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Scene 9-2
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翌朝、寝ぼけ眼を擦りながらバイト先の裏口の扉を開けると玉城由依と鉢合わせた。普段より化粧が薄い?、清楚に見える彼女に僕は急にドギマギした。一晩寝て、色々な感情と折り合いをつけた。彼女とは住む世界が違う、それだけの話なんだと。
「おはよう」
「おはようございます。よく眠れましたか?」とよそよそしい、質問を投げかける。
「うん、近藤さんのおかげでよく眠れた。一日寝たら、少し落ち着いた」
店長の名前は近藤勇という。新撰組の局長と同じ名前だ。
「香代子さんも、すごい気さくで良い人。昨日は本当にごめんね。いきなり押しかけちゃって」
「良いんですよ。今日はこの後仕事ですか?」
「ううん、今日はオフ。部屋で台本を読み込んでセリフを覚える予定」
華やかな世界だが、体型の維持や、台本の読み込みや、役作りなど、働いている時間以外でも仕事があるみたいだ。あんな大変なことがあったのにオフらしいオフはないのか、と僕は思った。今朝のニュースで、熱愛報道の渦中にあった脚本家の田代幸三が玉城由依の熱狂的なファンにナイフで刺されて死んだ、と知った。たまたま、現場に居合わせたカメラマンが容疑者の顔を撮っていたおかげで、容疑者は判明しているが、現在、逃亡中で行方不明らしい。昨日、私のせいで死んだ、と言っていたのはこのことだったのか、と今朝僕は理解し、なんて他人行儀な態度を取ったのだろうと、自責の念に駆られた。昨日より明るい彼女の表情に少しだけ救われ、もっと話していたいと思ったが、時計を見ると、急いで着替えて仕事に取り掛からねばならないことに気が付き、すみません遅刻してしまうので、と言って、いそいそと彼女の横を通ると、朝から爽やかなとても良い香りが僕の鼻を掠めた。
「店長おはようございます!」と元気よく言うと、モーニングコーヒーを淹れている店長がドリッパーの上で膨らむコーヒーの粉の様子から決して目を離さず「トシ、おはよう」と声をかけた。
「トシくん、おはよう。なんかいつもより元気ね。良いことでもあった?」
「香代子さんもおはようございます。本当ですか、いつも通りですよ」
今日の朝の店内は、散歩帰りに店長のモーニングコーヒーを飲みに来ている老夫婦でいっぱいだった。60歳を越えて、散歩途中に喫茶店に来て、タバコを吸っている夫婦の旦那さんを見ると、健康志向なのか、ただの娯楽好きなのか、よくわからない。ただ、他人の目など気にせず、パートナーと一緒に自分の好きなことをしている人は、とても精力的で、人生を謳歌しているように見えた。朝早くのシフトは、個人的に一番気に入っていて、楽しげに喫茶店の雰囲気を味わっている老夫婦を見ると、将来への不安がかき消されるおかげで仕事終わりの執筆にいつも集中できる。反面、昼からのシフトは、くたびれたサラリーマンや、青春真っ最中の同年代を見て、ながば辟易しながら、くたくたになって家路につくことが多い。自分の好きな時間帯はそろそろ終わろうとしていた、あと五分したら昼休憩で、ランチタイムが終わり、閑散とした時間を終えると、気だるい時間がやってくる。
僕は賄いのサンドイッチを持って、屋上に向かって階段を登っていた。昼休憩はいつも屋上で取る。ビーチパラソルの下のハンモックに寝っ転がって、風を肌に浴び、日陰で本を読みながら、ダラダラ、休憩を取るのが一番の楽しみ方だ。僕は本を脇に挟み、コーヒーとサンドイッチで塞がった両手で、器用に屋上の入り口の扉を開けると、高く昇った太陽に照らされ、薄灰色の乾燥したコンクリートの上で、台本を読み上げている玉城由依の姿を目でとらえた。彼女がセリフを読み上げると、目の前に相手がいるように錯覚する。彼女の目には、ここが映画のセットに見えているのかもしれない。練習のはずなのに、そのくらい鬼気迫るものが彼女の立ち振る舞いにはあった。僕が扉の前で呆然と彼女のことを眺めていると、背後で鳴った、バタン、と扉の閉まる音のせいで、彼女は僕の方を振り向き、人の訪れに気がついた。
「お疲れさま」
風が吹くと、金色の髪をはためかせ、髪を耳にかける。気まずそうに笑ってお辞儀するだけで、キラキラした粒子がこちらまで飛んでくるような気分になる。
「すみません、邪魔しちゃって」と僕が言うと、
「ああ、いいの。休憩?、ここ使う?」と屋上を去ろうとするので、
「大丈夫です。あのそこのハンモック使いますか?、僕はその辺でいいので」と僕は引き止めた。
「ハンモックは大丈夫。ここ良いところね、ちょっと日差しが強いけど、なんか落ち着く。いつもここで休憩しているの?」
「はい、店長が好きに使って良いと言うので、ここは僕のお気に入りなんです」
「それじゃあ、邪魔しちゃったのね」
「いいえ、そんなことないです。ずっといてください」
僕はテーブルの上に、本を置いて、ハンモックの上に身を投げて、サンドイッチを頬張った。普段なら、気にしないのに、自分がとてもだらしない姿勢で、食事をしていることに気がつくと、サッと、身を起こし、綺麗な姿勢で食事を始めた。本を読みながら、サンドイッチを食べている横で、彼女は同じセリフで何度もつっかえる。僕がサンドイッチを食べ終わり、
「そこのセリフでいつもつっかえていますね」と声をかけてみると、
「そうなのよ。どうしても、言い回しがね」と困った顔をして、返事をする。
「ちょっと見せてもらっても良いですか?」と言うと、彼女は台本を僕に手渡して、
「ここのセリフがどうしてもね。長い上に覚えにくいの。なんか、いい回しも難しいし」と該当のセリフに指を差す。
僕はセリフを読んで、頭の中で音読してみると、確かに独特の言い回しだった。素人ながら、少し書きかえてみたい衝動に駆られ、
「セリフって多少書き変えても大丈夫なんですか?」と訊いた。
「人によるけど、相談したら、自分が演技しやすいように多少変えてもいいよって言われたわ。そんなこと言われても思いつかないけど」
「そうなんですか、ちょっと変えてみても良いですか?」と質問した。
彼女が、良いよ、と言うので、僕は胸ポケットから、ボールペンを取り出し、台本の最終ページにニュアンスを変えないように新たなセリフを書いてみた。左利きなので、インクが手で擦れて、台本を汚さないように気をつけながら、できるだけ丁寧な字でセリフを書く。彼女は、目の前の椅子に座り、僕が台本にセリフを書き込む様子を覗き込む。距離が近づくにつれて、心臓の鼓動が早くなり、気が散っていく。頭の中で組み上げた、無数の言葉の羅列が、消えゆくのを防いでなんとかセリフを書き切って、台本を手渡すと、僕が書いたセリフを彼女が眉根を寄せながら、真剣な面持ちで、吟味し、気持ちを乗せて、読み上げた。
「すごい、こっちの方がしっくり来る。流石!」と僕の方を見る彼女の感動している表情を見て、思わずホッとした。彼女は小声で僕が書いたセリフを反芻する。
「本当に、すごい文才ね。そういえば、この前借りた本も、すごい面白かった。三島由紀夫って、もっと難解で、自分の芸術がわかるやつだけ自分の作品を読めば良いくらいの、傲慢な表現者だと思ってた」
「そんなことないですよ。見慣れない日本語が大量に出てくるだけで、慣れると、頭の中で文章が心地よく響くようになりますよ」
こんな風に同年代と他愛ない休憩をしてみると、僕には慣れた日常にたまに入ってくる刺激みたいでとても楽しかった。本の話だけでなく昔流行ったバラエティ番組やドラマや音楽の話をしていると、あっという間に時間が過ぎ、時間を忘れて話し合っていたら、屋上の扉から、「おーい、トシ。いつまで、休憩しているんだ」と店長が呼びに来た。もっと話していたかったが、彼女の腕時計を盗み見ると、もう休憩終了時間の五分後だった。慌てて食器を片付けて、また後で、と仕事に戻ると、ニッコリ笑って、玉城由依は僕を見送った。
今日はいつもよりお客さんが多く、閉店時間の九時まで働き、僕が閉店後、店内の清掃をしていると、テーブルで、店長夫妻と玉城由依が三人で話し合っているのを見かけ、気になって聞き耳を立てて、会話を聞いた。
玉城由依は、申し訳なさそうに、
「本当に、しばらくここでお世話になっても良いんですか?」と店長の奥さんに尋ねていた。
「構わないよ。娘が出来たみたいで嬉しいよ。ねえ、あなた」
「今回の騒動が収束するまで、いてくれて構わないよ。事務所の方々は何て言っているのかね」
「マスコミから身を隠せるなら、どこでも良いと」
「ウチのことについては聞いたかい」
「ええ。事務所の人は、私と相手がいいなら、ここで大丈夫じゃないか、とおっしゃっていました」
「それならいいじゃないか。もう時期、荷物も届けてくれるのだろ?」
「はい、ただ、本当に良いんですか?。もしバレたら、二人にご迷惑がかかるかも」
「若い子が、そんな風に、老人に気を使うもんじゃないよ。僕たちには人生経験がある。的確に対処してみせるさ」
「ありがとうございます。本当になんとお礼を言っていいか。あの、きちんとお金は支払います」
「お金なんていいんだよ。もらったところで使い道がない。まだ、生い先が短いって歳でもないが、あの世に持っていけないものを貰ってもしょうがない。その上、子供もいないんだ。老後の資金は貯めてあるし、大丈夫だよ」
「いえ、そんなわけには、何かお礼をしないと」
僕が話している様子を覗くと、店長夫妻はお互い見合わせ、玉城由依の厚意を受け取るべきか否か、思案している。そこで香代子さんがひらめき、
「それなら、由依ちゃん、女優業の合間でいいから、ウチで働かない?」と提案した。
「私がですか?」
「香代子、大女優に何言ってるんだよ。失礼じゃないか」
「いいじゃない。あなただって人手が欲しいって言ってたし。マスクとメガネでもすれば、バレないわよ」
「そう言うことを言っているんじゃなくて」
「トシくんだって、同年代の子がいた方が楽しいわよ」
「私は全然大丈夫です」と言うと、僕は驚き、思わず咽せかえり、そして、皆がコチラを向いた。僕は話を聴いていないふりをしてそそくさと仕事に戻った。
「そうは言ってもなあ」と店長は腕を組んで難しい顔をしながら、上を向いた。
「お願いします!。役作りの勉強にもなりますし、何より、私、アルバイトとかしたことないので、是非やってみたいです!」
香代子さんは自分の意見を半ば押し通すように、
「じゃあ、明日からよろしくね。明日の予定は」と訊いた。
「夕方から撮影なので、朝から働けます!」
「そう、じゃお願い」と香代子さんが言うと、「おいおい、夕方から撮影があるのに、朝から働かせちゃダメだろ」と店長は制止するも、「大丈夫です。私、体力には自信があるので」と玉城由依は、力こぶを作るように細くて白い腕を折り曲げた。
「じゃあ、そこにいる先輩に挨拶して来ないと」と香代子さんが促すと、ホコリを塵取りで回収している僕の方に、笑顔でトコトコやってきて、「トシくん。いや、先輩、明日からお世話になります」と不自然な姿勢で固まっている僕にお辞儀をした。えらい事になった、と思いながら、硬い笑顔で、どうもよろしく、と吃り気味に返事をすると、女性のマネージャーが彼女の荷物を届けに来た。
寝苦しい暑さに強引に起こされて、僕は昼からのシフトなのに、少し早めに喫茶店に向かって、朝の九時から、いつもの席で、執筆や資料をまとめたりして時間を過ごした。僕は、扉が開くたびに厨房を覗き込み、彼女の姿の有無を確認した。この席からだと、厨房の様子がよく見えない。結局、店長が香代子さんたちを説得したのだろう、そんな夢みたいなことあるか、と思いながら、全く集中できずに作業を続け、出勤五分前に着替えを済ませ、厨房に行くと、「あ、先輩、おはようございます」と休憩から戻ってくる玉城由依に元気よく声をかけられた。まだ夢の中にいるのかもしれない。
「おはようございます」と僕が気分を落ち着かせて言うと、
「どうしたんですか。先輩元気ないですよ」と彼女が言うので、
「あの普段通りで良いですよ」と言った。
「どうして」と彼女は僕に訊くので、
「いや、なんかこそばゆくて」と後頭部を撫でて言うと、
「そう、じゃあ、いつも通りにするね」と、言って、「香代子さーん休憩から戻ってきましたー」とホールに向かって冴え渡る声で呼びかけた。
玉城由依は、ワイシャツにジーンズを履き、アイロンがけされ綺麗に皺の伸びた黒いエプロンを身につけている。エプロンの紐をキツく後ろで結んでいるせいでくびれた腰が強調されている。香代子さんに教わった通りテキパキと食器を片付けるたびに、頭のブロンドのポニーテールが可愛くふわりと揺れる。香代子さんが何かを教えると、一生懸命にメモをとる。目が大きく、顔が小さいせいで、異様に黒ぶちメガネが大きく見えた。マスクをしていても、本当に気づかれないだろうか、と必要のないはずの不安に駆られていると、「トシ。早くこっちきて、注文とって」と店長が扉を開けて僕を呼んだ。
香代子さんは、喫茶店を始めて、初めて入ってきた同性のアルバイトがいて、いつもよりハキハキしていた。香代子さんの和やかな性格と、玉城由依の勤勉なところが相まって、二人はすぐに打ち解けていた。僕と香代子さんで代わる代わる簡単な裏方仕事から教えいていくと、普段からセリフを暗記しているおかげなのか、一度言われたことは、大抵、その場で覚えてしまう。驚くべきは、僕が新品のコーラの瓶が詰め込まれた黄色いビールケースを彼女の代わりに台車に乗せようとすると、大丈夫、と言って、軽々持ち上げて、えい、と器用に台車に乗せてしまうことだった。彼女は、重たいものを持つことや水仕事も、文句一つ言わずにこなす。むしろ重たい物に関しては、店長らの代わりに打って出るほどだった。彼女はとにかく仕事が出来た、現金なところのある店長は、はじめは疑問視して、あまり仕事を教えようとしなかったが、働き始めて二週間もすると彼女の裁量を増やして行った。
そして、一ヶ月が経ち、僕と玉城さんの二人で閉めの作業をしていると、給与明細と茶色い封筒を持った店長が僕たちの前にやってきた。
「はい今月分の給料」と僕に給与明細を手渡し、
「由依ちゃんにはこっち。少ないけど」と茶色い封筒を手渡した。
「お世話になっているのに、そんないただけません」
「君がいて、とても助かったんだ。労働には、きちんと対価を支払わないのがルールだから。もし、生活費とかのことを気にしているなら大丈夫。きちんと、雑費は差し引いてあるから。さあ、受け取って」とニコヤカに店長は封筒を手渡した。
「ありがとうございます」と言って、裏に行き金額を確認して、満足そうに唇を噛み、こぼれる笑顔を我慢していた。そして、封筒をエプロンのポケットに丁寧にしまって、「ねえ、明日オフだよね。時間ある?」と僕に訊いてきた。
「あるけど。どうして?」
「ねえ、買い物しに行こ」と僕を誘った。
「おはよう」
「おはようございます。よく眠れましたか?」とよそよそしい、質問を投げかける。
「うん、近藤さんのおかげでよく眠れた。一日寝たら、少し落ち着いた」
店長の名前は近藤勇という。新撰組の局長と同じ名前だ。
「香代子さんも、すごい気さくで良い人。昨日は本当にごめんね。いきなり押しかけちゃって」
「良いんですよ。今日はこの後仕事ですか?」
「ううん、今日はオフ。部屋で台本を読み込んでセリフを覚える予定」
華やかな世界だが、体型の維持や、台本の読み込みや、役作りなど、働いている時間以外でも仕事があるみたいだ。あんな大変なことがあったのにオフらしいオフはないのか、と僕は思った。今朝のニュースで、熱愛報道の渦中にあった脚本家の田代幸三が玉城由依の熱狂的なファンにナイフで刺されて死んだ、と知った。たまたま、現場に居合わせたカメラマンが容疑者の顔を撮っていたおかげで、容疑者は判明しているが、現在、逃亡中で行方不明らしい。昨日、私のせいで死んだ、と言っていたのはこのことだったのか、と今朝僕は理解し、なんて他人行儀な態度を取ったのだろうと、自責の念に駆られた。昨日より明るい彼女の表情に少しだけ救われ、もっと話していたいと思ったが、時計を見ると、急いで着替えて仕事に取り掛からねばならないことに気が付き、すみません遅刻してしまうので、と言って、いそいそと彼女の横を通ると、朝から爽やかなとても良い香りが僕の鼻を掠めた。
「店長おはようございます!」と元気よく言うと、モーニングコーヒーを淹れている店長がドリッパーの上で膨らむコーヒーの粉の様子から決して目を離さず「トシ、おはよう」と声をかけた。
「トシくん、おはよう。なんかいつもより元気ね。良いことでもあった?」
「香代子さんもおはようございます。本当ですか、いつも通りですよ」
今日の朝の店内は、散歩帰りに店長のモーニングコーヒーを飲みに来ている老夫婦でいっぱいだった。60歳を越えて、散歩途中に喫茶店に来て、タバコを吸っている夫婦の旦那さんを見ると、健康志向なのか、ただの娯楽好きなのか、よくわからない。ただ、他人の目など気にせず、パートナーと一緒に自分の好きなことをしている人は、とても精力的で、人生を謳歌しているように見えた。朝早くのシフトは、個人的に一番気に入っていて、楽しげに喫茶店の雰囲気を味わっている老夫婦を見ると、将来への不安がかき消されるおかげで仕事終わりの執筆にいつも集中できる。反面、昼からのシフトは、くたびれたサラリーマンや、青春真っ最中の同年代を見て、ながば辟易しながら、くたくたになって家路につくことが多い。自分の好きな時間帯はそろそろ終わろうとしていた、あと五分したら昼休憩で、ランチタイムが終わり、閑散とした時間を終えると、気だるい時間がやってくる。
僕は賄いのサンドイッチを持って、屋上に向かって階段を登っていた。昼休憩はいつも屋上で取る。ビーチパラソルの下のハンモックに寝っ転がって、風を肌に浴び、日陰で本を読みながら、ダラダラ、休憩を取るのが一番の楽しみ方だ。僕は本を脇に挟み、コーヒーとサンドイッチで塞がった両手で、器用に屋上の入り口の扉を開けると、高く昇った太陽に照らされ、薄灰色の乾燥したコンクリートの上で、台本を読み上げている玉城由依の姿を目でとらえた。彼女がセリフを読み上げると、目の前に相手がいるように錯覚する。彼女の目には、ここが映画のセットに見えているのかもしれない。練習のはずなのに、そのくらい鬼気迫るものが彼女の立ち振る舞いにはあった。僕が扉の前で呆然と彼女のことを眺めていると、背後で鳴った、バタン、と扉の閉まる音のせいで、彼女は僕の方を振り向き、人の訪れに気がついた。
「お疲れさま」
風が吹くと、金色の髪をはためかせ、髪を耳にかける。気まずそうに笑ってお辞儀するだけで、キラキラした粒子がこちらまで飛んでくるような気分になる。
「すみません、邪魔しちゃって」と僕が言うと、
「ああ、いいの。休憩?、ここ使う?」と屋上を去ろうとするので、
「大丈夫です。あのそこのハンモック使いますか?、僕はその辺でいいので」と僕は引き止めた。
「ハンモックは大丈夫。ここ良いところね、ちょっと日差しが強いけど、なんか落ち着く。いつもここで休憩しているの?」
「はい、店長が好きに使って良いと言うので、ここは僕のお気に入りなんです」
「それじゃあ、邪魔しちゃったのね」
「いいえ、そんなことないです。ずっといてください」
僕はテーブルの上に、本を置いて、ハンモックの上に身を投げて、サンドイッチを頬張った。普段なら、気にしないのに、自分がとてもだらしない姿勢で、食事をしていることに気がつくと、サッと、身を起こし、綺麗な姿勢で食事を始めた。本を読みながら、サンドイッチを食べている横で、彼女は同じセリフで何度もつっかえる。僕がサンドイッチを食べ終わり、
「そこのセリフでいつもつっかえていますね」と声をかけてみると、
「そうなのよ。どうしても、言い回しがね」と困った顔をして、返事をする。
「ちょっと見せてもらっても良いですか?」と言うと、彼女は台本を僕に手渡して、
「ここのセリフがどうしてもね。長い上に覚えにくいの。なんか、いい回しも難しいし」と該当のセリフに指を差す。
僕はセリフを読んで、頭の中で音読してみると、確かに独特の言い回しだった。素人ながら、少し書きかえてみたい衝動に駆られ、
「セリフって多少書き変えても大丈夫なんですか?」と訊いた。
「人によるけど、相談したら、自分が演技しやすいように多少変えてもいいよって言われたわ。そんなこと言われても思いつかないけど」
「そうなんですか、ちょっと変えてみても良いですか?」と質問した。
彼女が、良いよ、と言うので、僕は胸ポケットから、ボールペンを取り出し、台本の最終ページにニュアンスを変えないように新たなセリフを書いてみた。左利きなので、インクが手で擦れて、台本を汚さないように気をつけながら、できるだけ丁寧な字でセリフを書く。彼女は、目の前の椅子に座り、僕が台本にセリフを書き込む様子を覗き込む。距離が近づくにつれて、心臓の鼓動が早くなり、気が散っていく。頭の中で組み上げた、無数の言葉の羅列が、消えゆくのを防いでなんとかセリフを書き切って、台本を手渡すと、僕が書いたセリフを彼女が眉根を寄せながら、真剣な面持ちで、吟味し、気持ちを乗せて、読み上げた。
「すごい、こっちの方がしっくり来る。流石!」と僕の方を見る彼女の感動している表情を見て、思わずホッとした。彼女は小声で僕が書いたセリフを反芻する。
「本当に、すごい文才ね。そういえば、この前借りた本も、すごい面白かった。三島由紀夫って、もっと難解で、自分の芸術がわかるやつだけ自分の作品を読めば良いくらいの、傲慢な表現者だと思ってた」
「そんなことないですよ。見慣れない日本語が大量に出てくるだけで、慣れると、頭の中で文章が心地よく響くようになりますよ」
こんな風に同年代と他愛ない休憩をしてみると、僕には慣れた日常にたまに入ってくる刺激みたいでとても楽しかった。本の話だけでなく昔流行ったバラエティ番組やドラマや音楽の話をしていると、あっという間に時間が過ぎ、時間を忘れて話し合っていたら、屋上の扉から、「おーい、トシ。いつまで、休憩しているんだ」と店長が呼びに来た。もっと話していたかったが、彼女の腕時計を盗み見ると、もう休憩終了時間の五分後だった。慌てて食器を片付けて、また後で、と仕事に戻ると、ニッコリ笑って、玉城由依は僕を見送った。
今日はいつもよりお客さんが多く、閉店時間の九時まで働き、僕が閉店後、店内の清掃をしていると、テーブルで、店長夫妻と玉城由依が三人で話し合っているのを見かけ、気になって聞き耳を立てて、会話を聞いた。
玉城由依は、申し訳なさそうに、
「本当に、しばらくここでお世話になっても良いんですか?」と店長の奥さんに尋ねていた。
「構わないよ。娘が出来たみたいで嬉しいよ。ねえ、あなた」
「今回の騒動が収束するまで、いてくれて構わないよ。事務所の方々は何て言っているのかね」
「マスコミから身を隠せるなら、どこでも良いと」
「ウチのことについては聞いたかい」
「ええ。事務所の人は、私と相手がいいなら、ここで大丈夫じゃないか、とおっしゃっていました」
「それならいいじゃないか。もう時期、荷物も届けてくれるのだろ?」
「はい、ただ、本当に良いんですか?。もしバレたら、二人にご迷惑がかかるかも」
「若い子が、そんな風に、老人に気を使うもんじゃないよ。僕たちには人生経験がある。的確に対処してみせるさ」
「ありがとうございます。本当になんとお礼を言っていいか。あの、きちんとお金は支払います」
「お金なんていいんだよ。もらったところで使い道がない。まだ、生い先が短いって歳でもないが、あの世に持っていけないものを貰ってもしょうがない。その上、子供もいないんだ。老後の資金は貯めてあるし、大丈夫だよ」
「いえ、そんなわけには、何かお礼をしないと」
僕が話している様子を覗くと、店長夫妻はお互い見合わせ、玉城由依の厚意を受け取るべきか否か、思案している。そこで香代子さんがひらめき、
「それなら、由依ちゃん、女優業の合間でいいから、ウチで働かない?」と提案した。
「私がですか?」
「香代子、大女優に何言ってるんだよ。失礼じゃないか」
「いいじゃない。あなただって人手が欲しいって言ってたし。マスクとメガネでもすれば、バレないわよ」
「そう言うことを言っているんじゃなくて」
「トシくんだって、同年代の子がいた方が楽しいわよ」
「私は全然大丈夫です」と言うと、僕は驚き、思わず咽せかえり、そして、皆がコチラを向いた。僕は話を聴いていないふりをしてそそくさと仕事に戻った。
「そうは言ってもなあ」と店長は腕を組んで難しい顔をしながら、上を向いた。
「お願いします!。役作りの勉強にもなりますし、何より、私、アルバイトとかしたことないので、是非やってみたいです!」
香代子さんは自分の意見を半ば押し通すように、
「じゃあ、明日からよろしくね。明日の予定は」と訊いた。
「夕方から撮影なので、朝から働けます!」
「そう、じゃお願い」と香代子さんが言うと、「おいおい、夕方から撮影があるのに、朝から働かせちゃダメだろ」と店長は制止するも、「大丈夫です。私、体力には自信があるので」と玉城由依は、力こぶを作るように細くて白い腕を折り曲げた。
「じゃあ、そこにいる先輩に挨拶して来ないと」と香代子さんが促すと、ホコリを塵取りで回収している僕の方に、笑顔でトコトコやってきて、「トシくん。いや、先輩、明日からお世話になります」と不自然な姿勢で固まっている僕にお辞儀をした。えらい事になった、と思いながら、硬い笑顔で、どうもよろしく、と吃り気味に返事をすると、女性のマネージャーが彼女の荷物を届けに来た。
寝苦しい暑さに強引に起こされて、僕は昼からのシフトなのに、少し早めに喫茶店に向かって、朝の九時から、いつもの席で、執筆や資料をまとめたりして時間を過ごした。僕は、扉が開くたびに厨房を覗き込み、彼女の姿の有無を確認した。この席からだと、厨房の様子がよく見えない。結局、店長が香代子さんたちを説得したのだろう、そんな夢みたいなことあるか、と思いながら、全く集中できずに作業を続け、出勤五分前に着替えを済ませ、厨房に行くと、「あ、先輩、おはようございます」と休憩から戻ってくる玉城由依に元気よく声をかけられた。まだ夢の中にいるのかもしれない。
「おはようございます」と僕が気分を落ち着かせて言うと、
「どうしたんですか。先輩元気ないですよ」と彼女が言うので、
「あの普段通りで良いですよ」と言った。
「どうして」と彼女は僕に訊くので、
「いや、なんかこそばゆくて」と後頭部を撫でて言うと、
「そう、じゃあ、いつも通りにするね」と、言って、「香代子さーん休憩から戻ってきましたー」とホールに向かって冴え渡る声で呼びかけた。
玉城由依は、ワイシャツにジーンズを履き、アイロンがけされ綺麗に皺の伸びた黒いエプロンを身につけている。エプロンの紐をキツく後ろで結んでいるせいでくびれた腰が強調されている。香代子さんに教わった通りテキパキと食器を片付けるたびに、頭のブロンドのポニーテールが可愛くふわりと揺れる。香代子さんが何かを教えると、一生懸命にメモをとる。目が大きく、顔が小さいせいで、異様に黒ぶちメガネが大きく見えた。マスクをしていても、本当に気づかれないだろうか、と必要のないはずの不安に駆られていると、「トシ。早くこっちきて、注文とって」と店長が扉を開けて僕を呼んだ。
香代子さんは、喫茶店を始めて、初めて入ってきた同性のアルバイトがいて、いつもよりハキハキしていた。香代子さんの和やかな性格と、玉城由依の勤勉なところが相まって、二人はすぐに打ち解けていた。僕と香代子さんで代わる代わる簡単な裏方仕事から教えいていくと、普段からセリフを暗記しているおかげなのか、一度言われたことは、大抵、その場で覚えてしまう。驚くべきは、僕が新品のコーラの瓶が詰め込まれた黄色いビールケースを彼女の代わりに台車に乗せようとすると、大丈夫、と言って、軽々持ち上げて、えい、と器用に台車に乗せてしまうことだった。彼女は、重たいものを持つことや水仕事も、文句一つ言わずにこなす。むしろ重たい物に関しては、店長らの代わりに打って出るほどだった。彼女はとにかく仕事が出来た、現金なところのある店長は、はじめは疑問視して、あまり仕事を教えようとしなかったが、働き始めて二週間もすると彼女の裁量を増やして行った。
そして、一ヶ月が経ち、僕と玉城さんの二人で閉めの作業をしていると、給与明細と茶色い封筒を持った店長が僕たちの前にやってきた。
「はい今月分の給料」と僕に給与明細を手渡し、
「由依ちゃんにはこっち。少ないけど」と茶色い封筒を手渡した。
「お世話になっているのに、そんないただけません」
「君がいて、とても助かったんだ。労働には、きちんと対価を支払わないのがルールだから。もし、生活費とかのことを気にしているなら大丈夫。きちんと、雑費は差し引いてあるから。さあ、受け取って」とニコヤカに店長は封筒を手渡した。
「ありがとうございます」と言って、裏に行き金額を確認して、満足そうに唇を噛み、こぼれる笑顔を我慢していた。そして、封筒をエプロンのポケットに丁寧にしまって、「ねえ、明日オフだよね。時間ある?」と僕に訊いてきた。
「あるけど。どうして?」
「ねえ、買い物しに行こ」と僕を誘った。
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