花カマキリ

真船遥

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Scene 12-3

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 ゆっくりとクリスマスのイルミネーションが点灯されていく東京の街中で、僕は村瀬さんとカフェで次の作品の打ち合わせをしていた。今日はクリスマスイブ。玉城さんは、インタビューで、僕のことは親しい友人、喫茶店では役作りのために実際に働いていた、と発表しマスコミの熱を冷まそうとした。マスコミの執拗な取材やファンの迷惑行為は、一週間以上続き、喫茶店には、騒ぎが落ち着くまでなかなかお客さんが来店してこない日々が続いた。ただ、人の関心と言うものは熱し易く冷めやすいもので、騒ぎが収まると、僕たちの元には、玉城さんが働く以前の日常が帰ってきた。
「クリスマスイブなのに、打ち合わせに誘ってしまい、ごめんなさい」
 村瀬さんは、クリスマスイブに僕を連れ出したことを申し訳なさそうにしている。早く玉城さんを諦めなければいけない僕にとっては、彼女の誘いは好都合だった。人と話している時くらいは、彼女のことを忘れられる。
「いえ、村瀬さんこそ大丈夫なんですか?。こんな日に」
「私は大丈夫。特に予定はないから。それより、仕事仕事、どう少しは進んでる?」
 あの日から、ほとんど筆を取れていない、本を読んでいても、内容が頭に入ってこない。文章の上で、視線だけ滑っている。
「あの、電話で話したんですけど、まったく書く気になれなくて。一応、次の作品のために渡された資料も目を通しているのですが、正直、何も内容が頭に入ってこないというか」
「あんなことがあったんじゃねえ。どう?まだ家の周りは、マスコミがうろついているの?」
「たまにそれっぽい人を見かけるだけで、最近はもう大丈夫です」
「そうなんだ。もう彼女とは連絡とってないの?」
「ええ、もちろん」
 村瀬さんは、コーヒーにミルクを入れて、頬杖をついてかき混ぜている。焦茶色の水面にできた、白い渦が、消えていくと、褐色の液体が徐々に白んでくる。色が均一になり、村瀬さんが、コーヒーを啜ると、猫舌なのか、苦虫を噛み締めるような顔をして、カップをソーサーに置いた。
「どうして連絡しないの?」
「どうしてって、振られたんですよ。こっちから連絡できるわけないじゃないですか」
 村瀬さんは僕の携帯に目をやった後、僕を試しているみたいに見つめると、「私には諦めきれていないように見えるけど。君は、彼女と別れてから、ずっと電話を待っているのか、寂しげに鳴らない携帯電話を仕切りに見てる」と言った。
「そんなことないですよ。元より、住む世界が違うんですよ」
「女だからわかるけど、玉城由依は君のことすごく好きだったと思うけど。あの日言ったことだって、安倍君たちを守るための彼女の嘘だって、わかっているんでしょ」
 僕が彼女に電話したら、それこそ彼女が嘘をついた意味がなくなってしまう。彼女は完全に僕たちとの関係を断ち切るために、あんな態度をとったんだ。そんなことはわかっている。
「諦める理由もないのに、諦めちゃダメよ。世の中、諦めた方がいいことなんて、たくさんあるけど、これに関しては諦めちゃダメ。玉城由依にとってのあなたも、あなたにとっての彼女も、どんなに探しても絶対に代わりはいないの。今、ここで電話をかけなかったら、あなたは絶対に一生後悔する。一度だけ、一度だけ、電話をかけて。実を言うとね、先月、食事をした時、君のこと本気で玉城由依から奪おうとしたの。でも、酔っ払ったあなたの口から出てくるのは、文学のことなんてほっといて彼女のことばかり。それだけ好きな人と、両思いなのよ。運命とか私信じないけど、あなたたちの出会いは奇跡みたいなものよ」
「いや、でも」
「あー、もう焦ったいわね」と村瀬さんは、僕の携帯電話を奪い取り、玉城さんに電話をかけた。電話のコール音が消えると、一ヶ月ぶりに玉城さんのいつもの声が、僕の携帯電話から聞こえてきた。村瀬さんが差し出す携帯電話を取り、耳に当てると、鮮明にあの冴わたる声が僕の鼓膜を心地よく振るわせた。
「久しぶり、元気?」僕がとりあえず思いついた言葉を口にすると「どうしたの?」と訊かれた。
「声が聞きたくなっちゃって、今一人?」
「それだけ?。一人だけど」
「そっか、会えないかな?」
 電話越しの玉城さんは何も言わない。僕は答えを待たずに、言った。
「あの丘の上で、日付が変わるまで待ってる。日付が変わっても玉城さんが来なかったら、君のことは綺麗さっぱり諦める。ただ、僕の勘違いじゃなければ、必ず来て欲しい」
 何か言いかけた玉城さんの言葉を聞かず、僕は一方的に電話を切った。そして、僕は、村瀬さんに、ありがとう、と言って、荷物をまとめ店を出た。店を出ると、大事そうにプレゼントの椅子を抱えた幸せそうな男の人とすれ違った。
 

 花火を見て、別れを告げられたベンチに腰掛け僕は彼女を待った。静寂なクリスマスイブの夜は、空気が乾燥しているせいで、都内なのに星がよく見える。頭の中で星と星を線で繋げて、一つ星座を作り終えると、悴んだ手をポケットに突っ込む。感覚がなくなった指先から感じる携帯電話の感触。僕は携帯電話を開いて、時間を確認する。後二時間したら、今日が終わってしまう。携帯のホーム画面には、何件かの着信履歴と、メールの受信履歴が表示されていた。玉城さんからだろう。僕は、決心を緩めないために日付が変わるまで、ついメールを確認したくなる衝動を抑えた。彼女はきっと車でやってくるだろう。三ヶ月前に、新居に引っ越し、移動のために車を買っていた。丘の近くを車が通ると、一抹の期待を込めて、車の方に目をやる。そして、僕の期待を裏切るように、僕を照らすヘッドライトが、踵を返し、無情に暗闇に消えていく。あと一時間、寒さで凍える耳の痛みがこめかみまで伝わってきた。そして、見覚えのある車の光が、寒さに震え縮こまっている僕のことを照らす。光の中から、赤いロングコートを着た彼女が現れた。
「来ないかと思ったよ」
「ごめん、遅くなった。準備に手間取って。元気そうで良かった」
「玉城さんは?。少し疲れているように見えるけど」
「そんなことないよ。むしろ元気出てきた」
 寒さで頬を赤くして、ちょっとハニカムと、僕は耳が真っ赤になるみたいな恥ずかしさを覚えた。気まずくて、とりあえず、メリークリスマスと、言うと、彼女も、メリークリスマス、と言った。僕は、好き、とか、会いたかった、とかシンプルなことを言えばいいのに、緊張と混乱のせいで、僕の舌が独自の意思を持ったみたいに口走った。
「パイドロスって本知っている?」
「パイドロス?、何の本」
「プラントが書いた、哲学書なんだけど」
 僕は、知識をひけらかすかのように、エロティシズムと恋愛についていろんな哲学書や詩人の言葉を引用して説明しすると、僕があれこれ言えば言うほど、彼女の顔は曇ってきて、取り繕うとまた、墓穴を掘って、
「まあ、そのなんて言うか、芥川龍之介云く、恋愛は性欲を美化した表現で、安吾は精神的な恋愛より肉体的な恋愛の方が優れているなんてのは幻想だ、って主張して」
 彼女は僕がベラベラ喋るのを遮ってにべることなく、「そのちょっと待って。あの、つまりなにが言いたいの?」と質問した。
「その、まあ、なんて言うか、朝まで一緒にいませんか?」と目を逸らして気まずそうに僕が言うと、彼女は怪訝な顔をして、「ダサッ」とこぼした後、ケラケラ笑って「でも、そっちの方があなたらしいかも」と言って、帰ろうか、と僕の手を取った。
 久々に彼女が僕の部屋に帰ってきた。僕が暖房をつけて、先にシャワーを浴びて良いか確認すると、彼女はその場で服を脱ぎ出す、そのままでいい、と言って、下着姿のまま抱きついてくる。むしゃぶるようにキスをする、性慾の味がした。電気を消して、ベッドの横で立ち尽くし僕を待つ、満開の夜桜の下で佇む、白い妖狐のように幻惑的な体。重力のように、僕の体は彼女の体に吸い寄せられていく。彼女が僕のシャツのボタンを外していく、ピアノ線のように緊張して張り詰めた瞬間の連続。ぎこちない仕草で、裸の彼女を僕の体に引き寄せる、張り付く二人の肌の熱で自分たちの境界線が曖昧になる。緊張してる、と彼女は僕の腕の中で声をこわばらせて言う。僕が髪を撫でて、考えることをやめて、一緒にベッドに優しく倒れる。ミキ、と言って僕を見つめる。ミキ?、と聞き返す。黒田美樹、それが私の本当の名前。クロダミキ、素敵なプレゼントだと思う。二人でいる時はその名前で呼んで。ミキ、と呼んでみる。彼女の顔は初めてほころんで、やっと本当の自分になれた気がする、と言った。トシノリの前では何も演じなくて良いんだね、と言って涙で目を濡らす。どうして泣いているの?、と訊くと、昔のことを思い出して、と言った。哀しい思い出なの?。ううん、両親が同じ腕時計をしている理由を子供のころの私が訊いた思い出。どうして二人は同じ腕時計をしていたの?、と僕が訊くと彼女は、パパがママにプロポーズした時にプレゼントしたの、世界に二つしかない時計で同じ時間を刻んでいこうだって、ロマンチックすぎるでしょ、と恥ずかしがった。素敵だよ、真似しても良い?、その時計はまだ持っているの、いつか見てみたいな。いつも身につけている腕時計だよ、とサイドテーブルを指差して言って、もう一つは強盗に盗られちゃった、と淋しそうに言った。両親の代わりに私が時間を刻むことにしたら、玉城由依を演じる人生が始まった。玉城由依の人生はどうだった?。玉城由依の自分はあまり好きじゃなかった。玉城由依のミキも僕には素敵に見えたけど、どうして?。自分にいつも嘘をついているみたいで、、、多分女優になったのは、嘘を重ねたいから。自分に嘘をついていることに慣れるから?。そう、女優として誰かを演じているときは別人になれる、玉城由依でいる必要のない、全く新しい私になれるから。女優の仕事は楽しい?。楽しいよ、特に最近は、でもね少しだけ疲れちゃった、嘘を重ね続けることに。それは辛いね、どうしたら嘘をつかずにいられるかな。わからない、誰かを演じ続ければていればいつか見つかると思っていた、でも見つからなかった。そっか、それならいつか書いてみせるよ、主人公が本当の自分を取り戻す話を、それを君が演じてよ、それが美樹の代表作になったら、もう嘘をつかなくて良くなるのかな?。そうなったら、本当に素敵ね、その映画がヒットしたら、その稼ぎで二人でどこか遠くで暮らしたい、店長たちみたいに二人で地元の人に愛される喫茶店を切り盛りしながら、どうかな?。良いね、約束するよ、絶対にいい作品を書いてみせるよ。そんな風に語らいながら、僕はその日初めて彼女を抱いた。
 美樹は夜明けと共に帰って行った。美樹が帰ると、久々に創作意欲の湧いた僕は、本棚から父が残した資料をペラペラめくり、新しい作品に使えそうなネタを探していると、ある無残な事件が目に飛び込み、思わずページを捲る手を止めた。黒田。彼女に夢中で気がつかなかったが、十三年前、父が記事にした強盗殺人事件の被害者の苗字と一致する。盗まれた物は、時計にトロフィーに高価なアクセサリーに現金。記事によると、盗品はまだ見つかっていない。少女は当時八歳。十三年後の美樹の年齢と一致する。僕はこの事件を題材に、サスペンス小説を一本書き上げていた。口封じのために強盗殺人に見せかけ殺された夫婦の娘が、家族を殺した組織に復讐する話だ。僕が書き上げた小説の内容が、この事件と似たり寄ったりだとしたら。もし、これがただの強盗殺人ではなく、夫婦が殺された原因が、口封じのためで、調査の途中で父が真相を知り、大きな陰謀に僕たち家族を巻き込まないように調査を断念していたとしたら?。父はあの日泥酔して帰ってきた。調査記録を完全に消去していなければ、父が残した資料の中にヒントがあるはずだ。僕はこの強盗殺人事件の裏に隠れた、もっと大きな陰謀の全容を掴むために、父の資料を読み漁り始めた。
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