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焦燥
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しおりを挟む9月。
イタリアの地に居た。
昨日、成田からアムステルダムを経由してベネチアに到着した。
本島で一泊すると今日、水上バスに乗って映画祭の行われているリド島へ渡ってきた。
宿泊するホテルに荷物を預けると、少しの空いた時間ができた。
だからコーディネーターから教わった、映画 ”ヴェニスに死す" で使われたホテルを見物しに行った。
子供の頃誰かに、登場する少年に似てると言われたことがあった。
ホテルはかつて映画で見たよりも、古く寂れた印象だった。
その足で少し街も散策した。
歴史のありそうな教会や土産物屋を見て回った。
街は映画関係者やバカンスの観光客で喧騒に包まれてた。
「シーズンを外せば長閑な島なんですよ」
コーディネーターはそうも話してたっけ。
人は多くても、俺を知る人はほとんどいない。
誰の視線も気にせずに過ごせることは、俺にとっては穏やかな時間と言えた。
ホテルに戻ると、プライベートビーチからアドリア海を眺めた。
白い砂浜に穏やかな波が打ち寄せてた。
今のこの時間も良いけど、サンセットも雰囲気がありそうだった。
ただ、一人で眺めるのは遠慮したかった。
海は感傷的になりそうだ。
その後、正装して監督と合流した。
長旅と意味の分からないヨーロッパの言語で、多少の疲労感を覚えていた。
そんな中で日本からの取材はもちろん、海外メディアからも複数の取材を受けた。
レッドカーペットを歩いて、劇場ではスタンディングオベーションを浴びせられた。
どれも初めての経験だった。
授賞式では最優秀賞は何れも取れなかった。
それでも異国の地でのあらゆる経験が、灰色に思えた生活に少しの刺激を与えたのは確かだった。
***
帰国すると一度マンションに戻ってから、実家へ向かった。
時差ボケと疲労は感じてた。
それでも思い立った今行かないと、次にいつ帰る気が起きるのか自分でも分からなかった。
平日の昼間だ。
親父の車はなかった。
准もおそらく学校だろう。
玄関の扉を開けると感じたのは、慣れた家の匂いと埃臭さだった。
しばらく掃除してないな、これは。
リビングに入ると窓を開けて換気した。
そのままキッチンへ足を踏み入れると、冷蔵庫へチーズを突っ込んだ。
イタリア土産だ。
窓の外を見た。
風のない秋の穏やかな陽射しだった。
いい天気の日はいつもそこに干されてるはずの洗濯物はもちろんなかった。
カウンターにノートが置いてあるのが目に入った。
前はこんなところにノートなんてなかった。
ノートは二冊あった。
一冊は家の中のあらゆる家事作業の内容、もう一冊はレシピのようなものだった。
ようなもの、というのはレシピ以外にも個人的な感想?のような、覚書?のようなものが随所に散りばめられてたから。
とある見開きページのレシピの最後、
『健吾さん、会食。
圭さん、好き嫌い言わず何でも食べる。
准君、カボチャの煮付け好物。最後まで取っておくところが可愛い』
って、何これ…
「弥生ちゃん、賢いようで、どっかヌケてんだよね」
突然背中の方から准の声がした。
誰もいないと思ってたから、一瞬心臓がドキリとした。
「学校は?」
「振り替え休日、文化祭の」
あぁ、そうなのか。
鼓動に早さを感じながら、納得した。
准はキッチンの中まで入ってくると、アイランドの作業台に寄りかかった。
「カボチャ最後まで残すのは、あれオカズにならないから。
どっちかって言うと、嫌い」
呆れ顔で笑った。
俺も弥生のヌケ感に思わず笑ってしまった。
「新しい家政婦は?」
このノートは自分のためだろうけど、多分次の家政婦への引き継ぎ目的もあったんだろう。
じゃないと、置いてはいかないだろうから。
ヌケてるのはあれとして、家事内容はびっしりと、こと細かく書かれてる。
「親父、なぜか新しい人探さないんだよね」
「そう」
以前、和乃さんから話を聞いて以来、親父という人物がよく分からなくなってた。
俺はキッチンを出ると、上に上がった。
二階で一旦足を止めた。
ゲストルームのドアは開いてた。
カーテンは閉じられて、部屋は薄暗い。
ベッドはシーツがはがされて、マットレスが剥き出しだった。
目を廊下の奥にやれば、突き当たりのバスルーム。
入浴中の札が下げられたままだった。
三階へ上がると、自分の部屋へ入った。
やっぱりベッドにシーツはなかった。
それでもそこに寝転がった。
しんどかった。
時差ボケだろう。
少しのはずが、目を閉じたらすぐに深い眠りに落ちてしまった。
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