水面の燈火

詩方夢那

文字の大きさ
18 / 24
一 混色の果て

十六 侍の心意気

しおりを挟む
「本当にすみません。集めて頂けるだけで十分なのに」
「気にしないでくれ。同僚のしりぬぐいの様な物だからな」
 簿書係の非常勤職員である御田川和歌子は警備員のエンリケと二人、乱雑に放り込まれた制服をワゴンから取り出し、ポケットの中やタグを確認を進めていた。
「それに、今日は乾燥室の制服を地下の廊下に運ぶ必要もある。それには君の手を借りなければならない」
 和歌子は返す言葉が無く黙り込んだ。本来であれば地下通路に什器を運ぶのは洗濯の雑用を引き受けている和歌子の仕事であるが、今は土谷の言いつけにより地下に降りる事は叶わない。
 暫くの間、二人は無言で汚れた制服を洗濯機に放り込み、その最後に和歌子は無作法に放り出された靴下を下洗い用の洗濯機へと投げ込む。
「乾燥室に行こうか」
 洗濯機が回る中、エンリケに言われるまま和歌子は階上の乾燥室へと向かう。かつてはささやかな観葉植物が育てられていた温室の様な乾燥室も、今は大麻煙草を吹かす者が散見される空間となってしまったが、夜勤を終えた警備員達が帰宅したこの時間帯に人影は無い。
「全く片付いていないな」
 什器にはぎっしりとハンガーが掛けられ、大量の制服が吊るされている。その中には識別タグの付けられた物も有るが、持ち主はまだ引き取っていない。
「一番小さくしてしまうと、エレベーターには入りますけど、服が溢れますね……」
「上に積む様にすれば何とかなるはずだ。スラックスならあまりしわにならないだろう」
「そう、ですね……」
 スラックスを吊るすハンガーが外され、スラックスごと鉄棒の上に乗り上げた格好になると、エンリケは大量のハンガーが吊るされたまま什器の鉄棒を強引に押し込んで縮め、金具を締めた。そして車輪の固定を外そうとした時、苛立った女性の声がエンリケの背後に浴びせられる。
〈ちょっと、洗濯してるのはあんた? 私の靴下はどこよ!〉
 慌てて振り返ったエンリケが目にしたのは、和歌子に掴み掛らんばかりの剣幕で迫る女性警備員の姿だった。
〈おい、落ち着け!〉
 エンリケは和歌子をかばう様に割って入るが、女性はエンリケを押しのけようとする。
〈私はそこの女に話が有るのよ!〉
 胴体に向けられた乱暴な手がエンリケの眼に伸びた瞬間、エンリケは乱暴に女性を突き放して声を荒らげた。
〈いい加減にしろ!〉
 先ほどまでと異なるスペイン語の怒声に、女性は意外だと言わんばかりにエンリケを見て叫んだ。
〈何よ、あんた、スペイン語が喋れる最初からそうしなさいよ!〉
〈それなら、なぜ日本語しか知らない非常勤職員に英語で詰め寄るんだ〉
〈ここにいる人間なら英語くらい喋れるでしょ? それとも、そこの女はハンディキャップの職員なわけ?〉
〈そもそもここは日本だ。あなたは日本が英語の通じない国だという事も知らずに来たのか?〉
〈ここは英語が通じるから来たのよ! それよりあんた、そこの女は私の靴下を返さない泥棒なの、私の靴下を返せって通訳しなさい!〉
 エンリケは溜息を吐き、女性の名札を確かめてから後ろを振り向く。
「フェリシダ・アギラルという名札に見覚えは?」
 エンリケの問いに和歌子は首を振り、彼は女性に向き直る。
〈アギラルさん、靴下にクリップを付けたか?〉
〈は?〉
〈制服を洗濯に出す時は、シリコンタグか名前を書いた耐水性ステッカーを貼ったクリップを付ける決まりになっている〉
〈そんなの初めて聞いたわ!〉
〈おかしいな。上司から通達がされていたはずだが……複数の人間が同じ物を洗濯に出すのに、どうやって自分の物を判別するんだ?〉
 女性は言葉に詰まって黙り込む。
〈そもそも、靴下一足でも制服の持ち出しは規律違反、アルバイトもハンディも関係なく解雇される重大な違反行為だ。十分な給料を貰って生活が出来ている彼女が盗みを働く理由は無い〉
〈その女は私に対する嫌がらせとして〉
〈彼女はアギラルさんと接点は無い。なぜなら彼女は警備員のロッカールームに入る事を禁止されているからだ〉
 女性は舌打ちして力任せにエンリケを突き飛ばし、そのまま背を向けた。
 女性の態度から突き飛ばされる事を想定していたエンリケはその衝撃を防弾ベスト越しに受け止め、溜息を吐いた。
「リャ、リャヌラさん、大丈夫ですか?」
「この下はフラックジャケットだよ」
「あ、そっか……」
 和歌子は目を伏せた。咄嗟の出来事となると何も出来ず、思い出せもしない、と。そもそも傭兵であるエンリケが多少の事で怪我をする事は無く、協会の警備員は申し訳程度の性能とはいえ防弾ベストの着用が必須となっている。
「ハンガーラックを下ろすついでに送るよ。一度簿書係の事務所に戻った方がいい」
 エンリケは和歌子の方を振り返って告げる。
「あ、でも靴下は下洗いで」
「あのまま脱水して、通常の洗剤で洗えばいいのか?」
「それはそうですけど」
「それなら後は片付けておくよ。急な呼び出しが無い限りは」
「でも、それじゃあ申し訳ないです」
「気にしないでくれ。君に何かあったら、土谷に殺されかねないからな」
 言って、エンリケは什器の車輪を固定する金具を外してエレベーターへと向かい、和歌子はその後を追った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー

i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆ 最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡ バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。 数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...