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Scene 5-2
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普段の帰り道、いつもなら本のことを考えて足早に帰るだけなのに、今日は隣にとびきりキレイな女の子、なんと女優の玉城由依がいる。普段とは違う歩速、僕は、隣で家々を区切るコンクリートの塀より高く伸びた木々や街頭を眺めながらゆっくりと歩いている彼女の歩速に合わせてゆっくり歩く。彼女は隣で、雲の上を歩くみたいな繊細な足取りで、ヒールの軽快な着地音を閑静な月夜に響かせて歩いている。
「一人で暮らしているの?」
店を出て初めて僕に話しかけてきた。彼女の目は僕の目と同じ高さにある。ヒールを履くと174cmの僕の身長とほとんど変わらない、170手前くらいだ。スラリと伸びた長い足は自分と同じ人種だとは思えないくらい長い。僕が答えようとすると、遠くから急に蛙が一斉に鳴き出した。
「はい、アパートで一人で暮らしています」
「地方から出てきたの?今は大学生?」
「いいえ、大学には去年まで通っていたんですけど、半年前に両親が交通事故で亡くなって。頼れる身よりもいないので、今はフリーターです」
僕が両親の死について話すと、彼女は道路の白線に視線を落とす。訊いてはいけないことを訊いてしまったと思っているのだろうか?。彼女は僕と塀に挟まれ、白線の上からはみ出ないように歩いている。これも何かの練習なのだろうか。
「そう、大変じゃない?」
「いいえ。今お世話になっている喫茶店の店長が父と知り合いだったこともあって、かなり面倒を見てもらっています。今住んでいるところも、店長の知り合いの不動産屋に格安で住まわせてもらっていて。こんな時代ですけど、なんとか不自由しない程度には暮らせています」
僕が身の上話を簡単にすると、彼女は、目を丸くして、何度も頷いた。二人が黙ると、住宅街の生活音が聞こえてくる。湯を沸かす音に、調理音。隣の家からは、魚の焦げた匂いが、ここまで漂ってくる。母親が小学生の息子を呼ぶ声がすると、彼女は声の方向を振り向いた。そして、物思いに耽っているのか、家の様子をしばらく眺めてから、自身の身の上話を始めた。
「そうなんだ。私も両親がいなくてね。今、お世話になっている事務所の社長にずっと面倒見てもらったの。加賀美陽子って知らない?」
「知っています。すごい有名な女優ですよね、今でもよくバラエティ番組とかで見かけます。最近、女優業の方はあんまりですけど。苗字は加賀美じゃないんですね」
「そう。今は事務所の社長業が忙しいからね。玉城はママの前の旦那の苗字。もう再婚したけど。兄妹が私含めて四人いるんだけどね。私だけ、あの人、いや誰とも血が繋がっていないの」
あの人、という彼女の言葉の響きはどこか寂しげだった。家族の中で、自分だけ血のつながりがないなんて想像したこともない。僕は考えてみる。皆の顔に誰かの面影が感じられるのが当たり前の食卓の中で、ふと自分の顔にだけその面影がなかったら。
「しんみりした話じゃないの。みんないい人よ。感謝してる。今の仕事に向いていてよかったわ、恩返しができて」
僕が言葉を見失っていると、「何考えているの?」と訊いてきた。僕はなんて答えようか少し迷う。救われたのは、もう自分のアパートが見えていたことだった。特に、と笑って誤魔化して、あそこが僕のアパートです、と言って話題を切り替えた。
幸い掃除してそんなに経っていないこともあって、僕の部屋は散らかっていなかった。初めてマメな性格に感謝したかもしれない。玉城由依はヒールを脱いで、キチンと揃えて玄関に置き、お邪魔しまーす、と言って、部屋に上がると、彼女より背の高い本棚に並べられている本を興味深そうに眺めた。ここに引っ越してきて初めて、女の子が家にいる。僕は何か見られたくないものがないか、入念に部屋の中をチェックし、何も転がっていない事実に安堵し、どぎまぎしながら、次の行動を取ろうとすると、彼女が僕に話しかけてきた。
「マネージャーに連絡したら、ここに着くまでもう少しかかるから、ちょっとだけ君の家にいてもいいかな?」
「も、もちろん。あのインスタントコーヒーくらいしか用意できないんですけど、何か飲みますか?」
「じゃあコーヒーをちょうだい」
「すぐに用意しますね。あの適当にくつろいで貰って構わないので」
できるだけ使っていないコップを取り出して、中に埃とか変な汚れがないことを確認して、コーヒの粉を入れて湯を注ぐ。カップから立ち上る湯気に気が付き、冷房をつけるのが先だったと後悔する。家に帰ってから、ずっと動悸が止まらない。心臓の音が全身の骨に響き渡りそうなくらい大きく高鳴っている。僕が二人分のカップを持って振り返ると、玉城由依は父が残したファイルを集中して読み込んでいた。僕はテーブルにマグカップを置いて、リモコンで冷房をつける。彼女は、カップの設置音や、スイッチの音、唸るような冷房の音が鳴ってもファイルから目を離さない。僕は気になって、彼女が開いているページを覗き見してみた。女優と脚本家の夫婦が強盗殺人に遭った記事を読んでいる。父が十年以上前に作成した記事だ。確かこの夫婦には娘がいたはず。
「父はジャーナリストで、これらの資料は父が残したものなんです。本当は処分しないといけないんだけど、小説の題材になりそうだから、勝手に僕の家で保管していて。父はその事件の担当だったんです。まだ犯人も捕まっていないんですよね。その記事がどうかしましたか?」と僕は彼女に話しかけた。
「なんでもないの。お父さん、ジャーナリストだったのね。私、ジャーナリストって嫌い。人のあることないこと好き勝手に書いて荒らして」
「ジャーナリストって言っても、父はキチンとしたジャーナリストですから。芸能ゴシップみたいなものを扱っている人たちと違って」と焦って弁明した。
「そう、お父さんどんな人」
「真面目な人です。母も父も、むやみに叱りつけたり殴ったりしないとてもいい両親でした、自分もああなりたいと思えるくらい」
「そうなんだ。これ、あなたが書いている小説?」
彼女は、デスクの上に積まれたコピー用紙に印刷された文章を、優しく指で撫でている。僕は頭を掻いて、ああはい、と言うと、読んでもいい?、と訊いてきた。断りたいが、こんな綺麗な瞳に見つめられたら、断れない。つまらないですよ、と謙遜して恥ずかしげに言うと、インスタントコーヒーを啜りながら、読み始めた。
「面白いよ」物語の冒頭を読み終えた彼女の感心するような眼差しに、僕は思わず、本当に!、と大きな声が零れた。
「本当。今読んでる『仮面の告白』なんかより全然面白い」
エンタメ小説と、純文学を面白さの尺度で比較するのはちょっと違う気もするが、褒められるのは純粋に嬉しい。
「そうだ、さっき言ってた本」と僕は本棚から『命売ります』と『美しい星』を取り出して彼女に手渡した。ありがとう、と言って彼女は受け取り、返さなくてもいいので、気が向いたら読んでください、と僕は言った。彼女はカバンに本をしまい、僕の書いた小説をペラペラめくり始めた。
「でも本当に才能あるのね。すごい引き込まれるし、続きも気になる」と続けてほめた。そうですか?と言うと、「でも素直に喜んでいなさそうなのはなんで?」と訊かれた。
この小説は自分の中ではよくできた方だと思う。ただ、名作と比べると物足りない、とずっと思っていた。彼女は僕がそう思っているのを見透かすように質問した。
「『仮面の告白』とか読むと、うまく言えないんですけど、面白いとかに関わらず、名作って読んでいるとすごいエネルギーみたいなものを感じるんですよね。そして、読後の圧倒的な満足感。確かに僕のも贔屓目?には、よく書けていると思います。ただ、名作と比べると。。。比べるのも烏滸がましいんですけど」
「そうなんだ。難しいのね」とそっぽを向いて小さくため息をつき、こちらを向き直し「また来た時に、読んでもいい?」と笑顔で訊いてきた。
もちろん、と言うと、「あと二十分くらいしたらマネージャーがここに来るの。それで明日の撮影の読み合わせに付き合って欲しいんだけど」とお願いしてきた。映画の台本、プロが作った脚本を読めるなんて、またとないチャンスだ。僕が了承すると、彼女は台本を手渡して、98ページを開いて、と僕に指示した。僕は初めて見る台本を観察するようにパラパラ捲る。余白には大量の書き込み。そして、途中のページになぜか大きく『下手くそ!!』と書いてあった。
僕は何度か咳払いをして、台本に書いてあるセリフを言ってみる。これでいいのだろうか、と首を傾げていると、僕のことなど気にせずに彼女は自分のセリフを言う。セリフを追っていると、二人が苦難を乗り越えて結ばれる恋愛映画のワンシーンだとわかり、ただ言葉を読み上げているだけなのになんだか恥ずかしくなった。普段話すようにセリフを読む僕に対し、彼女は声に気持ちを乗せてセリフを読み上げる。別人と話しているみたいだ。演技をしている姿が今日見たなかで一番綺麗だ。輝いているように見える。読み合わせをしていることを忘れて、彼女に目を奪われていると、僕のセリフの番が来る。なかなかセリフを言わない僕を不審に思い、視線を僕の方に向けて綺麗な瞳でじっと僕の目を見つめる。すると、彼女は僕の肩に手を置いて、唇を軽く重ねてきた。薄くて柔らかい唇だった。僕と彼女は時間が止まったみたいにそのままの状態で何秒か静止した。そして、ゆっくりと彼女は物憂げに目を伏せながら、僕の顔から離れていった。僕がびっくりしながら、彼女を見つめると、玉城由依は照れて視線を落とした。彼女が僕の手に冷えた手を重ねてくる。白くて綺麗な長い指の間を僕はかき分けて、指を交差させると、徐々に僕の指を触る彼女の力が強くなり、二人の温度が合わさってくる。僕は彼女と見つめ合い、緊張のあまり一度唇を舌で濡らす。心臓の鼓動がどんどん大きくなると、体が脈拍だけで出来ているみたいに思えた。頸動脈の上を伝う冷や汗の流れを感じながら、こちらから目を瞑って顔を近づけていくと、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。ハッと握った手を離し、二人で気まずそうにすると、マネージャーが来たみたい、と彼女が照れながら言った。僕が出るよ、と言って、焦って玄関の扉を開けると、つまらなそうな顔をした彼女のマネージャーが立っていた。
彼女は、マネージャーと肩を並べて車まで戯れ合うように会話をしながら歩いて行った。「本、ありがとう、絶対読むね」と車に乗る前に一度こちらを振り向いて大きく手を振って、車に乗り込んだ。僕は、車が見えなくなるまで、こちらを一度でも振り向かないか、と期待しながら、助手席の窓をずっと眺めたが、彼女は振り向かなかった。
二週間、彼女は喫茶店に現れなかった。あの日から、扉の鈴が鳴ると、思わず扉の方を向いてしまう。入ってくるのは、常連のおじさんや老夫婦、親子に、大学生の二人組に、中年のくたびれた営業マン。玉城由依は入ってこない。僕は仕事が終わると、いつも同じ席で小説を書く。向かいの席を見ても台本を読み込む彼女の姿はない。
ある日の昼過ぎ。ランチタイムが終わって少し暇しながら、僕がカウンターで水滴を拭き取った綺麗な柄のカップを棚に戻していると「お騒がせ女優の玉城由依、有名脚本家の田代と熱愛報道だってよ。なんだよ、最近店に現れないのは、ソイツのせいかよ」と常連客の大きな話し声が背後から聞こえて来た。僕は背中がこわばり作業を止めて、店長と常連の会話に耳を傾けた。
「ちょっと、ノブさん声が大きいよ」と店長が宥めると「なんかこの前、転落死した俳優とも実は、って噂があるんだとよ。あんな清純そうな顔して裏ではやることやってんだぜ。あれだよここにきているのだって、どうせ有名人の道楽みたいなものだよ。庶民を見下しにきているんだよ」と丸めた雑誌をカウンターに何度も叩きつけ、タバコを美味しそうに吸っているのか、フー、と煙を吐き出す音がハッキリと聞こえた。
「別に来てくれる理由なんてなんでもいいじゃないか。それにそんな子じゃないよ、彼女は」と店長が庇うと「どうだかねえ」と言って、今度は競馬新聞を広げた。僕は、何を勘違いしているんだ住む世界が違うんだ、と何度も自分の胸に言い聞かせ、作業を再開した。あの日のことは誰にも言っていないが、店長は気を落としている僕を気にするような視線を送って、コーヒーを抽出し始めた。チリーン、と扉の鈴が音を鳴らした。僕は扉の方なんて見向きもしなかった。
「一人で暮らしているの?」
店を出て初めて僕に話しかけてきた。彼女の目は僕の目と同じ高さにある。ヒールを履くと174cmの僕の身長とほとんど変わらない、170手前くらいだ。スラリと伸びた長い足は自分と同じ人種だとは思えないくらい長い。僕が答えようとすると、遠くから急に蛙が一斉に鳴き出した。
「はい、アパートで一人で暮らしています」
「地方から出てきたの?今は大学生?」
「いいえ、大学には去年まで通っていたんですけど、半年前に両親が交通事故で亡くなって。頼れる身よりもいないので、今はフリーターです」
僕が両親の死について話すと、彼女は道路の白線に視線を落とす。訊いてはいけないことを訊いてしまったと思っているのだろうか?。彼女は僕と塀に挟まれ、白線の上からはみ出ないように歩いている。これも何かの練習なのだろうか。
「そう、大変じゃない?」
「いいえ。今お世話になっている喫茶店の店長が父と知り合いだったこともあって、かなり面倒を見てもらっています。今住んでいるところも、店長の知り合いの不動産屋に格安で住まわせてもらっていて。こんな時代ですけど、なんとか不自由しない程度には暮らせています」
僕が身の上話を簡単にすると、彼女は、目を丸くして、何度も頷いた。二人が黙ると、住宅街の生活音が聞こえてくる。湯を沸かす音に、調理音。隣の家からは、魚の焦げた匂いが、ここまで漂ってくる。母親が小学生の息子を呼ぶ声がすると、彼女は声の方向を振り向いた。そして、物思いに耽っているのか、家の様子をしばらく眺めてから、自身の身の上話を始めた。
「そうなんだ。私も両親がいなくてね。今、お世話になっている事務所の社長にずっと面倒見てもらったの。加賀美陽子って知らない?」
「知っています。すごい有名な女優ですよね、今でもよくバラエティ番組とかで見かけます。最近、女優業の方はあんまりですけど。苗字は加賀美じゃないんですね」
「そう。今は事務所の社長業が忙しいからね。玉城はママの前の旦那の苗字。もう再婚したけど。兄妹が私含めて四人いるんだけどね。私だけ、あの人、いや誰とも血が繋がっていないの」
あの人、という彼女の言葉の響きはどこか寂しげだった。家族の中で、自分だけ血のつながりがないなんて想像したこともない。僕は考えてみる。皆の顔に誰かの面影が感じられるのが当たり前の食卓の中で、ふと自分の顔にだけその面影がなかったら。
「しんみりした話じゃないの。みんないい人よ。感謝してる。今の仕事に向いていてよかったわ、恩返しができて」
僕が言葉を見失っていると、「何考えているの?」と訊いてきた。僕はなんて答えようか少し迷う。救われたのは、もう自分のアパートが見えていたことだった。特に、と笑って誤魔化して、あそこが僕のアパートです、と言って話題を切り替えた。
幸い掃除してそんなに経っていないこともあって、僕の部屋は散らかっていなかった。初めてマメな性格に感謝したかもしれない。玉城由依はヒールを脱いで、キチンと揃えて玄関に置き、お邪魔しまーす、と言って、部屋に上がると、彼女より背の高い本棚に並べられている本を興味深そうに眺めた。ここに引っ越してきて初めて、女の子が家にいる。僕は何か見られたくないものがないか、入念に部屋の中をチェックし、何も転がっていない事実に安堵し、どぎまぎしながら、次の行動を取ろうとすると、彼女が僕に話しかけてきた。
「マネージャーに連絡したら、ここに着くまでもう少しかかるから、ちょっとだけ君の家にいてもいいかな?」
「も、もちろん。あのインスタントコーヒーくらいしか用意できないんですけど、何か飲みますか?」
「じゃあコーヒーをちょうだい」
「すぐに用意しますね。あの適当にくつろいで貰って構わないので」
できるだけ使っていないコップを取り出して、中に埃とか変な汚れがないことを確認して、コーヒの粉を入れて湯を注ぐ。カップから立ち上る湯気に気が付き、冷房をつけるのが先だったと後悔する。家に帰ってから、ずっと動悸が止まらない。心臓の音が全身の骨に響き渡りそうなくらい大きく高鳴っている。僕が二人分のカップを持って振り返ると、玉城由依は父が残したファイルを集中して読み込んでいた。僕はテーブルにマグカップを置いて、リモコンで冷房をつける。彼女は、カップの設置音や、スイッチの音、唸るような冷房の音が鳴ってもファイルから目を離さない。僕は気になって、彼女が開いているページを覗き見してみた。女優と脚本家の夫婦が強盗殺人に遭った記事を読んでいる。父が十年以上前に作成した記事だ。確かこの夫婦には娘がいたはず。
「父はジャーナリストで、これらの資料は父が残したものなんです。本当は処分しないといけないんだけど、小説の題材になりそうだから、勝手に僕の家で保管していて。父はその事件の担当だったんです。まだ犯人も捕まっていないんですよね。その記事がどうかしましたか?」と僕は彼女に話しかけた。
「なんでもないの。お父さん、ジャーナリストだったのね。私、ジャーナリストって嫌い。人のあることないこと好き勝手に書いて荒らして」
「ジャーナリストって言っても、父はキチンとしたジャーナリストですから。芸能ゴシップみたいなものを扱っている人たちと違って」と焦って弁明した。
「そう、お父さんどんな人」
「真面目な人です。母も父も、むやみに叱りつけたり殴ったりしないとてもいい両親でした、自分もああなりたいと思えるくらい」
「そうなんだ。これ、あなたが書いている小説?」
彼女は、デスクの上に積まれたコピー用紙に印刷された文章を、優しく指で撫でている。僕は頭を掻いて、ああはい、と言うと、読んでもいい?、と訊いてきた。断りたいが、こんな綺麗な瞳に見つめられたら、断れない。つまらないですよ、と謙遜して恥ずかしげに言うと、インスタントコーヒーを啜りながら、読み始めた。
「面白いよ」物語の冒頭を読み終えた彼女の感心するような眼差しに、僕は思わず、本当に!、と大きな声が零れた。
「本当。今読んでる『仮面の告白』なんかより全然面白い」
エンタメ小説と、純文学を面白さの尺度で比較するのはちょっと違う気もするが、褒められるのは純粋に嬉しい。
「そうだ、さっき言ってた本」と僕は本棚から『命売ります』と『美しい星』を取り出して彼女に手渡した。ありがとう、と言って彼女は受け取り、返さなくてもいいので、気が向いたら読んでください、と僕は言った。彼女はカバンに本をしまい、僕の書いた小説をペラペラめくり始めた。
「でも本当に才能あるのね。すごい引き込まれるし、続きも気になる」と続けてほめた。そうですか?と言うと、「でも素直に喜んでいなさそうなのはなんで?」と訊かれた。
この小説は自分の中ではよくできた方だと思う。ただ、名作と比べると物足りない、とずっと思っていた。彼女は僕がそう思っているのを見透かすように質問した。
「『仮面の告白』とか読むと、うまく言えないんですけど、面白いとかに関わらず、名作って読んでいるとすごいエネルギーみたいなものを感じるんですよね。そして、読後の圧倒的な満足感。確かに僕のも贔屓目?には、よく書けていると思います。ただ、名作と比べると。。。比べるのも烏滸がましいんですけど」
「そうなんだ。難しいのね」とそっぽを向いて小さくため息をつき、こちらを向き直し「また来た時に、読んでもいい?」と笑顔で訊いてきた。
もちろん、と言うと、「あと二十分くらいしたらマネージャーがここに来るの。それで明日の撮影の読み合わせに付き合って欲しいんだけど」とお願いしてきた。映画の台本、プロが作った脚本を読めるなんて、またとないチャンスだ。僕が了承すると、彼女は台本を手渡して、98ページを開いて、と僕に指示した。僕は初めて見る台本を観察するようにパラパラ捲る。余白には大量の書き込み。そして、途中のページになぜか大きく『下手くそ!!』と書いてあった。
僕は何度か咳払いをして、台本に書いてあるセリフを言ってみる。これでいいのだろうか、と首を傾げていると、僕のことなど気にせずに彼女は自分のセリフを言う。セリフを追っていると、二人が苦難を乗り越えて結ばれる恋愛映画のワンシーンだとわかり、ただ言葉を読み上げているだけなのになんだか恥ずかしくなった。普段話すようにセリフを読む僕に対し、彼女は声に気持ちを乗せてセリフを読み上げる。別人と話しているみたいだ。演技をしている姿が今日見たなかで一番綺麗だ。輝いているように見える。読み合わせをしていることを忘れて、彼女に目を奪われていると、僕のセリフの番が来る。なかなかセリフを言わない僕を不審に思い、視線を僕の方に向けて綺麗な瞳でじっと僕の目を見つめる。すると、彼女は僕の肩に手を置いて、唇を軽く重ねてきた。薄くて柔らかい唇だった。僕と彼女は時間が止まったみたいにそのままの状態で何秒か静止した。そして、ゆっくりと彼女は物憂げに目を伏せながら、僕の顔から離れていった。僕がびっくりしながら、彼女を見つめると、玉城由依は照れて視線を落とした。彼女が僕の手に冷えた手を重ねてくる。白くて綺麗な長い指の間を僕はかき分けて、指を交差させると、徐々に僕の指を触る彼女の力が強くなり、二人の温度が合わさってくる。僕は彼女と見つめ合い、緊張のあまり一度唇を舌で濡らす。心臓の鼓動がどんどん大きくなると、体が脈拍だけで出来ているみたいに思えた。頸動脈の上を伝う冷や汗の流れを感じながら、こちらから目を瞑って顔を近づけていくと、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。ハッと握った手を離し、二人で気まずそうにすると、マネージャーが来たみたい、と彼女が照れながら言った。僕が出るよ、と言って、焦って玄関の扉を開けると、つまらなそうな顔をした彼女のマネージャーが立っていた。
彼女は、マネージャーと肩を並べて車まで戯れ合うように会話をしながら歩いて行った。「本、ありがとう、絶対読むね」と車に乗る前に一度こちらを振り向いて大きく手を振って、車に乗り込んだ。僕は、車が見えなくなるまで、こちらを一度でも振り向かないか、と期待しながら、助手席の窓をずっと眺めたが、彼女は振り向かなかった。
二週間、彼女は喫茶店に現れなかった。あの日から、扉の鈴が鳴ると、思わず扉の方を向いてしまう。入ってくるのは、常連のおじさんや老夫婦、親子に、大学生の二人組に、中年のくたびれた営業マン。玉城由依は入ってこない。僕は仕事が終わると、いつも同じ席で小説を書く。向かいの席を見ても台本を読み込む彼女の姿はない。
ある日の昼過ぎ。ランチタイムが終わって少し暇しながら、僕がカウンターで水滴を拭き取った綺麗な柄のカップを棚に戻していると「お騒がせ女優の玉城由依、有名脚本家の田代と熱愛報道だってよ。なんだよ、最近店に現れないのは、ソイツのせいかよ」と常連客の大きな話し声が背後から聞こえて来た。僕は背中がこわばり作業を止めて、店長と常連の会話に耳を傾けた。
「ちょっと、ノブさん声が大きいよ」と店長が宥めると「なんかこの前、転落死した俳優とも実は、って噂があるんだとよ。あんな清純そうな顔して裏ではやることやってんだぜ。あれだよここにきているのだって、どうせ有名人の道楽みたいなものだよ。庶民を見下しにきているんだよ」と丸めた雑誌をカウンターに何度も叩きつけ、タバコを美味しそうに吸っているのか、フー、と煙を吐き出す音がハッキリと聞こえた。
「別に来てくれる理由なんてなんでもいいじゃないか。それにそんな子じゃないよ、彼女は」と店長が庇うと「どうだかねえ」と言って、今度は競馬新聞を広げた。僕は、何を勘違いしているんだ住む世界が違うんだ、と何度も自分の胸に言い聞かせ、作業を再開した。あの日のことは誰にも言っていないが、店長は気を落としている僕を気にするような視線を送って、コーヒーを抽出し始めた。チリーン、と扉の鈴が音を鳴らした。僕は扉の方なんて見向きもしなかった。
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