花カマキリ

真船遥

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Scene 12-2

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 マネージャーの如月さんが人混みをかき分けて、僕たちを連れ出して送迎車に乗せ、車を強引に発進させると、カメラやマイクを持ったマスコミたちが、テールランプの明かりに吸い寄せられるようについて来た。こんな時でも如月さんは冷静で、今日の僕の予定を訊ねてきた。僕をどこに届ければ良いのか聞き出したいのだろう。幸いにも、僕は今日は一日オフの予定だったので、今日は何もありません、と答えた。
「今日はテレビ局で撮影の予定があるんだが、このままテレビ局まで車を走らせてもいいか?」と僕に訊いた。
「お願いします」
 途中、喫茶店の近くを通った。喫茶店の周りにもマスコミが殺到していて、入り口の前で、店長夫妻が、マスコミたちに必死に頭を下げていた。玉城さんは、そんな店長たちの様子を手で口を抑えながら、青ざめた様子で見ていた。僕は、横で辛そうにうつむき言葉を失っている彼女に、声をかけたかったが、今朝のケンカのせいで、何を言えば良いのか分からなくって、二日酔いのせいなのか、次第に心と頭が痛くなってきた。そして、気持ち悪さも感じていた。それは、吐きそう、と言うわけではなく、心が痛み気分が悪い、と言った感じだった。悪びれず、人の日常を騒ぎ立て踏み荒らしていく人々の姿に。僕たちは何も悪いことをしていなかった。そして、僕は玉城さんが以前に言った、ジャーナリストなんて嫌い、と言う言葉を思い出した。自分の父も、あんなことをしたのだろうか?。父は一度だけ、とても酔っ払って仕事から帰ってきたことがある。顔を真っ赤にし、呂律が回らず、息がとても酒臭かったことを覚えている。確か、十年以上前だろうか?、玄関でそのまま眠ってしまった父を、深夜に目が覚めた僕が起こすと、僕の体を抱きしめて、大声で泣きじゃくり出したのだ。俺は自分の仕事に自信が持てなくなった、と何度も言い、そして、僕と母に、何度も謝っていた。その日、何があったのか聞き出す前に死んでしまったのだが、もしかして、今日僕たちの身に起きたことを自分がしてしまったことを恥じていたのだろうか?。
 テレビ局の地下駐車場に着くと、如月さんは、「俺は彼女を楽屋まで送っていくから」と僕を車内に残して、冷たいコンクリートで出来た薄暗い駐車場を玉城さんと横並びで歩いて行った。結局、僕は彼女に声をかけることが出来ず、今更、かけたい言葉が見つかり、遠ざかっていく背中を眺めていると、玉城さんは僕の視線に気づき、こっちを振り返り、申し訳なさそうな顔で、ごめんね、と言ったような気がした。彼女を楽屋まで送り、帰ってきた如月さんは「ここにいるとマスコミに囲まれるかもしれないから」と言い、撮影が終わるまで、僕をドライブに連れて行った。
 錆びたコンテナに囲まれた埠頭にたどり着くと、如月さんは降車して、タバコに火をつけた。とりあえず、同じように車から降りると、思った以上に風が強く、体全身に、東京湾の潮の匂いを浴びた。空が曇っているせいで、凪は夜のように冷たく暗い。如月さんは濃い紫煙を吐き出すと、眉を顰めている僕に話しかけてきた。
「どうするんだ。彼女と?」
「どうするって?」
「別れるのかって訊いているんだ」
 如月さんは吸い終えたタバコの火を足の裏で消して、携帯灰皿にしまうと、二本目のタバコを取り出そうとしていた。
「別れませんよ」と僕が強く言うと、タバコを咥えながら僕の顔をまじまじと見た。
「そうか、じゃあ、彼女に別れを切り出されたら、どうする?。結構、彼女、身にこたえているみたいだぜ。自分がどうなろうと気にやしないけど、君たちに自分のせいで災難が降りかかるのはイヤらしい」
 玉城さんが僕に別れを切り出したら?、そう思うと、僕は少し考え込んでしまった。そして、急に心細く、未来が暗くなっていくような気がした。
「君と彼女じゃ、言っちゃ悪いが、住む世界が違う。こんなことはまだ続くかもしれない。君はそれでも耐えられるかもしれないが、我慢している君たちを見て彼女が辛い思いをしたら。しかも、玉城は君に対して何か負い目みたいなものを感じているようだし。それに彼女が耐えれらなくなったらどうする?」
 一緒にいられるだけで良い。ただ、一緒にいることが彼女を苦しめるのだとしたら、僕はどうするのだろうか。逆の立場ならどうするだろう?。僕なら、別れを切り出すかもしれない。自分の好きな人が自分のせいで辛い目に遭っているのを見たら、心臓をギュッと掴まれるような、心苦しさを感じるだろう。
「まあ、意地でも別れないと言うなら、彼女のことを頼むよ」
「応援してくれるんですか?」
「ああ、君と出会って、彼女は一層輝きを増した。今は、どうもスランプみたいだが、もし、彼女の演技に先があるのなら、俺はそれを見てみたい」
「わかりました」と僕はポツリと言って、空を見上げた。活発に声をあげながらカモメが寒空を滑空している。僕がカモメの動きを目で追っていると、一滴だけとても冷たい雨粒が空から降ってきて、僕の頬を濡らした。
 撮影を終えて、車に乗り込んだ玉城さんの顔はとても明るかった。初めて遭った時のような雰囲気で戻ってきた、玉城さんは、お疲れ、と僕に話しかけて助手席に座った。カーナビを操作し、如月さんに行き先を告げると、腕を組んで、呆然と外を眺めていた。十一月になると、東京の街の自然の彩りは消えていき、公園の草木や街路樹は、葉を落とし、都会の無機質な街を人の温かみが恋しくなるような街並みに変えて行った。多分、玉城さんは僕に別れを告げるのだろう。ミラー越しに見る彼女の顔は思い詰めているように見えた。自意識過剰だろうか?。車は、あの日花火を見た丘の上に向かっているようだった。目的地に着くと、僕は何も言わずに車を降りて、街灯の下のベンチに腰掛けると、隣に玉城さんが座った。眼下には、いつも通りに人が生活を営んでいるようだった。
「別れよう」彼女は言った。
 やはりそうだった。僕は、驚いたふりをして、「朝のことは謝るよ。もう玉城さんのことを蔑ろにしない。約束する。担当編集も交代してもらう。もし編集がつかなかったら、一からまた頑張るから」
「朝のことは気にしていないの。でも、元から考えてたの。いつか別れる日が来るって。朝のことだってそう、もし、話の合う知性のある綺麗な子が君の前に現れて、君のことを誘ったらって」
「絶対に浮気なんてしないさ。本当だよ。誓うよ」
「それだけじゃないの、見たでしょあのマスコミ。私たちにプライベートなんてないの。私と一緒にいると、ずっと好奇の目に晒され続ける」
「いつか慣れるよ」
「いいえ、慣れないわ、きっと。それに慣れるまでにどれだけ辛い思いをすると思っているの。マスコミだけじゃない、私のファンが、あなたたちに酷い嫌がらせをするかもしれない。そんな日々に怯えるあなたたちを私は見たくない。平穏で慎ましい、幸せな日常を私は壊したくない。結局、普通が一番なの。普通が一番の贅沢なの。この半年間、君や店長たちが教えてくれた。本当にトシくんからは、いろんなものをもらった。ありがとう」
 僕を見つめて笑顔で感謝を述べる彼女の手を握ろうとすると、サッと、手を引かれた。僕は諦めず、立ちあがろうとする彼女の手をとって、「僕は由依のいない日常の方がいらない」と訴えた。彼女の手は初めて触れた時と同じで、今日もとてもひんやりしていた。微かに震えている彼女の手を、強く握ろうとすると、思い切りの僕の手を彼女は振り解いて、「あなたと私は住む世界が違うの」、そして急に声色を変えて小馬鹿にした態度で「私と寝たら死ぬなんて、アンタ本当に信じたの?、馬鹿みたい。アンタなんて、遊びよ、遊び。私の嘘を信じて疑わない、アンタといるのが、面白かったのよ。小説家志望のフリーター?、そんな男に私が本気になるわけないじゃない」と僕に言って、さようなら、と踵を返し、こちらを一度も振り返らず、車に戻って行った。
 僕は追いかけることができなかった、意気消沈して、ベンチにうなだれて座った。彼女が横にいなくなると、木枯らしがより一層骨身に染みた。僕のポケットの中の携帯が震え、電話に出ると、興奮気味の村瀬さんが、僕の作品が佳作に選ばれたことを教えてくれた。
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