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焦燥
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しおりを挟むキッチンに一歩足を踏み入れた場所に、弥生は立ってた。
上も下も服を脱いで、下着姿だった。
料理を作るこの場所の照明は、青白くて明るい。
ピンク色の上下の下着を身にまとう弥生の、光に晒されてる素肌の部分は透き通るように白かった。
弥生を抱きしめた。
それは煽られた欲望で抱きしめた訳じゃない。
離れていたら、目に焼き付けてしまいそうだった。
身体を合わせて、前を向いてれば何も見えない。
「圭さん、」
冷たい身体は、震えていた。
髪は濡れたまま。
…タオル渡すの忘れてた。
コーヒー、思い出した。冷蔵庫の中だ。
馬鹿みたいにこの状況下で、あらぬ方向に意識を泳がせた。
「私、処女です…」
電気ケトルが蒸気を吹き出して、カチっとスイッチがオフに切り替わる音が響いた。
「それでもダメですか?…私のこと、気持ち悪いですか?」
弥生の両の手の平が、迷うように俺の背中にそっと触れた。
ダメじゃない。
気持ち悪くもない。
俺の腕と胸が覚えてる感触はやっぱり弥生だった。
ずっとこれだけが欲しかった。
このまま、髪や首筋に頬を埋めてしまいたい衝動。
でも、できない。
「成実が帰ってくるから、服が乾いたら帰れ」
俺は弥生から手を離すと、弥生の手も俺の背中から剥がした。
弥生の脇をすり抜けて、キッチンを出た。
バスルームに入ると洗濯機は動いてた。
バスタオルとフェースタオルを棚から出すとキッチンに戻った。
弥生はさっきの場所に座り込んで、向こうを向いてる。
白く浮き立つ、腰のくびれから尻のライン。
そこから目をそらして、バスタオルを肩からかけた。
もう一枚のタオルで頭をガシガシと拭いてやった。
弥生は俺の手からタオルを奪った。
自分で拭くという意思表示だった。
「近いうちに名古屋に帰ります。
圭さん、たまにあの洋館に帰ってあげて下さい。
二人じゃ寂し過ぎます」
向こうを向いたまま、そう言った。
乾燥が終わる前に取り出して、服を着てしまった弥生。
タクシーを呼ぶから待てと言ったのに、逆らう手に傘だけは握らせた。
弥生は出て行った。
それから俺は飲んだ。
温くなったビールの後に数本飲んで、リビングのソファで寝た。
目が覚めるとまた冷蔵庫からビールを出して飲んだ。
今日は仕事はオフだった。
またソファでうとうとしてた。
玄関の鍵の回る音と、ドアを開閉する音で目が覚めた。
「あら、まぁ。インターフォン鳴らしましたのに」
ソファで寝転がる俺を見つけて、和乃さんが呟いた。
そう言われれば、確かに鳴った。
出るのが面倒で居留守を決め込むつもりだった。
そのまま、ほんの束の間また寝た。
俺はのっそりと起きて、頭を抱えた。
飲みすぎて、腹も胸も一杯だった。
そうか、今日は和乃さんの来る曜日か。
「和乃さん、」
今は部屋のどこかに行ってしまった和乃さんを呼んだ。
「はいはい、」
和乃さんはエプロンをつけて、俺の元へ戻って来た。
「あいつにここを教えたでしょ?」
「来たんですね、弥生さん」
えぇ、来ましたよ、昨日ね。
「追い返しました。これじゃ、気の毒でしょ?」
遠回しに和乃さんを非難した。
「気の毒ですね…圭さんが」
和乃さんは、目の前のテーブルの何本もの潰れた空き缶に目をやった。
それからエプロンを外すと俺の前に膝をついた。
「小さい頃から、一人で何でも抱え込んで…
家族でも弥生さんでも頼ったら良いんですよ」
弥生に頼る?
意味が分かんない。
家族に頼れって?
その家族に悩んでるのに…
「和乃さん、親父は母を裏切ったことがあると思いますか?」
漠然として、何を言ってるか分からないだろう。
酔っ払いの戯言と思ってくれたらいい。
「奥様にはお会いしたことがありません。
当時旦那様は奥様を亡くされて、打ちひしがれて憔悴しきっていました」
和乃さんがうちに来た頃か。
親父が憔悴なんて気づかなかった。
母が死んでも毅然として、葬儀が済んだら変わりなく仕事に精を出してた子供の頃の記憶。
「圭さんもですけど、赤ん坊の准さんを特に、育児放棄気味でした」
子供だったし、母を亡くした悲しみで当時の親父のことなんて記憶から消えてた。
「准さんが泣いても、腹を空かせても、おむつが汚れても、眺めてるだけで…
圭さんがあやして、分からないなりにおむつを変えてるのを何度も見ましたよ」
確かに、そんなことがあった。
泣く准を黙らせようとして、俺も必死だったんだ。
酔いも手伝って、モヤモヤとする頭を抱えた。
和乃さんの話の中の親父は、俺の記憶の中の父親像とかけ離れてた。
「私は見かねて、旦那様を叱り飛ばしました。
『あんたとの子だから奥様は産んだ。
奥様が命と引き換えに産んだ子を殺すな』って」
そう言われた親父は和乃さんの足元に、泣き崩れたそうだ。
母が愛しすぎて哀しみに耐えられなかったって…
「私が胸ぐらを掴んだのは、後にも先にも旦那様だけです」
「そう…ですか…」
過去の自分が、和乃さんを本気で怒らせなかったことを褒めてやりたかった。
「私は、クビでしょうか?」
和乃さんが俺の住所を晒すのは、弥生にだけだ。
分かってる。
自分では会いに行けないから、和乃さんをここに呼んだのかも知れない。
弥生とどこかしらで繋がってたかったんだ、俺は。
「ロボットは風呂とトイレを掃除してくれないんです。
和乃さんにお願いします」
「…ありがとうございます」
和乃さんは静かに微笑むと、エプロンをつけながら向こうへ行った。
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