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Scene 11-1
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僕は、彼女の言ったことが素直に信じられず、思わず笑って誤魔化してしまった。自分と寝ると、一ヶ月以内に死ぬと、言われたって、はいそうですか、と鵜呑みにできるわけがない。外の虫の音がまた大きくなってきた。苦笑いをして、彼女の顔をみると、一度も表情を崩さず、僕のことを見つめている。親が子供を諭すように、真面目な表情だ。そんな、真剣な彼女の態度なんて関係なく僕は思わず、今までの思いを吐き出した。
「そんな、自分と寝ると死ぬ、なんて信じられるわけないだろ。良い加減にしてくれよ。遊びなら遊びって言ってくれれば良いじゃないか。このあいだだってそうさ、いきなりキスしてその気にさせといて、脚本家と熱愛報道、その上、僕がそのことについて聞いたら、説明するのが難しい関係って言って、はぐらかして。今日だって。嫌なら、嫌って、はっきり言ってよ。正直に気持ちが悪いって言ってくれる方が楽だよ」
「違うの。信じられないかもしれないけど。本当なの」
僕は呼吸を整えて、この前、自分のせいで人が死んだ、と言った彼女の言葉を思い出した。
「自分のせいで、人が死んだって言ってたけどそう言うことなの?」と尋ねた。
僕を傷つけないような嘘を考えるみたいに思案して、彼女は、そうよ、と呟いた。僕は、彼女の言葉を信用できないが、彼女は嘘をついているようにも見えなかった。そして彼女は、信じて欲しいと訴えるように、僕の手を添えるように握って、ずっと好きだったの、と告白した。
「どうして?」
「いつも、一生懸命に何かを書いている姿が好きだったの。私のパパ、生前は脚本家だったの。いつも家で夢中で脚本を書いていた。事件の当日も、女優のママのために必死で話を考えていた。その背中がずっと好きだった。トシ君がいつも執筆している姿は、その姿と重なるの。見ているだけで、なんか落ち着いて、体の中がじんわり温かくなるような気持ちになって。気持ち悪く聞こえるかもしれないけど、その夢中になっている姿がいっぱい見れると思って、バイトの話も受けたの。遊びなんかじゃない。本気なの。だから、あなただけは失いたくないの。お願い信じて」と目を潤ませながら僕に訴えた。
僕はため息をついて、「僕も、玉城さんのことが好きだよ。一緒にいるの楽しい」と本音を漏らし、付き合って、と告白した。
「いいの。私なんかで」
セックスしてあげられないけどいいのってことなのだろうか?したいかしたくないか、の二択なら言うまでもないが、それができないことが、彼女と離れる理由にはならない、婚前交渉をしない民族もざらにいる、何より、恋愛の形は人それぞれ、自分達のペースでいい。
「私なんかなんて言わないでよ。さっき二人で花火をみていた事だって未だに信じられないんだから」と、言うと、嬉しい、と言って僕に抱きついてきた。浴衣の下から伝わる彼女の体はとても細く、そして、思った以上に弱々しかった。彼女は嘘をついているのかもしれないし、本当のことを話しているのかもしれない。僕は、彼女を信じる方に逃げ、ここ、抱き締めるのをやめたら、彼女が蝶のようにどこかに飛んでいってしまいそうな気がして、嘘のような現実を信じていることを伝えるために、強く抱きしめた。僕は、過酷な現実を受け入れられるほど、強い人間ではなかった。不完全な現実と、完璧な理想の世界の二択を突きつけられたとき、不完全な現実を選ぶことが人として、正しい選択だとわかっていても、僕は、多分、完璧な理想の世界を選んでしまうような、そんな、とても、弱い人間だった。
玉城さんと付き合うようになってから一ヶ月経った頃、新人賞に応募した中で、一次選考すら通過しなかった作品の一つが編集者の目に止まり、僕は、頻繁に村瀬静香さんと言う、文芸誌の編集者と会うようになっていた。村瀬さんは、教科書に印刷されたような綺麗な字を書く、綺麗な爪の形が特徴的な、文学部出身の26歳の女性だ。新卒の頃は、女性向けのファッション雑誌を扱っている部署にいて、今年の四月に文芸部門に異動になったらしい。驚かせられるのは、文芸に限らず哲学や自然科学といった豊富な知識量で、執筆をするにあたって僕が欲している知識をうまく補ってくれる。僕の知らない本をよく紹介してくれて、彼女と作品の打ち合わせをする傍ら、本について話すのはとても楽しかった。彼女は、必ず主観と客観を分けて一つの作品を批評し、様々な読者を想定した俯瞰的な視野で作品について教えてくれ、僕が親しんで接する作品にも新しい一面を引き出してくれるので、彼女と話しているだけで純粋に読書の歓びが増えた。彼女は編集者としても、共通の趣味を持つ相手としても、僕にとって理想の相手だった。
八月の土曜日の朝、休日のはずなのに、村瀬さんは朝一で僕の家を訪問し、九月の新人賞に応募する作品について話し合っていた。午後からは、玉城さんとドライブデートの予定で、今日の僕の予定は、朝から晩まで楽しみで敷き詰められていた。打ち合わせに熱が入り、正午前には終わる予定だったはずの打ち合わせが長引き、そのことに気が付かず、食卓で話し合っていると、玄関のインターホンが鳴った。誰だろうと、覗き穴から、急な来訪者を確認すると、約束の時間より一時間も早く、玉城さんが僕を車で迎えに来ていた。
「早くない」と僕は玉城さんを迎え入れると、彼女は村瀬さんの存在に気が付き、「どちらさま?」と僕に尋ねた。僕が、いつも話している編集者の方だよ、と言うと、何度も頷き、玉城由依です、とにこやかに自分のことを紹介した。
「玉城由依って、あの女優の?」と、アパートの一室には似つかわしくない、彼女の存在に目を疑っていた。
「実は、お付き合いしてまして。今日はこの後二人で、ドライブに出かける予定で」と照れながら僕は言った。
「そうだったんですね。すみません、長居してしまって。安倍君、今日話したところを修正してくれれば、今回のパートはかなり良くなると思うから、直したら、メールで私宛に送ってもらっても良い?。彼女さんのことは、もちろん秘密にしておくから。その話は今度聞かせてね。じゃ」
「かしこまりました。今日もとても勉強になりました」と僕はお辞儀をすると、丁寧に荷物をまとめて部屋を出ていった。玉城さんは、そんな村瀬さんの様子をじっと眺めていて、彼女が出ていった後に、「すごい綺麗な人ね」と僕に冷たく言った。
「そうかな。確かに美人な方だと思うけど」
「話には聞いていたけど、村瀬さんって女の人だったのね。よく家には来るの?」
「たまにだけど、どうして?」
「ふーん、いや、別に。それより、早く行こっか。今日、二人でドライブに行くって店長に言ったら、サンドイッチ用意してくれたの」
「それで早く来てくれたの!。もう、お腹空いちゃって」
あまりにも村瀬さんが早く来るものだから、朝から何も口に入れていないせいで、サンドイッチという単語を聞いただけで、僕のお腹が鳴った。
「車の中で食べながらでいい?」と玉城さんの提案を、もちろん、と承諾して、彼女の手を取り、二人で軽やかに車に向かって行った。
世間の目を忍んで交際している僕たちは、有名人の彼女と公共機関を使って二人で移動するわけには行かない都合上、玉城さんと二人で出かける時は、ドライブが多い。マスコミに嗅ぎつけれないように細心の注意を払い、追跡を躱す運転経路を、マネージャーの如月さんに玉城さんはたたきこまれている。撮影現場から喫茶店への送迎は如月さんが行う。今日、村瀬さんに知られてしまったが、僕たちの関係は、店長たちと如月さんの五人の秘密で、事務所の人も誰も知らないことになっている。僕の気のせいかもしれないが、如月さんは、僕たちの関係や、玉城さんが喫茶店で忍んでバイトしていることを全面的に支援してくれているが、よく思っていないように見える。
高速道路の切符を受け取り赤い唇で挟み、高速に入っていくと、彼女は車を一気に加速させた。車酔いのしない僕は、村瀬さんから借りた本を読みながら、彼女の運転に行先を委ねていた。
「なんの本読んでいるの?」と聞いてきた。
「これ、村瀬さんから借りた本。すごい勉強になるんだよ。内容も面白いし。ミッシェル・フーコーの解説書なんだけどね」と話し始めようとすると、「ああ、いい。話されても私わからないから」と僕の話を遮った。そのまま、続けて「あのさ、私が運転しているのに、黙って本を読むのはマナー違反なんじゃない?」と声を尖らせて、僕を非難した。
僕が謝ると、「ねえ、あの女の人、トシくんの家によく来るの?」と質問した。さっきも同じ質問をしてきた、なぜ、村瀬さんのことを彼女が気にするのがよくわからないが、「うーん、週二くらい?」と言った。
週二?と驚いて、機嫌が曇り始めたのか、人差し指は小刻みにハンドルを叩き始めた。
「あのさ、女の人を自分の家に招くのってどうなの?」
「どういうこと?」
「どういうことって、彼女がいるのに、他の女を家に入れるのっておかしくない?」
「村瀬さんは、ただの編集者だよ。それに、向こうも僕のことなんか、興味ないよ」
「自分は興味あるみたいな言い方じゃん」
「そんなことないよ。どうしたの、急に?」
「だって、女の人だなんて知らなかったから、あの人はいつも何時ごろ来るの、いつも朝一?」
「時間は特に決まってないけど。村瀬さんが仕事終わってから来ることもあるから、夜だったり、昼の時もあるし」
「そんな、遅くにくるの?。ねえ。もしかして、本当は昨日の夜からいたんじゃないの?」
「そんなわけないでしょ。ただのアマチュアと編集の関係だって」
「どうかな?好きな本の話で盛り上がって、そのまま、みたいなことあったんじゃないの?」
「はあ、だからないって言ってるでしょ」
「でも、求められたら、断れる?、結構美人だけど」
「断るよ。誓ってもいいよ」
「どうかな?。キスしたら、私のこと襲おうとした人がよく言うよ」とあえて神経を逆撫でするように、僕を挑発してきた。
今の発言は、僕も流石にムッときて、感じワル、と聞こえるか聞こえないか微妙な声量で吐き捨てるように呟くと、玉城さんは、ねえ今なんて言った、と僕に訊いた。
「何も言ってないよ」
「感じワルって言ったでしょ」
「だから、何も言ってないって」と僕が否定すると、思い切りアクセルペダルを踏んで、車を加速させた。車はエンジン音をがならせて、目の前を走っていた車を、どんどん、追い抜いていく。急加速したせいで、シートに僕の背中が張り付くように、押さえつけられ、加速を止めようとしない彼女を見て、僕は身の危険を感じて、彼女に、「わかった、わかった。僕が悪かったよ。ごめんって」と平謝りすると、ようやく、車は減速した。
「あの女に限らず、私以外の女を部屋にあげないって約束して」
了承しないと、また何かするだろう。嘘でもいいから、穏便に済ませないと、
「約束するよ」とイヤイヤ言うと、
「担当変えられないの?」と追加で注文してきた。
「無理だよ。変えられないよ」と不貞腐れると、
「どうして、なんであの女じゃないとダメなの?。別に他の人でもいいでしょ。本当は打ち合わせと称して、美人と自分の本について、話し合えるのを楽しんでるだけなんじゃないの?」
確かに村瀬さんと、本について話しているのが楽しいのは事実だが、僕はいつだって本気で打ち合わせをしているのに、何でそんな風に言われなくちゃいけないんだ。
「村瀬さんだけなんだ、編集者で僕の小説を認めてくれた人は、僕に足りないものも補ってくれるし、何より見つけてくれた恩を返したい。確かに君は才能あるし、プロだから、アマチュアの僕のことなんて、真剣にやってないって思うかもしれないよ。才能がないなりに、頑張ってるのに、そんな言い方ないじゃないか」と不貞腐れながら前を向いて言った後、大きくため息をついて、カバンからプレゼントを取り出して、「来週から撮影のスケジュールが詰まっているから会えないって言われたから、ちょっと早めの一ヶ月記念を用意したのに。あんまりだよ」と吐露した。玉城さんは、強張らせていた肩の力を抜いて、「ごめん。言い過ぎた」と言った。数十秒、お互い言葉を交わさず、どちらが先に話題を切り出すか、待ち、僕は耐えきれず、「僕も、不注意だったよ。確かに、彼女がいるのに自分の家に女の人をあげるのはおかしいよね。でも、一緒にいて変な気持ちになるのは、玉城さんくらいだけだよ」と口を開いた。
「変態」
「そう言う意味じゃなくて」
「わかってるよ。プレゼントの中身は何?」
「ハンドクリーム。バイト始めてから、手が荒れるって言ってたから、あまり詳しくないけど、調べて良さそうなの買ってみた」
「そうなんだ。優しいね。私も、実はあるの。プレゼント。しばらく会えないから」
僕は、二人で同じことを考えていたことに、嬉しさが込み上げた。
「本当に、嬉しい」
「後部座席の紙袋に入ってるやつ」
後部座席に手を伸ばし、中身を開けると、新品のおしゃれな靴が入っていた。
「少しは身だしなみにも気を遣わなくちゃダメだよ。いつも同じ靴履いてるじゃん」
喫茶店と、自分の家を行き来するのが当たり前になっていた僕は、大学を辞めてから、あまり身だしなみに気をつかわなくなった。正直、清潔感さえあればあとは程々でよかった。そんな、おしゃれ無精のせいで、靴を新しくするのを先延ばしにし続けていた。僕は、彼女の了承をもらい、新しい靴に履き替えると、新品のスポンジが足に吸い付くように、密着する感覚が新鮮で、爽やかさすら感じて面白く思った。そして、靴だけ異様におしゃれで、なんだか不自然だった。
「次出かけるときは、これに似合う服を買いに行かないと」
「じゃあ、次はショッピングだね」と言うと、車はようやく海ほたるに到着した。
「そんな、自分と寝ると死ぬ、なんて信じられるわけないだろ。良い加減にしてくれよ。遊びなら遊びって言ってくれれば良いじゃないか。このあいだだってそうさ、いきなりキスしてその気にさせといて、脚本家と熱愛報道、その上、僕がそのことについて聞いたら、説明するのが難しい関係って言って、はぐらかして。今日だって。嫌なら、嫌って、はっきり言ってよ。正直に気持ちが悪いって言ってくれる方が楽だよ」
「違うの。信じられないかもしれないけど。本当なの」
僕は呼吸を整えて、この前、自分のせいで人が死んだ、と言った彼女の言葉を思い出した。
「自分のせいで、人が死んだって言ってたけどそう言うことなの?」と尋ねた。
僕を傷つけないような嘘を考えるみたいに思案して、彼女は、そうよ、と呟いた。僕は、彼女の言葉を信用できないが、彼女は嘘をついているようにも見えなかった。そして彼女は、信じて欲しいと訴えるように、僕の手を添えるように握って、ずっと好きだったの、と告白した。
「どうして?」
「いつも、一生懸命に何かを書いている姿が好きだったの。私のパパ、生前は脚本家だったの。いつも家で夢中で脚本を書いていた。事件の当日も、女優のママのために必死で話を考えていた。その背中がずっと好きだった。トシ君がいつも執筆している姿は、その姿と重なるの。見ているだけで、なんか落ち着いて、体の中がじんわり温かくなるような気持ちになって。気持ち悪く聞こえるかもしれないけど、その夢中になっている姿がいっぱい見れると思って、バイトの話も受けたの。遊びなんかじゃない。本気なの。だから、あなただけは失いたくないの。お願い信じて」と目を潤ませながら僕に訴えた。
僕はため息をついて、「僕も、玉城さんのことが好きだよ。一緒にいるの楽しい」と本音を漏らし、付き合って、と告白した。
「いいの。私なんかで」
セックスしてあげられないけどいいのってことなのだろうか?したいかしたくないか、の二択なら言うまでもないが、それができないことが、彼女と離れる理由にはならない、婚前交渉をしない民族もざらにいる、何より、恋愛の形は人それぞれ、自分達のペースでいい。
「私なんかなんて言わないでよ。さっき二人で花火をみていた事だって未だに信じられないんだから」と、言うと、嬉しい、と言って僕に抱きついてきた。浴衣の下から伝わる彼女の体はとても細く、そして、思った以上に弱々しかった。彼女は嘘をついているのかもしれないし、本当のことを話しているのかもしれない。僕は、彼女を信じる方に逃げ、ここ、抱き締めるのをやめたら、彼女が蝶のようにどこかに飛んでいってしまいそうな気がして、嘘のような現実を信じていることを伝えるために、強く抱きしめた。僕は、過酷な現実を受け入れられるほど、強い人間ではなかった。不完全な現実と、完璧な理想の世界の二択を突きつけられたとき、不完全な現実を選ぶことが人として、正しい選択だとわかっていても、僕は、多分、完璧な理想の世界を選んでしまうような、そんな、とても、弱い人間だった。
玉城さんと付き合うようになってから一ヶ月経った頃、新人賞に応募した中で、一次選考すら通過しなかった作品の一つが編集者の目に止まり、僕は、頻繁に村瀬静香さんと言う、文芸誌の編集者と会うようになっていた。村瀬さんは、教科書に印刷されたような綺麗な字を書く、綺麗な爪の形が特徴的な、文学部出身の26歳の女性だ。新卒の頃は、女性向けのファッション雑誌を扱っている部署にいて、今年の四月に文芸部門に異動になったらしい。驚かせられるのは、文芸に限らず哲学や自然科学といった豊富な知識量で、執筆をするにあたって僕が欲している知識をうまく補ってくれる。僕の知らない本をよく紹介してくれて、彼女と作品の打ち合わせをする傍ら、本について話すのはとても楽しかった。彼女は、必ず主観と客観を分けて一つの作品を批評し、様々な読者を想定した俯瞰的な視野で作品について教えてくれ、僕が親しんで接する作品にも新しい一面を引き出してくれるので、彼女と話しているだけで純粋に読書の歓びが増えた。彼女は編集者としても、共通の趣味を持つ相手としても、僕にとって理想の相手だった。
八月の土曜日の朝、休日のはずなのに、村瀬さんは朝一で僕の家を訪問し、九月の新人賞に応募する作品について話し合っていた。午後からは、玉城さんとドライブデートの予定で、今日の僕の予定は、朝から晩まで楽しみで敷き詰められていた。打ち合わせに熱が入り、正午前には終わる予定だったはずの打ち合わせが長引き、そのことに気が付かず、食卓で話し合っていると、玄関のインターホンが鳴った。誰だろうと、覗き穴から、急な来訪者を確認すると、約束の時間より一時間も早く、玉城さんが僕を車で迎えに来ていた。
「早くない」と僕は玉城さんを迎え入れると、彼女は村瀬さんの存在に気が付き、「どちらさま?」と僕に尋ねた。僕が、いつも話している編集者の方だよ、と言うと、何度も頷き、玉城由依です、とにこやかに自分のことを紹介した。
「玉城由依って、あの女優の?」と、アパートの一室には似つかわしくない、彼女の存在に目を疑っていた。
「実は、お付き合いしてまして。今日はこの後二人で、ドライブに出かける予定で」と照れながら僕は言った。
「そうだったんですね。すみません、長居してしまって。安倍君、今日話したところを修正してくれれば、今回のパートはかなり良くなると思うから、直したら、メールで私宛に送ってもらっても良い?。彼女さんのことは、もちろん秘密にしておくから。その話は今度聞かせてね。じゃ」
「かしこまりました。今日もとても勉強になりました」と僕はお辞儀をすると、丁寧に荷物をまとめて部屋を出ていった。玉城さんは、そんな村瀬さんの様子をじっと眺めていて、彼女が出ていった後に、「すごい綺麗な人ね」と僕に冷たく言った。
「そうかな。確かに美人な方だと思うけど」
「話には聞いていたけど、村瀬さんって女の人だったのね。よく家には来るの?」
「たまにだけど、どうして?」
「ふーん、いや、別に。それより、早く行こっか。今日、二人でドライブに行くって店長に言ったら、サンドイッチ用意してくれたの」
「それで早く来てくれたの!。もう、お腹空いちゃって」
あまりにも村瀬さんが早く来るものだから、朝から何も口に入れていないせいで、サンドイッチという単語を聞いただけで、僕のお腹が鳴った。
「車の中で食べながらでいい?」と玉城さんの提案を、もちろん、と承諾して、彼女の手を取り、二人で軽やかに車に向かって行った。
世間の目を忍んで交際している僕たちは、有名人の彼女と公共機関を使って二人で移動するわけには行かない都合上、玉城さんと二人で出かける時は、ドライブが多い。マスコミに嗅ぎつけれないように細心の注意を払い、追跡を躱す運転経路を、マネージャーの如月さんに玉城さんはたたきこまれている。撮影現場から喫茶店への送迎は如月さんが行う。今日、村瀬さんに知られてしまったが、僕たちの関係は、店長たちと如月さんの五人の秘密で、事務所の人も誰も知らないことになっている。僕の気のせいかもしれないが、如月さんは、僕たちの関係や、玉城さんが喫茶店で忍んでバイトしていることを全面的に支援してくれているが、よく思っていないように見える。
高速道路の切符を受け取り赤い唇で挟み、高速に入っていくと、彼女は車を一気に加速させた。車酔いのしない僕は、村瀬さんから借りた本を読みながら、彼女の運転に行先を委ねていた。
「なんの本読んでいるの?」と聞いてきた。
「これ、村瀬さんから借りた本。すごい勉強になるんだよ。内容も面白いし。ミッシェル・フーコーの解説書なんだけどね」と話し始めようとすると、「ああ、いい。話されても私わからないから」と僕の話を遮った。そのまま、続けて「あのさ、私が運転しているのに、黙って本を読むのはマナー違反なんじゃない?」と声を尖らせて、僕を非難した。
僕が謝ると、「ねえ、あの女の人、トシくんの家によく来るの?」と質問した。さっきも同じ質問をしてきた、なぜ、村瀬さんのことを彼女が気にするのがよくわからないが、「うーん、週二くらい?」と言った。
週二?と驚いて、機嫌が曇り始めたのか、人差し指は小刻みにハンドルを叩き始めた。
「あのさ、女の人を自分の家に招くのってどうなの?」
「どういうこと?」
「どういうことって、彼女がいるのに、他の女を家に入れるのっておかしくない?」
「村瀬さんは、ただの編集者だよ。それに、向こうも僕のことなんか、興味ないよ」
「自分は興味あるみたいな言い方じゃん」
「そんなことないよ。どうしたの、急に?」
「だって、女の人だなんて知らなかったから、あの人はいつも何時ごろ来るの、いつも朝一?」
「時間は特に決まってないけど。村瀬さんが仕事終わってから来ることもあるから、夜だったり、昼の時もあるし」
「そんな、遅くにくるの?。ねえ。もしかして、本当は昨日の夜からいたんじゃないの?」
「そんなわけないでしょ。ただのアマチュアと編集の関係だって」
「どうかな?好きな本の話で盛り上がって、そのまま、みたいなことあったんじゃないの?」
「はあ、だからないって言ってるでしょ」
「でも、求められたら、断れる?、結構美人だけど」
「断るよ。誓ってもいいよ」
「どうかな?。キスしたら、私のこと襲おうとした人がよく言うよ」とあえて神経を逆撫でするように、僕を挑発してきた。
今の発言は、僕も流石にムッときて、感じワル、と聞こえるか聞こえないか微妙な声量で吐き捨てるように呟くと、玉城さんは、ねえ今なんて言った、と僕に訊いた。
「何も言ってないよ」
「感じワルって言ったでしょ」
「だから、何も言ってないって」と僕が否定すると、思い切りアクセルペダルを踏んで、車を加速させた。車はエンジン音をがならせて、目の前を走っていた車を、どんどん、追い抜いていく。急加速したせいで、シートに僕の背中が張り付くように、押さえつけられ、加速を止めようとしない彼女を見て、僕は身の危険を感じて、彼女に、「わかった、わかった。僕が悪かったよ。ごめんって」と平謝りすると、ようやく、車は減速した。
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了承しないと、また何かするだろう。嘘でもいいから、穏便に済ませないと、
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「担当変えられないの?」と追加で注文してきた。
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「どうして、なんであの女じゃないとダメなの?。別に他の人でもいいでしょ。本当は打ち合わせと称して、美人と自分の本について、話し合えるのを楽しんでるだけなんじゃないの?」
確かに村瀬さんと、本について話しているのが楽しいのは事実だが、僕はいつだって本気で打ち合わせをしているのに、何でそんな風に言われなくちゃいけないんだ。
「村瀬さんだけなんだ、編集者で僕の小説を認めてくれた人は、僕に足りないものも補ってくれるし、何より見つけてくれた恩を返したい。確かに君は才能あるし、プロだから、アマチュアの僕のことなんて、真剣にやってないって思うかもしれないよ。才能がないなりに、頑張ってるのに、そんな言い方ないじゃないか」と不貞腐れながら前を向いて言った後、大きくため息をついて、カバンからプレゼントを取り出して、「来週から撮影のスケジュールが詰まっているから会えないって言われたから、ちょっと早めの一ヶ月記念を用意したのに。あんまりだよ」と吐露した。玉城さんは、強張らせていた肩の力を抜いて、「ごめん。言い過ぎた」と言った。数十秒、お互い言葉を交わさず、どちらが先に話題を切り出すか、待ち、僕は耐えきれず、「僕も、不注意だったよ。確かに、彼女がいるのに自分の家に女の人をあげるのはおかしいよね。でも、一緒にいて変な気持ちになるのは、玉城さんくらいだけだよ」と口を開いた。
「変態」
「そう言う意味じゃなくて」
「わかってるよ。プレゼントの中身は何?」
「ハンドクリーム。バイト始めてから、手が荒れるって言ってたから、あまり詳しくないけど、調べて良さそうなの買ってみた」
「そうなんだ。優しいね。私も、実はあるの。プレゼント。しばらく会えないから」
僕は、二人で同じことを考えていたことに、嬉しさが込み上げた。
「本当に、嬉しい」
「後部座席の紙袋に入ってるやつ」
後部座席に手を伸ばし、中身を開けると、新品のおしゃれな靴が入っていた。
「少しは身だしなみにも気を遣わなくちゃダメだよ。いつも同じ靴履いてるじゃん」
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