままコツンと、軽くおでこを叩かれる。
「そんなに長く向こうに居るつもりじゃないよ。長くても、半年……いや、そんなにも居ないと思うし。すぐ帰ってくるよ」
―すぐっていつですか。半年は十分長いじゃないですか。
本当に半年経てば、帰ってきてくれるんですか。
告白した時、『ちゃんと待ってる』って言ったじゃないですか。もう忘れたんですか。
花火の約束もすっぽかしたくせに、どうやって先生を信じて待っていたらいいんですか……。
言いたい事はたくさん心の中で渦巻くけれど、わずかに残った理性が、口に出すことを躊躇わせた。
「行かないで、なんて言えないです。でも」
核心に触れないように、ぎりぎりの気持ちを口にする。
「寂しいかって聞かれたら、寂しいですよ」
僕の手を握っていた世良先生の手が離れる。
「……桃瀬に、怒られた」
「え?」
「告白されて断っておきながら、気を引くような態度をとって傍に居るのは、ずるいって」
片倉、と静かに名前を呼ばれて、恐々と伏せていた目を開けた。
くっきりとした二重瞼の奥で、少しだけ潤んで光る黒い瞳が、僕を見上げる。
「俺と付き合う?」
―そんな、困ったような顔で。
仕方なさそうに言ってほしかった台詞じゃない。
「もういいんです、気にしないでください!」
「片倉、」
「もう先生のこと好きじゃない。好きじゃないからっ」
思わず口をついて出た嘘は、たぶんあっさり見破られたんだと思う。
世良先生は俯いた僕の顔を覗き込み、上目遣いに目を合わせると、寂しそうに微笑んだ。
「そうなの?」
哀しげな声に、力なく首を横に振る。
「……俺、片倉に言ったよな。今は誰の事も、そんな風には考えられないって」
他に誰もいないヘリポートで、静かに言われた事を思い出して頷く。
「でもお前が俺を好きだって言ってくれたのは、本当に嬉しかったんだよ」
頷く事しか、出来なかった。
先生の心の一番やらかい場所に、どうしたら触れさせてもらえるんだろう。
どれだけ仲良くしてもらっても、どれだけ気持ちを伝えてみても、世良先生は絶対あとほんの少しの距離を、詰めさせてくれない。
先生の心の奥深くには、誰も触れちゃいけない場所がある。そこに手が届かないうちは、僕の恋に望みなんてないんだ。
「先生、ごめんなさい。もう泣かないから、もう大丈夫だから」
目じりに残った涙を拭う。仮眠室から音がした。もうすぐ、元木さんが起きてくる時間だ。
世良先生もそれに気づいたのか、一瞬仮眠室の方を気にした後、ティッシュケースを手に取って僕に差し出してくれた。
「すぐ帰ってくるから。俺のいない間に辞めたりするなよ?」
ちょっとおどけてそう言ってくる。
ティッシュを一枚とって洟をかみながら、
「しませんよっ、何で辞めるなんて思うんですか」
と、いつもの調子で強めにつっこんだ。
「あれ、世良先生。どうしたんですか?」
起きてきた元木さんが、世良先生に気づいて驚いた表情になった。
「すみません。もう戻るんで」
「良いですよ別に。なんでしたら向こうに行ってます」
「いえ、これ以上お邪魔したら申し訳ないので。じゃあな、片倉」
コツン、とおでこを突かれる。
「世良先生」
「ん?」
ステーションを出て行きかけていた世良先生が振り向く。
「あの……気を付けて」
世良先生が吹き出す。
「あのな、まだ行かないっての」
「あ、そっか」
思わず赤面する。世良先生はひらりと手を振り、おやすみ、と言い残してバックヤードへ消えて行った。
あまりの不意打ちに、一瞬思考が止まった。
懐中電灯をカウンターの脇に置き、ホワイトボードの前に立っている世良先生に近づく。
「今日、当直の日でしたっけ」
「いや。最近忙しくて家帰ってなくて、ずっと病院にいるんだけど」
白くほっそりとした指が、ホワイトボードに貼られた『今日の夜勤担当』の名札をなぞる。
「お前、いるかなと思って」
「そう、なんですね。ええと、コーヒーでも飲みます?」
逃げるように休憩室へ行こうとしたら、苦笑いされた。
「どういう風の吹き回しだよ。いつもはコーヒーばっか飲むな、ってうるさいくせに」
「……そうですね」
立ち止まる。何を言って良いか分からず、沈黙が落ちた。心電図モニターから時折鳴る、不穏なアラーム音が妙に大きく聞こえる。
カラ、と、固いものが転がるような音がした。
「先生、何か食べてます?」
「ん?」
世良先生は、白衣のポケットに突っ込んでいた手をズボンのポケットに入れた。
「禁煙しようと思ったけど口寂しいから、最近飴舐めてんの」
ポケットから出てきた色白の手の中には、見覚えのあるピンクと白の包紙にくるまれたキャンディが一つ。
「食べる?」
差し出されたいちごみるくキャンディを受け取り、見つめる。
「先生、覚えてますか」
摘まむと、中身の飴は三角形のかたちをしていた。
「初めてちゃんと話した日、僕に薄荷キャンディくれたこと」
「ん、覚えてるよ」
世良先生は懐かしそうに、少し目を細めて微笑んだ。
「何で薄荷キャンディだったんですか?」
「あー、確か入院患者から貰ったんだろ。で、そのままポケットに入ってたから」
「……僕、辛くて思わず顔顰めちゃって」
「確かに。すげー顔してたよな」
「そしたら、今度はこれをくれたんですよね」
包み紙を開けて口に含む。広がる、甘酸っぱい味。
僕の、初恋の味。
「……っ」
あの時の事を思い出したら胸が詰まって、堪える間もなく熱い雫が頬を伝って床に落ちた。
「何だよ、何で泣くんだよ」
咄嗟に顔を背けたのに、世良先生は下から僕の顔を覗き込むと、困った様に笑った。
「どした?……ん?」
堪らず、抱きついた。
初めて触れた先生の体は、見た目よりずっと華奢だった。思わず顔をうずめた白衣からは、微かに消毒の匂いがした。
「おー……どした?」
世良先生は戸惑った声でそう言いながら、細い両腕でそっと抱きしめ返してくれた。
「お前、ほんと背でっかいなあ」
耳元で苦笑する世良先生を抱く腕に、力がこもる。
「先生……」
「ん?」
「アメリカ行くって、本当なんですか?」
僕の腕の中で、一瞬だけど先生が身を固くしたのが分かった。
「うん」
「どうして僕にだけ話してくれないんですか。皆、知ってるのに」
聞くと、はあ?と呆れたような声がした。
「あのな。言っとくけど、俺はまだ看護師の誰にも個人的にこの話してないからな。誰が最初に噂し始めたのか知らないけど」
「ほんとに?」
「本当だって。明日たぶん話があると思うけど、その前に片倉には言っておこうと思って。それで今、わざわざ……」
「でも桃瀬さんには言ったんですよね」
思わず言うと、小さくため息をつかれた。
「仕方ないだろ。俺がいない間、主治医を代わってもらわないといけないんだから」
「あ、そうですよね……ごめんなさい」
体を離した。洟をすする音がステーション内に響いて恥ずかしくなる。
僕を抱き留めた姿勢のまま、行き場をなくした様に宙に浮いていた世良先生の手が伸びてきて、僕の目元にかかる前髪をすくいあげた。
「何だよ、寂しい?」
僕のおでこに触れてくる、世良先生の小さい手を握る。
「寂しいって言ったら、行かないでくれるんですか」
「……あのな」
僕の手を握り返してくれたかと思ったら、そのままコツンと、軽くおでこを叩かれる。
「そんなに長く向こうに居るつもりじゃないよ。長くても、半年……いや、そんなにも居ないと思うし。すぐ帰ってくるよ」
―すぐっていつですか。半年は十分長いじゃないですか。
本当に半年経てば、帰ってきてくれるんですか。
告白した時、『ちゃんと待ってる』って言ったじゃないですか。もう忘れたんですか。
花火の約束もすっぽかしたくせに、どうやって先生を信じて待っていたらいいんですか……。
言いたい事はたくさん心の中で渦巻くけれど、わずかに残った理性が、口に出すことを躊躇わせた。
「行かないで、なんて言えないです。でも」
核心に触れないように、ぎりぎりの気持ちを口にする。
「寂しいかって聞かれたら、寂しいですよ」
僕の手を握っていた世良先生の手が離れる。
「……桃瀬に、怒られた」
「え?」
「告白されて断っておきながら、気を引くような態度をとって傍に居るのは、ずるいって」
片倉、と静かに名前を呼ばれて、恐々と伏せていた目を開けた。
くっきりとした二重瞼の奥で、少しだけ潤んで光る黒い瞳が、僕を見上げる。
「俺と付き合う?」
―そんな、困ったような顔で。
仕方なさそうに言ってほしかった台詞じゃない。
「もういいんです、気にしないでください!」
「片倉、」
「もう先生のこと好きじゃない。好きじゃないからっ」
思わず口をついて出た嘘は、たぶんあっさり見破られたんだと思う。
世良先生は俯いた僕の顔を覗き込み、上目遣いに目を合わせると、寂しそうに微笑んだ。
「そうなの?」
哀しげな声に、力なく首を横に振る。
「……俺、片倉に言ったよな。今は誰の事も、そんな風には考えられないって」
他に誰もいないヘリポートで、静かに言われた事を思い出して頷く。
「でもお前が俺を好きだって言ってくれたのは、本当に嬉しかったんだよ」
頷く事しか、出来なかった。
先生の心の一番やらかい場所に、どうしたら触れさせてもらえるんだろう。
どれだけ仲良くしてもらっても、どれだけ気持ちを伝えてみても、世良先生は絶対あとほんの少しの距離を、詰めさせてくれない。
先生の心の奥深くには、誰も触れちゃいけない場所がある。そこに手が届かないうちは、僕の恋に望みなんてないんだ。
「先生、ごめんなさい。もう泣かないから、もう大丈夫だから」
目じりに残った涙を拭う。仮眠室から音がした。もうすぐ、元木さんが起きてくる時間だ。
世良先生もそれに気づいたのか、一瞬仮眠室の方を気にした後、ティッシュケースを手に取って僕に差し出してくれた。
「すぐ帰ってくるから。俺のいない間に辞めたりするなよ?」
ちょっとおどけてそう言ってくる。
ティッシュを一枚とって洟をかみながら、
「しませんよっ、何で辞めるなんて思うんですか」
と、いつもの調子で強めにつっこんだ。
「あれ、世良先生。どうしたんですか?」
起きてきた元木さんが、世良先生に気づいて驚いた表情になった。
「すみません。もう戻るんで」
「良いですよ別に。なんでしたら向こうに行ってます」
「いえ、これ以上お邪魔したら申し訳ないので。じゃあな、片倉」
コツン、とおでこを突かれる。
「世良先生」
「ん?」
ステーションを出て行きかけていた世良先生が振り向く。
「あの……気を付けて」
世良先生が吹き出す。
「あのな、まだ行かないっての」
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