逆行令嬢と執事

嘉ノ海祈

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2.執事クラウス

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 底冷えするような恐怖を感じ、セシリアは飛び起きた。悲鳴を上げようにも声にならないほどに喉は渇き、寝間着は汗でぐっしょりと濡れている。先ほどまでベッドで寝ていて、体が疲れることなどしていないのに、なぜか長距離を走った時のような疲労感があった。

 重い体を引きずりながら、サイドテーブルに置かれた水差しへと手を伸ばす。グラスに水を注ぎ勢いよく喉に流し込んだ。

「…ふぅ」
(久々にあの夢を見た…)

 ポスンっとベッドの淵に腰を下ろし、セシリアは夢のことを思い出していた。

 それはかつての悍ましい記憶。そして未来に起こりうるかもしれない出来事の記憶でもあった。

(もう、あんな思いはごめんだわ。何とかしてあの事態をさけないと…)

 マリア暗殺の容疑で婚約者に裏切られたあの日、自分で首を切り確かに死んだはずのセシリアは、なぜか二度目の人生を送っていた。前回と同じハードウェル侯爵家の令嬢として。

 いわゆる逆行というやつを体験したセシリアは、将来自分を待ち受けているであろう出来事を思い出し、ため息をつく。

 そもそも王太子の婚約者になったのが間違いなのだ。婚約者でなければあのように死ぬこともなかった。

(でも結局、婚約者になってしまったのよね…)

 目が覚めた時には親同士で話が進んでいて、婚約が決まってしまっていたのだ。せっかく逆行するならもっと前の段階がよかったのだが、こればかりは自分で選べないのでどうしようもない。

(マリアが登場する前に何とか王太子に婚約破棄を申し出てもらえればいいのだけれど…)

 王太子との婚約を破棄するには王太子側からの申し出が必要だ。王太子との婚約は国王から賜ったものであり、こちらから破棄するのは国王に対する無礼とみなされる。勿論、王太子から婚約破棄されてもいい影響はなく、令嬢としての価値がその程度とみなされるわけで、その後の結婚のハードルはあがるわけだが、セシリアからしたら結婚などしなくていいし、死ぬよりましだと思っていた。

(王太子にとって、家が背後にいることは大きな利益になるからなぁ。侯爵令嬢に産まれてしまったのが運の尽きよね…)

 ほうっとセシリアはため息をつく。待ち受けているだろう最悪の未来にズンと重いものが心臓にまとわりついた。心なしか胃も痛む気がする。

(とりあえず、自害を回避できればなんとかなるわよね。それまでに生きる力を養っておけば他国でも生きていけるわけだし。役目を終えたら異国でカフェでも開いて悠々自適に暮らすのが目標ね…)

 セシリアはそう決意をすると重たい腰を上げた。とりあえず濡れた服を着替えよう。このままでは風邪をひきそうだ。

コンコン

 ふと、部屋の戸がたたかれた。着替える手を止め、セシリアは扉に向かって声をかける。

「どうぞ」

 失礼しますという言葉と共に扉が開かれ、燕尾服を身にまとった男性が部屋へと入ってくる。彼の名はクラウス。幼いころからセシリアに仕えている専属の執事である。

「おはようございます。お嬢様。…失礼、お召し替え中でしたか」
「構わないわ。あとは上着を羽織るだけだから」
「手伝います」
「ありがとう」

 クラウスはさっとセシリアから上着を受け取ると、手慣れたように羽織らせてくれた。さっと服の乱れていた部分を整えると、彼は散乱していた洗濯物を拾い集める。

「朝食の準備は既にできておりますが、いかがなさいますか」
「…今日はバルコニーで食べたい気分だわ」

 セシリアの部屋には広いバルコニーがついており、侯爵家自慢の庭を眺めながら食事をとることができる。今日はなんとなく外の空気を吸いながらお茶を飲みたい気分だった。

「かしこまりました。すぐにご用意いたします」

 そう言うとクラウスは軽く礼をし、部屋を出ていった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 しばらくして、食事のワゴンと共にクラウスが部屋に戻ってきた。

「お嬢様、こちらをどうぞ」
「…これは氷?」

 クラウスが差し出したのは革袋に入れられた氷だった。いきなり差し出された氷にセシリアは首をかしげる。

「目が少々腫れております。冷やされた方がよろしいのでは?」
「…本当だわ。知らず知らずのうちに泣いていたのね」

 部屋にある姿見で自分の顔を確認すると、確かにセシリアの目は腫れていた。どうやら夜泣いていたらしい。

「夢見がわるかったのですか?」

 テーブルに皿を並べながらそう尋ねるクラウスに、セシリアは頷く。

「ええ。久々にちょっと嫌な夢を見たわ」
「そうでしたか…。体調に問題はございませんか?」

 心配そうな眼差しを向けるクラウスに、セシリアは静かに首を横に振った。

「体調は問題ないわ。多少の疲労感があるくらいよ」
「さようでございますか。悪夢は何かと体力を奪われるものですからね。本日はご無理をなさらず、ゆっくり過ごされた方がよろしいかもしれません」
「そうね。そうするわ」
 
 スッとクラウスが引いてくれた椅子にセシリアは静かに腰掛ける。席に着いたセシリアの膝にサッと布ナプキンをかけると、クラウスはお茶の準備を始めた。

「何かお困りごとがあればいつでもご相談ください。悪夢は不安の表れとも言われておりますし、誰かに話すことで解消されることもあるかもしれません」
「ええ、ありがとう」

 クラウスは前回も最後までセシリアに仕えてくれた執事だった。彼はセシリアの悪い噂が広まり、彼女の立場があやうくなった後も、セシリアを信じついてきてくれたのだ。だからこそ、自分が死んだ後、彼がどうなったのかがセシリアは気になっていた。

もしクラウスが頷いてくれたなら、彼も一緒に異国へと連れていきたい。彼の淹れるお茶がいつでも飲めるカフェが開けたのなら、どんなに最高だろう。そう思うセシリアなのだった。
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