花カマキリ

真船遥

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Scene 12-1

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 由依はあの青年と交際してから、男の関係を完全に断ち、男どころか、趣向品だった、タバコ、酒、マリファナとも縁を切り、自分の演技の幅を広げるために、主戦場だった映画やテレビドラマの出演だけでなく、舞台や声優業に挑戦し、観客に自分を美しく見せるために、あれだけ文句を言っていた運動や食事制限に関しては妥協の一切を許さないまでになっていった。この数ヶ月で、演じることに夢中になった彼女は、女優業のための努力を一切怠らなくなった。あの青年は、由依に何かに夢中になれることの素晴らしさを気づかせた。ただ、そんな由依の変化とは裏腹に、主戦場を離れたオーディションにはことごとく落選していき、馴染みの芸能関係者から紹介されたドラマや映画の演技は、軒並み酷評だった。たった数ヶ月で、由依の信頼はみるみると落ちていき、セックスせずに演じた作品は大体コケると由依自身が言っていたが、全くその通りになってしまった。だからと言って、決して彼女から美しさが消えていったわけではなく、彼女の美しさには磨きがかかり、彼女を見れば壮大な自然に圧倒され息を呑むような厳かさまで感じるようになっていた。演技も言うまでもなく完璧にこなしていた。美しさと演技力、生まれつきの声質にたおやかな肉体。役を演じる上で彼女は全てを手に入れたかの様に思えたが、彼女の演技はみるみると魅力を失い、見るものを魅了させることができなくなっていた。それどころか、観客は彼女の演技を見ると必ず違和感を覚え、独特の居心地の悪さから、居ても立っても居られないような気分になるようになった。決定的な理由こそ判明していないが、彼女の演技に魅力がなくなったのは、観客が場面の情報を処理するより前に彼女の圧倒的な美が先行してしまうからなのだろう。憧憬、嫉妬、感動、見るものは彼女の美に先に心を奪われてしまう。そして後から、演技により場面の情報が遅れて届けられる。視覚的に湧き起こる感情と場面の状況の処理によって脳が創り出した感情の違いに観客は戸惑い、由依の美しさと演技力から湧き起こる感情は互いに和解することなく反発し、相反する二つの感情を見物人たちが咀嚼し打ち消し合う頃には、無味乾燥な不快感だけを心に残していってしまう。それは、アイスクリームの滑らかな甘みと、カレーの刺激的な辛さが口の中で美味しく共存することができないのと同じで、彼女の美しさは演技力と和解することはなかった。そして何より、観客は優れた芸術ではなく優れたエンターテインメントを作品に求めている。優れたエンターテイメントに必要なものは、見る人の心の動きの欲求を叶えてやることだ。思わず涙が流れるような出会いに感動したい、人の悍ましさや汚さに不快感を感じたい、最低な悪役をやっつけてスカッとしたい、大量のゾンビやエイリアンに囲まれてハラハラしたいなど、魅力的なエンターテイメントには、製作者の意図が見る人の心の動きに寄り添っているものだ。以前の彼女の演技は観客の心に寄り添い、観客は彼女が出演している場面を見れば、誰もが無意識下で記憶している感情に揺り動かされた。完璧すぎる美は、おそらくエンターテイメントの対極に属し、彼女の美が完璧に近づくほど、観客の心に大きな軋轢を生じさせ、見ているものに違和感を感じさせるようになったのだろう。あまりにも眩い光には誰もが目を背けてしまう。つまるところ、彼女の完璧な美はあまりにも眩しすぎた。
 事務所でデスクワークをしていると、社長秘書が俺の肩を叩いた。
「如月さん、今大丈夫ですか?」
 俺は作業を一旦止めて、少し体を伸ばしてから社長秘書の方を振り向いた。作業に集中していて気が付かなかったが、時計の針はランチタイムの時間を指そうとしていた。
「なんでしょう?」
「社長がお呼びで、一時間ほどいただきたいのですが」
「構いませんよ」
 俺は立ち上がり、社長室に体を向け歩き出そうとすると、秘書は、「いえ今日は社長室ではなく近くのレストランで食事をとりながら、お話がしたいと社長が申しておりましたので」と止められた。
 秘書にレストランまで案内され、受付からは、よく教育の行き届いていそうな慇懃なウエイトレスに案内されるまま席までついていくと、深刻そうな顔をした加賀美陽子が、どうぞ、と俺に席を勧めた。貸切りみたいに人が少ない静かなレストランなんかに連れてきて、何を話し始めるのだろうか。この手のレストランで働いていたことがあるからわかるが、わざわざ外側からナイフとフォークを使っていくめんどくさい店だ。食事もいちいち順番に出てくる。忙殺されるような毎日を送っているんだ、昼飯くらい、好きに食わせてくれって話だ。
 加賀美陽子は、シャンパングラスに注がれた水を気取って啄むように飲んで、
「忙しかった?」と俺に訊いた。
「いいえ、そんなことないです。それで用件はなんでしょうか、由依のことだとは思いますけど」
「まあ、そんな焦らないで、ゆっくり食事をしなさいよ」と言うと、ウエイトレスが食事を俺たちの元へ運んできた。
 アミューズなんて、何が一口で楽しめる楽しみだ、俺は楽しみは最後に取っておきたい人間なんだ。コース料理みたいに本題を切り出さない加賀美陽子に、内心俺はイラついて、世間話でもしておべっかする気も起きず、無言のまま食事を続けた。目の前の元大女優は上品に食べ物を口に運んでいやがる、なんだか成金みたいだ、なんて内心冷笑していると、ウエイトレスがスープを運んでくる。スープを運んできたウエイトレスはなかなか可愛い女だった。シルクのように光沢のあるベージュのテーブルクロスに印でもついているのかと錯覚させるほど正確に、ナイフとフォークの間の丁度真ん中の一点に皿の内奥が重なるようにスープを丁寧に置いて、キッチンに帰っていく。給餌服の紐に結ばれたくびれの形が綺麗で、目の前の高級料理なんて気にせず、ウエイトレスの後ろ姿を目で追っていた。
「美味しいわね」加賀美陽子は音を立てず、掬ったスープをスプウンからこぼすことなく上品に口に運んでいく。俺も真似て、口に運んでみると、確かに、日本の文化にはない、素材の複雑な旨味が口の中に広がった。そして、彼女は何枚か写真をテーブルの上に並べて、
「あの子、随分、この青年に入れ込んでいるみたいじゃない」と言った。
 由依と青年の関係を知っているものは誰もいないはずで、尾行も完璧に巻けているはずだった。俺は何も言わずにとりあえずそのまま黙った。
「最近、由依の演技が振るわない理由がわかったわ。あの子、全く男と寝てないんでしょう」加賀美陽子の言う通りだった。
「さあ?プライベートなことなので。ですが、由依はこの青年と出会ってから、前より一層熱心に仕事に取り組むようになりました。何より」と俺が次の言葉を言いかけると、
「綺麗になった。そう言いたいんでしょう」と俺の発言に被せてきた。
「ええ、まあ。ですから時間の問題ではないかと」
「これは私の長いキャリアから、導き出された結論なんだけど、演技において美しさや綺麗さは不要なの」
 俺は彼女の意見におおむね賛成で、故に言葉を詰まらせた。昔の白黒映画を見ればよくわかる。役者に独特の品の様なものはあったが、主役級でも、大して器量が良いわけではなかった。『七人の侍』とかを見ればよくわかる。三船敏郎は別として、それ以外の演者の器量はそうでもない。ロマンスシーンを演じた二人だって、一般人の中でも、中の下くらいだ。
「美しさは、画面を見る人の視線を釘付けにする要素の一つではあるけど、演技には必要ないわ。演技に必要なものは、味よ。演技はね、料理に似ているわ」
「味?ですか」
「如月君は、そのスープを口に入れてどう思った」
 どう思った?抽象的な質問だ。俺は何も考えず、「まあ、旨いな」と、とりあえず返事をした。加賀美陽子は鼻で笑う仕草をして、
「そうね、旨いわね。」と言葉を零すように言った後、
「私はね、フランス料理を食べると、昔、フランスの国際映画祭で主演女優賞を取り逃したことを思いだすわ。とても言葉には言い表せ無いくらい悔しかった」と言い、当時の悔しさを思い起こすように持っているスプウンを握りしめ、目を軽く充血させ、体を軽く震わせ始めた。俺はその加賀美陽子の一連の動作を見ただけで、昔両親に殴られたことを思い出した。災害のように抗うことのできない力関係、ただ体が小さいというだけで、簡単に陵辱されてしまう理不尽さ、自分の卑小さに憤ってた頃の子供の頃の記憶。目の前の大女優は何も言わず、悔しさを体で表現しただけで、俺の感情のトリガーを引き、無力な頃の自分の記憶を呼び覚まして見せた。これが本物の演技なのだと自ら体現し、彼女の発言の真意を俺に体験として伝えた。
「味にはね、昔の思い出を呼び起こす効果があるの。君にもそういった料理はない?」
「まあ、あるにはありますけど」
 加賀美陽子は水の注がれた透明なシャンパングラスにを手に取って、
「彼女の演技には味がしなくなった。まるでグラスに注がれた水を飲んでいるみたい、綺麗で、透明で、それでいて、味がしない。喉は潤うけど何も感じない。むしろ、飲まされ続ければ、気持ちが悪くなる」と言って水をもう一口含んだ。
「話を戻すけど、演技は料理に似ている、正直見た目が悪くても味がよければそれでいい。また食べたい、どこか懐かしい気分にさせる、味には、脳に記憶を植え付けたり、思い出を呼び起こすトリガーがある。演技もそう、良い演技ってものは、観客の記憶を刺激する。私が演技を行う上で、大事にしていることはね。私の演技を通じて、観客の意識の底から感情を手繰り寄せてやること。そんなことできるのって思うかもしれないけど、私が悔しさを露わにした時、あなたも悔しそうな表情を一瞬浮かべていたわ。自分が無力だった頃のことでも思い出したのかしら?。記憶に訴えかけられなきゃ演技じゃない。どうしてかわかる?」
「感情って言うのは記憶で出来ているから」
「そう、自分が画面に映っている人間と同じ体験をした事がないはずなのに、ドラマや映画を見ると登場人物と同じ気持ちになる。当たり前のことのように思えるけど、演技においてこの現象は大事なことよ。人間は想像する生き物。登場人物の現状と類似する自分の境遇を無意識下にある記憶の奥底から引っ張り出して、追体験として再構築し、画面の中の人物と感情を共有する。演技は観客の記憶から感情を作るための媒体。由依にはね、観客の感情を正しい方向へ導いてやる才能があったの、だけどあの青年が彼女のその才能を枯れさせた。彼女にとって、男と寝ることは、演技に奥深い複雑な旨みを加えるようなものだったの。今の彼女の演技には味がしない。誰も彼女の演技を見ても何とも思わない」
「時間が解決してくれるでしょう」
「そうも言ってられないのよ。大きな予算がかけられた映画が今度制作されるの。その主演女優として彼女に白羽の矢が立ったの。私はその仕事を引き受けたわ。出資者たちは、あの子の演技に期待している」
 事情は飲み込めた、要は俺に由依と青年の仲を引き裂く手伝いをしろ、と言いたいのだろう。あの青年と別れれば、以前の彼女に戻る、自由で放埒だった、あの魅力的な彼女の姿に。俺は、事態を察した上で、遠回しに依頼を断った。
「社長も玉城由依の育て親なんでしょう?。娘の幸せを純粋に祝ってやれば良いじゃないですか?」
「断るのね。あなたは、何も言わずに了承してくれると思ったけど。確かに私はあの子の育て親よ、同時に、この事務所の社長でもあるの。こんなこと新人の君に話すのは、恥ずかしいけれど、この事務所はあの子の成功で今は成り立っている。あの子の幸せを願ってはいるけど、従業員を路頭に迷わせるわけにもいかないの。正直、この不景気の時代に、次の映画がコケれば、ウチみたいな弱小事務所は簡単に切り捨てられるわ。そうなったら、ウチに所属しているタレントや、従業員はどうするの?。苦渋の決断だったのよ」
 俺は冷静に加賀美陽子の言い分を聞いた。確かに、経営者として従業員を守るために、育てた娘を売ろうと言うのだから、大した決意だと思う。だが、俺は彼女の意見に賛同するつもりはなく、むしろ、加賀美陽子の誘いに、嫌悪感すら感じていた。
「俺は断らせて頂きますよ。それに、あの二人の仲を引き裂くことなんて出来ないと思いますけどね。何か具体的な策でも?。多分他の男に惚れさせるみたいな方法は効かないと思いますけど」
「そうね。色恋じゃあ、引き離せないでしょうね。でも、彼女に効くとっておきの策があるわ。これでも十年近く、あの子の面倒を見ているからよくわかるけど、由依は他人を蹴落としても心なんて痛まないとか平然と言うくせに、情には厚い子なの。そして、勝ち気だけど、芯はそんなに強い方じゃない。もし、自分のせいで、あの喫茶店と青年に、迷惑がかかると考えたらどうかしら?。これから彼女を迎えに行くの?」
 俺は、ええ、と答えて、顔に影を落とした加賀美陽子をじっと見て、何かしたのですか?、と訊いた。
「大量のね、マスコミをけしかけたの。今頃、あの喫茶店と青年の家の周りは大変なことになっているわ」
 俺はメインディッシュが運ばれてくるのを待たずに、レストランを出て行った。
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