花カマキリ

真船遥

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Scene 13-1

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 クリスマスを境に、青年とヨリを戻した由依の表情は明るく、別れてから塞ぎ込んでいた頃とは別人みたいだった。一月末には、次の映画の撮影が始まる。加賀美陽子がけしかけたマスコミは、一度、二人の仲を引き裂いたが、苦難を乗り越えた二人はより固い絆で結ばれることになった。由依が男と寝ることを期待している映画関係者たちは、仕切りに由依に男を紹介し続けていたが、彼女のお眼鏡に叶うことはなかった。またあの青年と交際が再開されたことがわかれば、由依の性質に縋っている醜い映画関係者たちが強硬手段に出るかもしれない。あの半年間の由依と青年の交際の隠蔽は完璧だったはずだった。情報がどこから漏れたのか判明するまでは、目立った行動をするな、と俺は由依に忠告していた。加賀美陽子は、所詮ただの女優だ。彼女には、そこまでの調査能力があるとは思えなかった。一体全体、どこから二人の情報が漏れたのだろうか?。
 生放送の正月特番の撮影の帰り道、俺は追跡してくる車がいないか入念に確認しながら、由依を自宅のマンションまで送迎していた。脚本家の田代と別れた後に借りたマンションは、以前ほど立地はよくないが、マスコミを巻くのに最適な場所だった。由依の家は綺麗に片付けられていて、今は料理に凝っているせいで、来るたびに新しいレシピ本や調理器具が増えている。春になったらピクニックに行くと意気込んでいる。仕事上のパートナーとは言え、一つ屋根の下に、男女で二人きり。信頼されているのか、男として認識されていないのか、少し警戒心が足りなさすぎる。俺は由依の許可を得て、ベランダで一服して、あたりに不審な人影がいないか確認する。なんら異変のない、正月の人気のないあたりの静かな様子に安堵して、思い過ごしか、とタバコの香りを愉しんだ。
 都会の濁った夜空に向かって紫煙を吐くと、煙は白い息と混じり合い、遠くまで灰色の粒子を飛ばし雲散霧消する。由依は窓を開けずに放心している俺をじっと観察するように見て、
「疲れてる?」と窓を開けてベランダに出てきて俺を心配した。
「いいや。どうして?」
「なんか難しそうな顔をして、ボーッとしてるから。もう帰るの?良かったらご飯食べて行かない?ゆっくりしていったら。明日から連休でしょ」
 どうせ味見役が欲しいのだろう、彼女の目には本当に俺が映っているのだろうか?、由依は俺の手の届くところで膝をかけて夜空を眺めている。もう少しで手が届く、この都会の濁った暗闇の中でも輝く一番星のような彼女の青白い肌に触れてみたら、由依はどんな反応をするのだろう?。
「お気持ちは嬉しいけど、早く寝たいから帰るよ」
と言って俺が部屋に入ると、俺に続いて、
「そっか残念。てか寒、私も早く部屋に入って寝る支度しよ」と体を震わせながら由依も部屋に入って行った。
 由依に軽く挨拶してから部屋を出た。少し最近の忙しさに辟易していた俺は、疲れ切った体から余計な体力を使わないようにだらしない姿勢で、ガンジス川のようにダラダラと階段を降りていくと、「雨に唄えば」をハミングしている、帽子を深く被った長身の細身の配達員とすれ違った。正月なのにお互い大変だな、とその細い背中を同情するように見送ってから、マンションのエントランスを出ると、こんな夜遅くにハルヨから電話がかかってきた。
「あんた、今どこにいる?」ハルヨの声は酷く落ち着きがなく、何かに急かされているようだった。
「どこって、由依のマンションを出たところですけど」
 マンションを出ると、あるはずのものがないような気がしていた。異変に気がつかない俺は、疲れているせいか、と思い、路上でタバコを取り出して、頭を冴えさせるために一服しようとすると、早くあの子の部屋に戻って、とハルヨが俺に電話越しに叫んだ。
「あの子レイプされるかもしれない」
「レイプ?」
「あまりにも男と寝ようとしないから、今度の映画を成功させるために、映画関係者たちが、あの子に強引にセックスさせようとしているのよ」
 異変の正体がわかった。マンションの周りには、トラックがない、そして、あの配達員は荷物も待たずに階段を上がっていた。このマンションには宅配ボックスがあり、大抵の配達員はそこに荷物を入れる。ハルヨの言っていることが現実味を帯びているような気がしてきた。俺は急いで、由依の部屋に駆けた、取り越し苦労ならそれで良い、間に合ってくれ、と。
 焦りと不安のせいで、手が震える。由依の家の合鍵を鍵穴に入れようとすると、一発で綺麗に入らない。鍵を開け、玄関を開けると、目に飛び込んできた物は、知らない男の靴。リビングルームからは由依が抵抗する声が聞こえる。俺は靴も脱がず、声の方向に駆けると、由依は着ていたシャツを破かれ、ブラジャーが顕になっていた。男は由依の手首を押さえ、胸に顔を埋めている。男は夢中で鼻息を荒げ、由依の腹に跨り、手を足で押さえつけ、ブラを強引に外そうとした。男は俺の存在に気がついていない。俺は部屋にあった花瓶で、男の後頭部を殴る。そして、頭を抑える男の首に、部屋にあった延長コードを巻き付け、のたうつ男の体を両足で固定して首を締め上げた。顔を真っ赤にさせた男の目は俺に救いを求めるようだった。首に巻きついたコードを外そうと、自分の首を、ガリガリと掻きむしり、長い爪は、首に血の色をした吉川線を残していく。最後の抵抗に、俺の顔を男の人差し指の爪が引っ掻くと、人体模型のように、男はピクリとも動かなくなった。
「し、死んだの?」由依は、露わになった乳房を両手で抱きしめるように隠して、肩でゼエゼエ息をしながら、恐ろしいものを見るように俺を見ている。俺は男の頬を叩き、口元に耳を近づけた。体温は感じられるが、男は息をしていない。
「旅行カバンを借りる」
 俺が一呼吸して、冷静に由依に話しかけると、彼女は言葉を失っているのかその場で何度も頷き、そして、「どこ?」と聞くと、クローゼットを指差した。クローゼットから、肩かけタイプの人ひとり入りそうな旅行カバンを取り出し、男の手足をコードで固く縛って、カバンに詰め込んだ。
「どうするの?」
 どうする?、もちろん埋めるに決まっているだろ。
「君には迷惑かけない。いいか、ここで起きたことは全部忘れるんだ」
 カバンを肩に掛けると、男の体重がのしかかる。また一人殺した。由依は、怯え切っているのか追いかけて来ない。それで良い。俺が玄関のドアノブに手を掛けると、待って、と由依が俺を呼び止めた。男に引っ掻かれた頬の傷から、一筋の血液がゆっくりと顎まで伝っていく。ドアノブから手を離してみる。少しずつ由依の息遣いが鮮明に聞こえてくる。振り返りたい。そんな欲が強まると、くすぐったい血液の伝う感触も確かになっていく。血液を指の腹で拭ってやると、俺の手には真っ赤な血痕がつく。この汚れた手であいつに触れたら、俺はあいつのことも汚しちまうのだろうか。
 手を汚すのは俺だけで良かった。俺は、一瞥も、優しい言葉も送らず、おもむろに由依の部屋から出て行き、三が日も終わろうとしている夜に、二度目の殺人の証拠の隠滅を計った。
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