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崇神朝の謎

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ここから、「記紀の崇神朝の記述は真実であるという立場」にたって、崇神朝とヤマトタケルの人生をトンデモ解釈を交えながらみていこうと思う。


三輪山は崇神朝が成立するよりもっと前からの倭国の聖地であった。崇神は三輪山の大物主的人物の配下であり、実権のある王ではなかった。当初の王はやはり大物主に連なるものであったのではなかろうか?崇神はその大物主的人物から権力を簒奪した。


倭国大乱を経て、各地の豪族の勢力離合集散は各地に強大な地方国家を生むことになり、それは従来の大物主的支配では押えきれなくなってきていたのかもしれない。その簒奪は、四道から豪族を集め大物主的人物に叛旗を翻させることによって成功した。その主力となったのが三輪山に最も近い吉備播磨の平野を支配していた豪族吉備津彦に相当する勢力と九州以外で半島との直接交易ができる北陸方面を支配していた大彦に相当する勢力であったのではないだろうか?


崇神期の古墳とされる箸墓などからは吉備系土器が大量に発掘されている。これは吉備の人間が大挙して三輪山周辺にやって来たことを示しているのではないだろうか?つまり、吉備はじめ四道に攻め込んだのではなく、四道から大和大物主の本拠三輪山に攻め込んできた。ということではないだろうか?崇神紀11年夏四月二十八日の条には 「四道将軍は、地方の敵を平らげた様子を報告した。この年異俗の人たち(四道将軍?)が大勢やってきて、国内(大和)は安らかとなった」と、記されているのである。もちろん上記書紀からの引用につけた( )内は筆者の推測である。


箸墓に代表される前方後円墳は吉備発だという意見も良く聞く。この形式の古墳を造るため吉備から大勢の工人がやってきたということかもしれない。箸墓と相似型の墓も吉備にはあるらしい。もちろん厳密にはどちらが先かわかりはしないが、箸墓に吉備系土器が大量にあるということは、吉備が先と判断しても良い気がする。


三輪山侵攻への見かえりとして、大彦勢力と吉備津彦勢力は崇神朝に皇后を送り込むことになった。つまり「四道将軍」とは崇神朝各大王の外戚(母体)だったのだ。崇神朝時代も母系社会の妻問婚形式であったのなら次期大王は吉備津彦や大彦ら外戚の養育をうけることになる。これはそれぞれの地方豪族にとって魅力的なことではなかったか?酷く不自然にも感じられる「国譲り」は崇神と四道将軍らが共謀した「(大物・大国)主殺し」を隠すためかもしれない。「主殺し」などをして成立した政権であるなら、「主」となったとき、今度は殺されるという前例を作らないためにも・・・・・・・・・。


高天原から降臨してきた天孫族などというが、いくら最新の武器を持ってこようと、突然他地域からやっとてきた降って湧いたような勢力が政権を握るなど考えられない現象ではないだろうか?文化・文明の遅れた(これさえも定かではない。倭の方が韓半島南部より遅れていたとは限らない)先住民を蹂躙して地元へ帰るのが関の山ではないか?天孫と自称した氏族は南九州にルーツを持ちながら、前政権である出雲王権の流れを汲む大和の大物主政権内部に婚姻により入り込み、やがて大物主政権で重きを成した氏族・集団であったのではないだろうか?という具合に草創期の王権である崇神朝も他の例に漏れずれっきとした武力政権である。


大物主を祭祀した開祖崇神、天照を伊勢に祀った垂仁など信仰に厚い安定した王朝のような気もするが、西へ東へと大変な忙しさである。ここまで戦いつづけなくてはいけないというところに、崇神朝が、正当な手続きを踏んで(外から前政権である出雲系大和王権=大物主王権を武力で倒して)王権を手に入れたのではないことが忍ばれるではないか。


崇神の頃の出雲はというと、振根と飯入根の兄弟が出雲の神宝を管理しているところからみて、この兄弟が実質的支配者か宗教的統率者であったのだろう。兄の振根は神宝を崇神朝に差出すつもりがなかったようなので、大国主的信仰=旧時代的権威の上では崇神朝よりも出雲兄弟の方が上位に位置していたのかもしれない。つまりは、この二人は崇神朝に任命もしくは委任されて出雲大神を祭祀していたわけではないのだろう。こういった関係の中、吉備津彦らによる出雲討伐が行われる。


ナラ盆地から出雲へと出陣したわけではないだろう。出雲と戦うにあたって後背にあたる大和を婚姻によって動けなくした吉備津彦の吉備勢力が出雲を攻めたと見るべきではないだろうか?吉備津彦が出雲を攻めた理由は鉄の争奪戦というところが本当のところではないかと思っている。吉備と出雲は中国山脈という鉄資源の眠る山の表裏に位置している。そして同じく鉄の代名詞といっても良い土地がらである。この両勢力の争いに鉄が絡まないわけはないのだ。


さて、出雲と吉備というと、産鉄地という以外にもう一つの共通点が見出せる。そう四隅突出型墳丘墓である。 吉備の西側の山中に現れる四隅突出型墳丘墓は徐々に吉備西部の山中>出雲と吉備の境>出雲東部>出雲西部>北陸(丹波、但馬、丹後あたりの三丹地域を外しているのも興味深い。まだ見つかってないだけかもしれないが・・・。)という具合に築造地域を広げていっている。これはそのまま後に吉備族と呼ばれる製鉄部族の動きではなかろうか?製鉄関連祭祀という独特な祭祀集団の動きなのかもしれない。


四隅突出型墳丘墓は出雲平野周辺で最盛期を迎える。「倭国大乱」の頃と推定されている。しかし、その反面吉備王国の中心地となるべき吉備平野に四隅突出型墳丘墓は見当たらない。代わりに吉備平野では前方後円墳が発生したのかもしれない。どちらも墳丘墓祭祀という観点からみれば同様のものにも思える。


もうひとつ、傍証となるかどうかわからないが、一つの伝承を紹介しよう。「天目一箇神」である。この神は一つ目で「あよあよ」と鳴く妖怪である(爆)いや、片目が開かなくなるほど熱心に鞴の火を見つめて鍛冶にせいを出した鍛冶神である。もう一つの名を「金屋子神」という。この神は播磨から出雲へと移動した神である。播磨・吉備の境にもともといたという伝承が残されている。この神は死穢を拒まない神であり、死生観という側面からみれば死を穢としてしか見れない後世に人格を植え付けられた神よりも、原始的な神の姿をより残しているのかもしれない。


播磨にはこの神を祀る「天目一神社」があり、それは出雲型墳墓とされる方墳が集中している鴨(現在の加西・加東)の土地にある。加茂である。加茂といえば出雲の加茂、葛城の加茂、そして山城の賀茂である。いずれも出雲系とされる神を祀る土地である。混乱させるかも知れないが、一つ目の神というのは洋の東西を問わず鍛冶を生業とする部族の神だそうだ。興味深い伝承として、「片目のクシイナダヒメ」という伝承が武蔵の国あたりには残されている。これをもってイナダヒメも製鉄神だと言いきることはできないがスサノオ伝説と共に語られるこの神話は、古代関東では「製鉄交易は出雲から」という認識があった事を指しているかもしれない。武蔵の国に多い氷川神社の祭神はスサノオとイナダヒメそして大国主である。そして加茂と同じく出雲系とされている。


出雲>吉備>播磨と流れてきた青銅器とは違い、製鉄民の移動を表すかもしれない金屋子神=天目一箇神は播磨>吉備>出雲と動いている。文化が変質しながらも循環しているのだ。これは吉備・播磨・出雲という土地が葦原中津国という大国主の支配した一つの「クニ」であったことを示しているのではないだろうか?つまりもともと、出雲・吉備・播磨・因幡・三丹などの中国山脈を擁する西国は全部が出雲であり、時代によっては全部が吉備であった。という事ではないだろうか?


1・青銅器祭祀の出雲(紀元前頃?)を攻撃したのは、九州勢力。>青銅器族のヤマト東遷の原因で、「国譲り神話」の原型となった?

2・出雲に上陸した九州勢力と出雲の地に残った青銅器出雲族(2世紀頃?)を攻撃したのは、吉備系製鉄祭祀族(四隅突出型墳丘墓族)この征伐は天之日矛対アシハラシコオの対決によって表現されている?

3・吉備系製鉄祭祀族(四隅突出型墳丘墓族)を攻撃したのはヤマトタケルに象徴される後期崇神朝としての吉備系農耕祭祀族(吉備・播磨王朝)で、この征伐が「ヤマタノオロチ退治」の原型なのかも?

4・出雲を支配した吉備・播磨王朝を出雲から駆逐したのが、神功皇后=応神仁徳朝(九州と大和の王統を統一した河内王朝)で、この征伐が「国譲り」でのアマテラスの動きに投影されているのかもしれない。


日本海を中心とした交易の基地としての出雲、銅産地としての出雲、鉄産地としての出雲、それぞれの時代出雲地方はいろんな顔を持っている。この顔の既得権益者は常に新しく登場してきた王権勢力と戦っていた。そして出雲地方には、常に新羅方面の影がちらついている。これが出雲が何度も征伐された理由ではないだろうか?


中央と呼ばれる新王朝が誕生するたびに出雲は旧体制の既得権益者の拠り所になっていったのかもしれない。それほど出雲地方は古代においては、勢力の保持に恵まれた立地条件を擁していたのかもしれない。


これを書いていてふと思ったのだが、出雲国風土記にヤマタノオロチ退治が記載されていないのは、出雲の南方が吉備の国とされたからかもしれない。オロチ退治の時点では出雲であった斐伊川の上流のまだ奥(南)にあったオロチの居場所は風土記編纂時点で備後あたりに編入されていたからではないのか?何しろ境界線がハッキリしない古代の話である。しかも備後山中にはオロチを切ったという剣(アメノハハキリの剣)が収められているとされる神社もあるのだ。備中(備後)神楽も出雲神楽・石見神楽とほぼ同じでありメインの演目はヤマタノオロチ退治であるのだ。つまり、オロチがいたとされる地域は現在でいうところの出雲でなく備中にあった。備中(備後)国風土記の全文が残されていれば、そこにオロチのことが書かれていたのかもしれない。


おっと!知らない間に妄想世界に入った上に、崇神朝から大きく話がずれてしまった・・・・・。話を戻そう。 吉備津彦の討伐により、ほぼ完全に出雲は吉備の傘下にはいった。それは四隅とそこからの吉備系土器の出土によって推測してもいいのではないだろうか?出雲優位であった吉備・出雲・大和の関係が激変した瞬間ではないだろうか?ついでといってはなんだが、古代の出雲という「土地」がどんな勢力支配をうけていたのかその変遷を整理してみよう。


Ⅰ青銅器出雲族=大国主のモデル?。紀元頃まで

Ⅱ四隅突出型墳丘墓勢力、三世紀ころまで

Ⅲ北九州の古墳勢力(方墳)四世紀ころまで

Ⅳ吉備王権(前方後方墳)五世紀ころまで

Ⅴ畿内河内王朝、(前方後円墳)5世紀以降


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