花カマキリ

真船遥

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Scene 9-3

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 休日の吉祥寺は殷賑としていた。たまに、ふらっとやってくるが、やっぱり武蔵野市は良い。地域に根付いた老舗の店々に若者たちが入っていく。幅広い世代の建物や人々が混淆している街の景観が、僕の好奇心をくすぐる。地元の人間に愛されたバーや居酒屋に入っていく上京したばかりの若者達を見ると、若者がこの街に根付くまでの過程を頭の中で思い浮かべる。居酒屋で出会った大人に、近辺の有名なお店や名所を聞いて、古参になった頃には、就職を機に、また別の街に引っ越しを決め、ノスタルジックな気持ちでこの街を去っていくのだろうか。
 店長夫婦は、四十回目の結婚記念日を祝して、今日は近場に出かけている。プライベートな行事とは言え、一日しか喫茶店を閉めないのだから、二人にとってあの喫茶店は特別なのだろう。今日は玉城さんと、日頃の感謝と結婚四十周年を記念して、二人へのプレゼントを買いに来ていた。彼女は給料をもらった時、そのお金で二人への贈り物を買うと、決めたみたいだ。深くキャップを被り、メガネとマスクをしている僕の横にいる彼女を見て、すれ違う人が、たまに彼女の方を振り向いてヒソヒソ話をしているが、まだ、完全にバレている気配はない。いつも背の高さを強調するような、ヒールや服を着ているが、今日は、スニーカーに薄地の可愛らしいフランネルの長袖シャツを着て、黒のパンツを履いている。一般人のふりをしても雰囲気がありすぎる気もするが。そんな、別世界の住人の彼女のはずなのに、井の頭公園を二人で歩いていると、まるでデートしているみたいに錯覚してしまう。僕は、横でのんびり井の頭公園の自然を眺めている彼女の手をとる勇気もなく、あの時、キスをしたのは単に自分のことを揶揄っていただけなのだろうか、と頭をよぎる。この一ヶ月で、彼女とは良くも悪くも、仲良くなった。以前は、慎重な会話を心がけていたが、今は、仲の良いクラスメートと話しているような間柄になったものの、バイトの先輩後輩のよそよそしさを拭いきれないでいた。初めて話したあの日から、親しさに反比例するように距離は遠くなっていく。池の噴水に現れては消えていく水面の波紋のように、ささやかな期待が僕の心情をゆらめかせ、大きな諦念に吸収されていくような気分だ。僕の知らない有名なケーキ屋に迷いなく入ったり、デパートのワインコーナーで名前も知らない高いワインを贈り物として買っていく彼女の姿をみると、余計に一歩を踏み出す勇気が阻害された。
 夕飯に招かれていた僕たちは、店長たちの家に向かう前に、僕の家で、東京の猛暑にやられた体を冷房で冷まし、二人の帰りを待ちながら、今度はどこに行こうかなどと、話し合ってから、プレゼント片手に、二人で店長たちの反応を予想しながら、喫茶店に向かった。足取りは、あんなに歩き回って疲れ切っているはずなのに、異様に軽く、そよ風がふわりと、僕の足を持ち上げてくれた。喫茶店の裏口のインターホンを鳴らすと、二人は僕たちを出迎え、二階の食卓で夕食を準備している二人に、「これは私たちから店長たちへのささやかなお祝いです。おめでとうございます」と言って、玉城さんはプレゼントを手渡した。
 香代子さんはプレゼントを受け取り、居間に戻ると中からワインを取り出して、
「嬉しいありがとう、そんな気をつかわなくていいのに」とテーブルの上に音を立てず、卵を針の上に置くようにプレゼントのワインを置き、ケーキは冷蔵庫の取り出しやすい位置に閉まった。
「ねえ綺麗なワイングラスあったかしら」
「ああ、とってくるよ」
「僕が用意しますよ。四人分でいいですか?」
「グラスは私が取りに行くから、トシは下でワインクーラーに製氷器の氷を詰めてくれないか?」
 僕がワインクーラーに氷を詰めて、二階の食卓に戻ってくると、香代子さんが用意した豪勢な夕食がすでに配膳されていた。三人は僕のことを待ちながら、にこやかに談笑している。店長たちと気兼ねなく話している玉城さんは、芸能人には見えず、とても親しみやすい普通の女の子に見えた。食事中、玉城さんは店長たちの馴れ初めから今日至るまでの話を上手く引き出す。酔いが回った二人は僕が今まで聞いたことないざっくばらんな話をする。この何気ない日常のような風景が僕にはとても新鮮で、三人のまた新しい一面を見た気がした。そして、勿体ぶったように、店長が僕に真面目な話を切り出した。
「トシ、そういえば、この前、私が言ったこと考えてくれたか?」
 店長が言っているのは、店長が僕にもう一度、大学に通う支援をしてくれると言う話だ。僕はそこまで、迷惑をかけるわけにはいかないので断り続けている。
「前も言いましたけど、そこまで迷惑をかけるわけには」
「君が、親友の安倍君の息子さんだから言っているわけじゃないんだ。私たちがそうしたいから、提案しているだけなんだ。お金の心配をしているなら、気にしなくてもいい。君のことは息子のように思っているし、これから厳しい時代が続くんだ、大学くらい出た方が良い。別に学業に励めと言っているわけじゃないんだ。君は若く、前途も有望だ、選択肢は広げた方がいいし、いろんな事を経験した方がいい。それに、接客しているとき、大学生のお客さんを羨ましそうに見てる君を見るのが、何より僕たちは苦しい」
「そんな風に見てないですよ。僕は今の生活に満足していますよ。それに店長たちが思うほど、僕なんて大したことないですよ」と僕ははぐらかした。
「トシ、はぐらかさずに聞いてくれ。君のお父さんも、一人でなんでも背負い込むところがあったが、君はもっと人に頼って良いんだ。僕たちに君のことを応援させてくれ。お店のことを心配しているなら、大丈夫だ。元々二人で切り盛りしていたくらいなんだ。良いかい、しっかり重く受け止めて欲しい。来月にまた同じことを聞くよ」
「わかりました」
 少し暗くなった食卓の雰囲気を打ち消すように、パン、と香代子さんが手を叩き、そうだ、と言って、玉城さんを別室へ連れて行った。僕と店長は、話題を切り替え、十分くらい二人で父さんの昔話をしていると、香代子さんに連れられて玉城さんが燃えるような紅芙蓉がプリントされた濃紺の浴衣姿でやってきた。怜悧に細く伸びる白い首筋、陶器のような白い肌と血液のような紅い唇、丸みを帯びた綺麗な額、そして、物憂げな大きく綺麗な瞳。浴衣姿の玉城さんは、薄暗い扉の前で水彩画のように儚くひっそりと佇んでいた。そして照れながら、口元を隠して笑う。香代子さんが、僕のことを見て、
「今日、近くで花火大会があるのよ、二人で行ってきたら」と僕たちに提案してきた。
「行こうよ」と玉城さんが僕のことを誘うと、「でも、有名人がお祭りなんか行ったら、大変なことになるんじゃないかなあ」と照れているのを隠すように、言い訳がつい出た。
「香代子さんに聞いたの。人のいない穴場スポットがあるって」と玉城さんは、僕の手をとって、外に連れ出した。
 香代子さんに教えてもらった、街が一望できる丘の上は、木と街灯があるだけの、誰もいないとてもひっそりした場所で、僕たちは夕闇に黒く上塗りされた眼下に広がるカラフルな屋根屋根を眺め、二人でベンチに腰掛けて真下の賑やかな祭り囃子を聞きながら、花火が打ち上がるのを今か今かと待ち侘びていた。涼しい風がサラリと吹くと、髪を纏めて顕になった頸から、香水の良い匂いがこちらまで漂ってくる。気の利いた言葉を探していると、玉城さんは、涼しげな口元から、いつもの透き通った声で、
「こんな風に、浴衣着てデートしてみたかったんだ」と両手で団扇を祈るように握りしめ、僕に話しかけた。
「そうなの?」
「女優になってから、もうプライベートなんてほっとんどなかったから。こういう風に普通に出かけるのが憧れだったの」
「そうなんだ」
 玉城さんは、立ち上がり手すりの方まで駆け寄り、公園の祭りの様子を眺めて、「良いなあ。久々に、屋台の焼きそば食べたいなあ」と屋台の列を羨んでいた。
 大きな風が吹くと、祭囃子をかき消すように草木がざわめく。玉城さんは風で舞い上がる砂塵を顔から守るように扇子を掲げた。そして、風が止むと、花火が上がった。目を輝かせて花火を見ている彼女の顔を見て、僕は何を言おうとしていたのか忘れてしまった。
 全ての花火が打ち上がり、帰路の途中、玉城さんに、「ちょっとだけ待ってて」と言って、公園に走って向かった。一人、柳の下で待っている玉城さんに、息咳切りながら、ビニール袋に入れられたものを持っていくと、予想以上に喜んでいた。
 虫の音がよく聞こえる僕の部屋で、子供の頃を思い出しながら二人で冷めた焼きそばを特別な料理のように食べていると、玉城さんは、僕の口に青海苔がついているのに気が付き、僕の唇についている青海苔をを親指で拭うようにとって、自分の親指を唇で舐めた。僕は、小学生みたいに夢中で焼きそばを食べていたことに気が付き、あまりの恥ずかしさに、テーブルの隅を見つめていると、玉城さんは、青海苔のついていたところを噛むように唇を当て、ペロリ、と舌の先で舐めた。僕の口元は、ひんやりと濡れ、今度は僕の方から、彼女の唇を奪いにいくと、全ての音が急に止んで、世界に二人しかいなくなったみたいになる。唇を重ねたまま、僕は、とうとう、彼女の浴衣の襟を掴み、じっくり、丁寧に、浴衣を脱がそうとすると、僕の手首は思い切り掴まれた。我に返ったように、彼女の目を見つめると、玉城さんは真剣な眼差しで僕のことを見ていた。
「ごめん、そうだよね。急にこんなことしたら気持ち悪いよね」と目を逸らして、良心の呵責や自責の念、さまざまな感情が一気に噴き出してきて、自分がやろうとしていたことの愚かさを悔いた。
「違うの、よく聞いて。真剣な話なの」といつになく、落ち着いた声色で僕を諭すように言った。僕はもう一度彼女の真剣な眼差しを受け止めると、家の明かりが一度だけ点滅した。
「話したいことがあるの。私がこれから言うこと信じられないって思うかもしれないけど、ちゃんと聞いて欲しい」と彼女は何かを打ち明けようとしていた。
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