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Scene 4-2
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帰りの車内でカーラジオから時報が鳴ると、今日火曜日だ、と由依は気が付き、カーナビを操作し始めた。
「どうしたんですか」と俺が訊くと、由依は急に目的地の変更を告げた。
「このまま家に帰るんじゃないですか?」
「いいからここに向かうの」と言うと、ポーチから鏡を取り出して、化粧のノリを入念に確認し始めた。
俺は辟易しながら、カーナビで目的地を確認すると、カーナビが示していたのは寂れた喫茶店だった。喫茶店の近くの駐車場に車を停め、コンクリートだらけの住宅街を由依に案内されるままついて行く。時刻は16時を越えたが、まだ涼しくなる気配はない。熱い砂塵を巻き上げるほど強い風は、湿気と混じり合って、ぬるく俺のシャツをはためかせ、俺がシャツの袖を捲る横で、リバティ柄のシャツとジーンズを優雅に着こなす由依は、さながらノッティングヒルの恋人のジュリア・ロバーツみたいに一人だけ住んでいる世界が違うように見え、なんとなく、俺でも今ならヒュー・グラントの役ならやれそうだ、とか考えながら気だるい家並みを抜けると、ようやく、俺たちは目的の喫茶店にたどり着いた。
扉に吊るされていた鈴の音が静かな店内に鳴り響き、サーブプレートを拭いている気の良さそうな店主と目が合うと、いらっしゃい、と声をかけられ、お好きな席へどうぞ、と手で案内された。由依は迷いなく、カウンターがよく見える窓際の席に座り、由依の向かいに俺も座った。室内は冷房が効いていて、ようやく暑さから解放された俺は汗ばんだシャツの襟をはためかせるように仰ぎながら、灰皿をとって、無断で胸ポケットから取り出したマルボロに火をつけて乾いた口で思い切り煙を吸った。由依も吸うかと思って、向こう側に灰皿を動かしたが、由依は目もくれなかった。
銀色に鈍く輝くオボンに水とお絞りを乗せて、注文を聞きにくる店主に、俺はアイスコーヒーを頼み、由依はカプチーノを注文した。店主が去って行き、吸わないんですか?、と俺が訊くと、ここじゃ吸わないことになっているの、と由依は顔を顰めて指を立てながら俺に注意した。由依は裏から人が出てくる気配を感じると、ミーアキャットみたいにカウンターの方を見る。つられて俺も振り返ってみると、彼女は、店主の奥さんらしき人が出てくるのを見て、なぜかがっかりしたような顔をしていた。頼んだアイスコーヒーとカプチーノが届くと、タバコの匂いが立ち込めている店内の中で、目の前のコーヒーの芳醇な良い匂いが俺の嗅覚を刺激し始めた。そして、気を落としながら、カプチーノを両手で持ち、白い泡を啜るように飲んでいる由依は、裏口からエプロンで手を拭きながら出てくる青年の姿を見て、瞳孔を開いた。
由依はカウンターでテキパキと働く青年をずっと目で追っている。俺は女子高生が好きな男子を目で追っているような彼女を見て、思わず固まった。どのくらい固まっていたのかはわからないが、タバコの灰がテーブルに落ちた頃にようやく頭の整理がついた。
「えっ?」と唖然としながら由依を見ると、マグカップで顔を隠すように照れて笑っていた。
「あの人、素敵じゃない?」
どこにでもいるような青年だった。髪は整髪料で綺麗に整えられていて、髭の剃り跡もほとんどない。多分十代か二十歳そこらだろう。カウンターに座っている常連っぽいお客さんが話しかけると、裏表のない笑顔で爽やかに対応する。育ちのいい純朴な好青年って感じだが、冴えなさそうで、どこか頼りなさげでもあった。
「あれのどこが良いんですか?」と俺は咄嗟に聞いてしまった。あの青年より顔の良い男なんて彼女の周りにはいくらでもいる。話が面白くて、性格のいい芸人や、穏やかで人当たりの良いかっこいい俳優。それらを差し置いて、あの青年に惹かれる彼女の恋心が理解できなかった。
彼女は俺の後ろの席を指差して話し始めた。
「いつもね。六時になると遅くまでそこの席で、本?みたいなものを書いているの。いつも夢中で。その姿をね、眺めていたらなんか気になっちゃった」
夢見心地かのように話しているが、俺にはさっぱり理解できない。彼女は、俺が今まで見たことない顔をさせながら、青年を見つめている。
やけに台本がタバコ臭かったのは彼が原因なのだろう。由依は部屋がタバコ臭くなるのが嫌らしく、基本的にタバコはベランダで吸うことを俺は知っていた。ベランダでタバコを吸いながら読むにしても、あまりにも台本から香るタバコの匂いがキツすぎるな、と思っていたが、彼が執筆する姿を眺めながら長時間ここで台本を読んでいたからなのだ、と考えると、楽屋で湧いた不審感に合点がいった。
「今日は何時位に終わるのかなあ」と呟き、いきなりカプチーノを飲み干し、大きく手を上げてカウンターにいる青年を見た。青年がバインダーを持って、俺らの席にやってくる。彼女は注文を取る青年と目が合うと反射的に視線を逸らし、カプチーノをもう一つ、とうわずる声を抑えて言った。俺は彼女のあどけないやりとりを見ていると、とても奇妙で、汚いものを見ているような気分に陥った。俺はアイスコーヒーをもう一杯頼み、五本目のタバコに火をつけた。
「今日は何時ごろに終わるんですか?」と彼女は訊いた。
「今日は六時です」
時計を見ると店内に入って一時間が経とうとしていた。あと、一時間もしないうちに、その姿が拝めそうだ。
「その後はそこで作業をするの?」
「そのつもりです。あの、女優の玉城由依さんですよね?いつもこの席で台本読んでいますよね。店長が大ファンだって言ってました」
「ありがとうございます」
「コーヒー、すぐにお持ちしますね」と笑顔で言って、伝票を置いてカウンターに戻っていった。
あの彼とはどこまで関係が進展しているのだろうか?、二人のやりとりを見るにそこまでの間柄には見えないが、と自分にとって都合のいいものから、最悪なものまで、絶え間なく考えが頭の中で現れては消えていった。どこまで好きなのだろうか?、この女が落とそうと思えばすぐにあの男なんて落とせるだろうに、なぜ声をかけない?、彼女に興味がなさそうに見えるのはアイツに彼女がいるからなのか?それともゲイか?、俺がくだらないことを考えていることなど露知らず、目の前の由依は、真剣にコーヒーを抽出しミルクを泡立てる青年の様子を、チラチラ見ている。青年はアイスコーヒーとカプチーノを持ってきて、俺らが座っているテーブルに配膳し始めた。
「お兄さん、カッコいいね、彼女は?」と俺がゲイみたいに質問してみる。急な俺の行動に、由依は目を丸くし、そして、青年の交際相手の有無が気になっているのか、うつむき、顔に影を落としている。あからさますぎて、緊張感がこちらまで伝わりそうだ。
「いませんよ」と苦笑いしながら青年が言うと、ホッとしたのか、軽く息をつき、表情が明るくなった。
「ゲイなの?」
「はい?」
「君くらいの歳でそれなりに見た目もよければ、彼女くらい普通いるだろ。女に興味がないのか?目の前にいるのは、人気女優の玉城由依だぜ。そんな女が普通店内にいたら、好きな女でもいなけりゃ気になってしょうがないだろう?なのに、君は由依を気にする素振りすら見せない」
俺はテーブルの禿げ上がったツルツルとした木目を人差し指で撫でながら、退屈そうに茶々を入れる。
「いや、住む世界が違いますし。こんな綺麗な人と僕なんて釣り合わないですよ」
俺がこんな態度を取れば必ず由依は俺にちょっかいをかけてくる。次に何をしてくるかくらいは読める。思い切りその先の尖った靴で俺の脛を蹴るんだろ?。右利きの由依が咄嗟に出すのは右足だ。俺は足を片方に寄せる。案の定、由依の長い足が勢いよく椅子の脚を蹴り上げると、椅子は不自然に床を擦る音を立てた。予想以上に強く蹴ったみたいだ、思い切りつま先をぶつけたせいで目が涙目になっている。俺は青年にバレないように、鼻で笑ってやる。
「彼女、君に気があるみたいだよ」
「本当ですか、ありがとうございます」と礼儀正しく俺の発言を流し、
「僕、そろそろ上がる時間なので。ゆっくりしていってくださいね」と言ってオボンを抱え、こちらに一瞥もくれず裏口へ戻って行った。
別に根に持っているわけじゃないが普段の仕打ちの仕返しだ、と心の中でほくそ笑んで油断していると、由依は、青年がこちらに気を留めないことをいいことに、左足で狙いを定めたように思い切り俺の脛を蹴り上げた。
ジンジンと痛む脛の痛みが引いてきたところで由依に話かけた。
「彼、名前はなんて言うんですか」
珍しく本なんか読んでいる由依に話しかけてみた。どうせ中身なんて理解しちゃいない。三島由紀夫なんて。
「トシって呼ばれてたわ」
「名前も知らないんですか?」
「ちゃんと話したこともないのに知ってるはずないでしょ」
「この前、クスリやってラリってた時に自慢げに男の落とし方を指南してたじゃないですか?そんなに好きならいつも通りにすればいいじゃないですか」
「ちょっと、クスリなんて言わないでよ。あと、外じゃタバコ吸っていることもダメよ。人気商売なの。それに彼にそんなことできるわけないでしょ」
そんなこと気にするのかよ、タバコを吸っているのがバレたくないのは世間にじゃなくて、彼に、だろ。
「あっキタ」
俺は青年の方を振り向いた。青年は、ノートパソコンと、キャンパスノートを広げて作業の準備に取り掛かかろうとすると、コーヒーを運んできた店主と談笑し始めた。執筆作業の参考にしているのか、バッグから取り出した彼の三島由紀夫の本には付箋がビッシリと貼られている。三島由紀夫を読んでいるのはそのわけか。
「その本、どんな内容か知っているの?」と俺は由依に質問した。
「どんなってホモの話じゃないの?」
俺は前髪をかき分けるように額に手を置いて、ヤレヤレと首を振った。
「君が彼と話したいのはわかる。でも本を共通の話題にするのはやめた方がいい」
「どうして?」
「俺もそんなに本を読む方じゃないけど『仮面の告白』は別にホモの話じゃない。確かに初めて読むとホモの話に見えるかもしれないけど。その感想はなんというか、近視眼的だと思う。彼のあの付箋の量を見ればわかる。彼は重度の活字中毒だ。そんな奴とそれをホモの話で片付ける君とじゃ間違いなく話が合わない。せめて純文学とかじゃなくて、もっとわかりやすい本にしなよ」
「たとえば?」
「自分が出た映画の原作小説でも読めばいいだろ。役作りのために読んだりしないの?」
敬語が抜けていることに気づかず、そのまま俺は会話を続けていた。
「映画に出るからって原作まで目を通さないわよ。私は台本を読み込んで役作りするタイプなの。アンソニー・ホプキンスと一緒。デニーロタイプじゃないの」
ちょっと国内で有名になったからって、ハリウッドの名優と比肩するみたいな言い方はどうなのだろうか?。
「それに、私が原作に目を通して勝手に自己解釈したせいで、監督や脚本家の見せたいものと、私の感じたものがかけ離れていたらどうするの?本なんて十人読んだら、みんなバラバラの感じ方をするものでしょ」
確かに一理あるが、詭弁のようにも聞こえる。陽が傾き始め、鷹揚な音楽の流れる店内で場違いにヒソヒソと二人で話していることに店主の視線で気がつき、話題を青年の話に戻そうと、
「オススメの本ならそれこそ彼にきいてみたら」と俺は親指で後ろにいる彼を指差して言った。
そのまま続けてひょうきんな態度で言ってやった。
「いつもみたいに『あなたといると自信が持てるような気がするのー』とか言ってさ」
「そんなこと彼に言えるわけないじゃない」
「ハハん、楽屋でアバズレなんて言われて怒ったのがわかるよ。好きな男の子に話しかける勇気もない少女みたいになるんだから。そりゃ怒るわな。大した女だ」
「何よその言い方」と言って、由依は席を思い切り立ち上がり一度だけ俺の方を力強く睨みつけ、ポーチを持って化粧室に入って行った。一、二分すると戻ってきて、「声くらいかけられるわよ」と言って、マグカップとカバンを持って青年の席まで歩いて行き、作業に集中している青年の真向かいにおしとやかに座った。どうやら俺は彼女を焚きつけてしまったらしい。
「どうしたんですか」と俺が訊くと、由依は急に目的地の変更を告げた。
「このまま家に帰るんじゃないですか?」
「いいからここに向かうの」と言うと、ポーチから鏡を取り出して、化粧のノリを入念に確認し始めた。
俺は辟易しながら、カーナビで目的地を確認すると、カーナビが示していたのは寂れた喫茶店だった。喫茶店の近くの駐車場に車を停め、コンクリートだらけの住宅街を由依に案内されるままついて行く。時刻は16時を越えたが、まだ涼しくなる気配はない。熱い砂塵を巻き上げるほど強い風は、湿気と混じり合って、ぬるく俺のシャツをはためかせ、俺がシャツの袖を捲る横で、リバティ柄のシャツとジーンズを優雅に着こなす由依は、さながらノッティングヒルの恋人のジュリア・ロバーツみたいに一人だけ住んでいる世界が違うように見え、なんとなく、俺でも今ならヒュー・グラントの役ならやれそうだ、とか考えながら気だるい家並みを抜けると、ようやく、俺たちは目的の喫茶店にたどり着いた。
扉に吊るされていた鈴の音が静かな店内に鳴り響き、サーブプレートを拭いている気の良さそうな店主と目が合うと、いらっしゃい、と声をかけられ、お好きな席へどうぞ、と手で案内された。由依は迷いなく、カウンターがよく見える窓際の席に座り、由依の向かいに俺も座った。室内は冷房が効いていて、ようやく暑さから解放された俺は汗ばんだシャツの襟をはためかせるように仰ぎながら、灰皿をとって、無断で胸ポケットから取り出したマルボロに火をつけて乾いた口で思い切り煙を吸った。由依も吸うかと思って、向こう側に灰皿を動かしたが、由依は目もくれなかった。
銀色に鈍く輝くオボンに水とお絞りを乗せて、注文を聞きにくる店主に、俺はアイスコーヒーを頼み、由依はカプチーノを注文した。店主が去って行き、吸わないんですか?、と俺が訊くと、ここじゃ吸わないことになっているの、と由依は顔を顰めて指を立てながら俺に注意した。由依は裏から人が出てくる気配を感じると、ミーアキャットみたいにカウンターの方を見る。つられて俺も振り返ってみると、彼女は、店主の奥さんらしき人が出てくるのを見て、なぜかがっかりしたような顔をしていた。頼んだアイスコーヒーとカプチーノが届くと、タバコの匂いが立ち込めている店内の中で、目の前のコーヒーの芳醇な良い匂いが俺の嗅覚を刺激し始めた。そして、気を落としながら、カプチーノを両手で持ち、白い泡を啜るように飲んでいる由依は、裏口からエプロンで手を拭きながら出てくる青年の姿を見て、瞳孔を開いた。
由依はカウンターでテキパキと働く青年をずっと目で追っている。俺は女子高生が好きな男子を目で追っているような彼女を見て、思わず固まった。どのくらい固まっていたのかはわからないが、タバコの灰がテーブルに落ちた頃にようやく頭の整理がついた。
「えっ?」と唖然としながら由依を見ると、マグカップで顔を隠すように照れて笑っていた。
「あの人、素敵じゃない?」
どこにでもいるような青年だった。髪は整髪料で綺麗に整えられていて、髭の剃り跡もほとんどない。多分十代か二十歳そこらだろう。カウンターに座っている常連っぽいお客さんが話しかけると、裏表のない笑顔で爽やかに対応する。育ちのいい純朴な好青年って感じだが、冴えなさそうで、どこか頼りなさげでもあった。
「あれのどこが良いんですか?」と俺は咄嗟に聞いてしまった。あの青年より顔の良い男なんて彼女の周りにはいくらでもいる。話が面白くて、性格のいい芸人や、穏やかで人当たりの良いかっこいい俳優。それらを差し置いて、あの青年に惹かれる彼女の恋心が理解できなかった。
彼女は俺の後ろの席を指差して話し始めた。
「いつもね。六時になると遅くまでそこの席で、本?みたいなものを書いているの。いつも夢中で。その姿をね、眺めていたらなんか気になっちゃった」
夢見心地かのように話しているが、俺にはさっぱり理解できない。彼女は、俺が今まで見たことない顔をさせながら、青年を見つめている。
やけに台本がタバコ臭かったのは彼が原因なのだろう。由依は部屋がタバコ臭くなるのが嫌らしく、基本的にタバコはベランダで吸うことを俺は知っていた。ベランダでタバコを吸いながら読むにしても、あまりにも台本から香るタバコの匂いがキツすぎるな、と思っていたが、彼が執筆する姿を眺めながら長時間ここで台本を読んでいたからなのだ、と考えると、楽屋で湧いた不審感に合点がいった。
「今日は何時位に終わるのかなあ」と呟き、いきなりカプチーノを飲み干し、大きく手を上げてカウンターにいる青年を見た。青年がバインダーを持って、俺らの席にやってくる。彼女は注文を取る青年と目が合うと反射的に視線を逸らし、カプチーノをもう一つ、とうわずる声を抑えて言った。俺は彼女のあどけないやりとりを見ていると、とても奇妙で、汚いものを見ているような気分に陥った。俺はアイスコーヒーをもう一杯頼み、五本目のタバコに火をつけた。
「今日は何時ごろに終わるんですか?」と彼女は訊いた。
「今日は六時です」
時計を見ると店内に入って一時間が経とうとしていた。あと、一時間もしないうちに、その姿が拝めそうだ。
「その後はそこで作業をするの?」
「そのつもりです。あの、女優の玉城由依さんですよね?いつもこの席で台本読んでいますよね。店長が大ファンだって言ってました」
「ありがとうございます」
「コーヒー、すぐにお持ちしますね」と笑顔で言って、伝票を置いてカウンターに戻っていった。
あの彼とはどこまで関係が進展しているのだろうか?、二人のやりとりを見るにそこまでの間柄には見えないが、と自分にとって都合のいいものから、最悪なものまで、絶え間なく考えが頭の中で現れては消えていった。どこまで好きなのだろうか?、この女が落とそうと思えばすぐにあの男なんて落とせるだろうに、なぜ声をかけない?、彼女に興味がなさそうに見えるのはアイツに彼女がいるからなのか?それともゲイか?、俺がくだらないことを考えていることなど露知らず、目の前の由依は、真剣にコーヒーを抽出しミルクを泡立てる青年の様子を、チラチラ見ている。青年はアイスコーヒーとカプチーノを持ってきて、俺らが座っているテーブルに配膳し始めた。
「お兄さん、カッコいいね、彼女は?」と俺がゲイみたいに質問してみる。急な俺の行動に、由依は目を丸くし、そして、青年の交際相手の有無が気になっているのか、うつむき、顔に影を落としている。あからさますぎて、緊張感がこちらまで伝わりそうだ。
「いませんよ」と苦笑いしながら青年が言うと、ホッとしたのか、軽く息をつき、表情が明るくなった。
「ゲイなの?」
「はい?」
「君くらいの歳でそれなりに見た目もよければ、彼女くらい普通いるだろ。女に興味がないのか?目の前にいるのは、人気女優の玉城由依だぜ。そんな女が普通店内にいたら、好きな女でもいなけりゃ気になってしょうがないだろう?なのに、君は由依を気にする素振りすら見せない」
俺はテーブルの禿げ上がったツルツルとした木目を人差し指で撫でながら、退屈そうに茶々を入れる。
「いや、住む世界が違いますし。こんな綺麗な人と僕なんて釣り合わないですよ」
俺がこんな態度を取れば必ず由依は俺にちょっかいをかけてくる。次に何をしてくるかくらいは読める。思い切りその先の尖った靴で俺の脛を蹴るんだろ?。右利きの由依が咄嗟に出すのは右足だ。俺は足を片方に寄せる。案の定、由依の長い足が勢いよく椅子の脚を蹴り上げると、椅子は不自然に床を擦る音を立てた。予想以上に強く蹴ったみたいだ、思い切りつま先をぶつけたせいで目が涙目になっている。俺は青年にバレないように、鼻で笑ってやる。
「彼女、君に気があるみたいだよ」
「本当ですか、ありがとうございます」と礼儀正しく俺の発言を流し、
「僕、そろそろ上がる時間なので。ゆっくりしていってくださいね」と言ってオボンを抱え、こちらに一瞥もくれず裏口へ戻って行った。
別に根に持っているわけじゃないが普段の仕打ちの仕返しだ、と心の中でほくそ笑んで油断していると、由依は、青年がこちらに気を留めないことをいいことに、左足で狙いを定めたように思い切り俺の脛を蹴り上げた。
ジンジンと痛む脛の痛みが引いてきたところで由依に話かけた。
「彼、名前はなんて言うんですか」
珍しく本なんか読んでいる由依に話しかけてみた。どうせ中身なんて理解しちゃいない。三島由紀夫なんて。
「トシって呼ばれてたわ」
「名前も知らないんですか?」
「ちゃんと話したこともないのに知ってるはずないでしょ」
「この前、クスリやってラリってた時に自慢げに男の落とし方を指南してたじゃないですか?そんなに好きならいつも通りにすればいいじゃないですか」
「ちょっと、クスリなんて言わないでよ。あと、外じゃタバコ吸っていることもダメよ。人気商売なの。それに彼にそんなことできるわけないでしょ」
そんなこと気にするのかよ、タバコを吸っているのがバレたくないのは世間にじゃなくて、彼に、だろ。
「あっキタ」
俺は青年の方を振り向いた。青年は、ノートパソコンと、キャンパスノートを広げて作業の準備に取り掛かかろうとすると、コーヒーを運んできた店主と談笑し始めた。執筆作業の参考にしているのか、バッグから取り出した彼の三島由紀夫の本には付箋がビッシリと貼られている。三島由紀夫を読んでいるのはそのわけか。
「その本、どんな内容か知っているの?」と俺は由依に質問した。
「どんなってホモの話じゃないの?」
俺は前髪をかき分けるように額に手を置いて、ヤレヤレと首を振った。
「君が彼と話したいのはわかる。でも本を共通の話題にするのはやめた方がいい」
「どうして?」
「俺もそんなに本を読む方じゃないけど『仮面の告白』は別にホモの話じゃない。確かに初めて読むとホモの話に見えるかもしれないけど。その感想はなんというか、近視眼的だと思う。彼のあの付箋の量を見ればわかる。彼は重度の活字中毒だ。そんな奴とそれをホモの話で片付ける君とじゃ間違いなく話が合わない。せめて純文学とかじゃなくて、もっとわかりやすい本にしなよ」
「たとえば?」
「自分が出た映画の原作小説でも読めばいいだろ。役作りのために読んだりしないの?」
敬語が抜けていることに気づかず、そのまま俺は会話を続けていた。
「映画に出るからって原作まで目を通さないわよ。私は台本を読み込んで役作りするタイプなの。アンソニー・ホプキンスと一緒。デニーロタイプじゃないの」
ちょっと国内で有名になったからって、ハリウッドの名優と比肩するみたいな言い方はどうなのだろうか?。
「それに、私が原作に目を通して勝手に自己解釈したせいで、監督や脚本家の見せたいものと、私の感じたものがかけ離れていたらどうするの?本なんて十人読んだら、みんなバラバラの感じ方をするものでしょ」
確かに一理あるが、詭弁のようにも聞こえる。陽が傾き始め、鷹揚な音楽の流れる店内で場違いにヒソヒソと二人で話していることに店主の視線で気がつき、話題を青年の話に戻そうと、
「オススメの本ならそれこそ彼にきいてみたら」と俺は親指で後ろにいる彼を指差して言った。
そのまま続けてひょうきんな態度で言ってやった。
「いつもみたいに『あなたといると自信が持てるような気がするのー』とか言ってさ」
「そんなこと彼に言えるわけないじゃない」
「ハハん、楽屋でアバズレなんて言われて怒ったのがわかるよ。好きな男の子に話しかける勇気もない少女みたいになるんだから。そりゃ怒るわな。大した女だ」
「何よその言い方」と言って、由依は席を思い切り立ち上がり一度だけ俺の方を力強く睨みつけ、ポーチを持って化粧室に入って行った。一、二分すると戻ってきて、「声くらいかけられるわよ」と言って、マグカップとカバンを持って青年の席まで歩いて行き、作業に集中している青年の真向かいにおしとやかに座った。どうやら俺は彼女を焚きつけてしまったらしい。
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