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焦燥
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しおりを挟む親父が台湾から帰国した日、夕食の席で出て行くと告げた。
弥生は分かりやすく慌てた後、怒ったような、悲しいような表情をした。
そんな顔をさせてしまうことが辛い。
それでも気持ちを押し殺して、客観的に目の前に並ぶ二人を窺い見た。
この前までは夫婦だと信じて疑わなかった。
自分の方が早く出会ってれば、なんて悔しい思いをさせられた。
それなのに親子と言われればもう、二人は親子にしか見えない。
親父が台湾から戻る前に、自分なりに考えを整理した。
俺ら兄弟と万が一でも恋愛させないように、親父は弥生が婚約者って嘘をついた。
俺らに近付けたくないなら、ここに住まわせなきゃいいのに。
それでも弥生をそばに置いたのは、娘だから?
捨てた娘が、家も仕事も無くした。
同情からか愛情なのか、ここに住まわせた。
そもそも、弥生が親父の職場に就いたのも、その仕事を取り上げたのも、何か裏で手引きがあったのかも知れない。
弥生の母親と目の前の親父の関係は?
俺の一年後に弥生は生まれた。
その何年も後、親父たち夫婦には准が生まれてる。
俺の両親の関係は、どうであれ保たれてた。
その途中に弥生の母親と不倫関係にあったということだろうか?
「どこに住むの?」
准が聞いてきた。
親父がうちの母親を裏切った過去があると知ったら、准はどう思うんだろう?
自分のせいで死んだと思っていた時期もあった、その母親を裏切ったことがあると知ったら?
真実を聞いたら、俺はどうする?
手切れ金が渡っていたのが事実だったとしてだ。
それはもしかして…堕胎の費用だったのかも知れない。
いずれにせよ、見捨てられたのは弥生。
それを弥生に伝えるのか?
しかも、兄妹だしもう恋愛できない、って?
想像したら笑える。
いや、笑えない。
親父が告白しないものを、俺が暴こうとしてる。
もし俺がこのまま黙って身を引けば、親父も白岩も何も喋らない。
弥生は真実を知らずに生きて行けるだろう。
食事の後、准と親父が部屋に入ったのを確認して、片付けをしてる弥生に話しかけた。
案の定、不機嫌だ。
不機嫌なのが嬉しい。
俺が居なくなるのに、平気な顔をされたらへこむ。
そんな勝手な気持ちを心の内に隠した。
話は誰にも聞かれない方がいい。
防音室へ弥生を誘うと、大声を出して嫌がられた。
驚いて、ちょっと怯んだ。
冷静を気取ってても、気持ちは折れそうだ。
言う必要があるのか?
今すぐ抱きしめたい、安心させてやりたい…
そんな自分の弱さを払拭するように、弥生の手首を掴んだ。
抵抗を押さえ込んだ。
今日ここで全てを終わりにする。
それ以外に道はないんだから。
防音室でピアノチェアへ肩を押して座らせると、一歩離れて弥生の前に立った。
全ての元凶。
ポケットの中に白岩の名刺。
これを晒せば終わりが始まる。
触れる指先が迷った。
弥生の潤んだ目から視線を落とせば、手首をさすってるのが見えた。
圧迫されて薄く赤く染まってた。
痛くして、ごめん。
もう早く終わりにしよう。
指に挟んだ名刺を手渡すと、しばらく眺めてた。
「なんで圭さんが?」
当たり前なのに、気持ちは落胆した。
名刺を見て、白岩なんて誰だか分からないと言ってくれるのを、わずかに期待してた。
そんなことありえないのに。
終わりだ。
冷たく突き放せ。
「私が好きなのは、」
終わりだから。
「寝たんでしょ?」
最低な一言に、弥生は睨んできた。
毎度のことだけど、上目遣いで睨まれても残念ながら全然怖くない。
ましてや、ポロポロと涙がこぼれる目で睨まれても、怖くなかった…
「ひとつ屋根の下、家族みたいなもんでしょ?
どうなの、かえって燃えるとか?
気持ち悪くて、俺は、無理」
弥生は声を上げて泣き出した。
泣いてほしくないけど、泣いてほしい。
俺を忘れてほしくないけど、忘れてほしい。
涙を拭ってやって抱きしめたい衝動に、歯止めをかけるキーワード。
“妹"
そこで大泣きしてるのは妹だから。
准と同等。
それ以上でも以下でもない。
呪文のように心の中で唱えながら、部屋を出た。
扉を閉めて、愛しさと一緒に泣き声を封じ込めた。
*****
ドラマ収録はもう残すところ数日だった。
近頃はマンションとスタジオの往復だけだ。
外に出る気も起きないし、かといって部屋の中で何かする訳でもない。
ただ仕事するために起きて出かけて、帰ったら寝るだけの生活だった。
じゃあ、仕事に打ち込んでるのか、と聞かれればそうでもなかった。
求められるままに、つつがなく演じるだけだった。
今日は成実と二人のシーンがほとんどだった。
その中に抱き合ってキスするシーンがあった。
ドライでは軽く流しただけ。
本番で成実の腕を引いて抱きしめた時だった。
突然の虚無感に襲われた。
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