花カマキリ

真船遥

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Scene 15-3

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 地下の手術室に向かう廊下は異様に綺麗だが、今にも大量の血液が洪水のように流れ込んできそうな程異様な気味の悪さを湛えていた。電話で秘密の地下手術室に案内される道すがら、俺はハルヨが敵の内通者だと疑い始めていた。由依が他殺だとして、誰が彼女を殺せたかずっと考えていた。由依は俺に家の合鍵を預けたりするような警戒心の薄い一面を見せるが、基本的に他人には絶対に踏み越えさせない領域を持っている。そんな由依があの深夜に自分の部屋に招き入れるほど信頼している人間が誰なのかずっと考えていた。親しくない芸能関係者は基本的に信用していない。考えられるのは、加賀美一家や友人に限られた。ハルヨなら、あの時間に由依の部屋を訪問しても、すんなりと招き入れてもらえるだろう。
 暗号認証式の鍵のある扉に案内された俺は、
「19338765と打ち込め、その先に女がいる」と伝えられ電話を切られた。
「この先にカレンがいる。今から言う番号を入力してほしい」俺はハルヨの背後を取るために、彼女に扉の開閉をお願いした。
「わかったわ」とハルヨは了承し、鍵の前に立つ。俺はハルヨの背後に回り込み、銃口をハルヨの背中に押しつけて冷たい声で言った。
「お前が由依を殺したんだろ」
 ハルヨは、眉を顰めて俺の方を見て、何言っているの?、とはぐらかし動こうとするので、動くな、と言い放った。ハルヨはその場で手を上げて動こうとしない。
「内通者はお前だな」と訊くと、
「バレちゃったか」とハルヨは諦め、「そう、今日の計画を郷田組に流したのは私。それに由依を殺したのも」と声色を変えて俺に言った。
「お前は何者なんだ?」
「私?私は芸能界専門の殺し屋。由依も依頼があって殺した。由依は両親の強盗殺人の真相を知る可能性が出てきた。それであの人に依頼されて彼女を殺した。あなたを殺す依頼も来たわ。どうやらあの人は自分が狙われていることに気がついたみたい。それで、あなたから全ての情報を聞き出した後に抹殺するよう依頼されたの。あなたは仲間に計画の全てを話していないみたいだし、脅したところで簡単に口を割らないだろうから、仲間を人質に取ることにしたのよ。カレンを唆したのも私、彼女は人質役に適任だったから」
 ハルヨは息をするように、自分が内通者だと話した。目の前に由依を殺した奴がいる。今すぐにでも、この女を撃ち殺してやりたいが、内通者なら利用価値がある。俺はハルヨを人質にして、郷田組の奴らに人質交換を持ちかけるために、彼女の首に腕を回し、顎に銃口を突きつけ直して、扉を開けろ暗証番号はわかるだろ、と命令してハルヨに扉を開けさせた。
 扉の先の部屋は、柱とベットだけの清潔な部屋で、フルメタルジャケットの訓練生の下宿所によく似た造りだった。部屋の入口から出口まで、柱とベッドが、シンメトリーに配置されている。向いの扉の前、柱に挟まれたところで、三人の男がカレンにナイフを突き立てて、三白眼で俺を出迎えた。三人の男は、俺がハルヨを内通者だと見抜いたことを察したのか、ナイフを下ろして、対等な立場であることを示した。
 俺はカレンを救うために奴らに交渉を持ちかけた。
「俺があんたらのボスについて知っていることを全て伝える。その代わり彼女を解放しろ。その条件が飲めないなら、この女を殺す」
「わかった。わかった。その女を解放しろ」
「いいや、カレンが先だ」と言って、俺はハルヨの顎に強く銃口を押し付ける。ハルヨは、冷静さを失わない。俺の腕の中で呼吸を乱さず、冷や汗一つかかない。死を受け入れているように感じるほど、腕から伝わる体温は人形みたいに冷たい。男たちは目を見合わせて、懐から銃を抜き取った。
「お前らが、こいつごと俺を射殺しても構わないが、俺が死んだら調べた情報が影の協力者に全て引き継がれる手筈になっている」とハッタリをかまし、俺はニセの情報が書かれた紙を相手に見せ、
「このメモ用紙に書かれた住所に俺が調べ上げたお前らの情報がまとめてある。この女のポケットに入れる。カレンが解放されたら、情報ごとこの女を引き渡す」とポケットにメモ用紙を入れた。
 ヤクザたちがカレンの背中を押すと、カレンはこちらに駆け寄ってきた。顔を殴られたせいで目の下が蒼く腫れている。目が合うと、腫れた部分を手で隠した。俺が油断してハルヨを手放そうとすると、
「私に人質としての価値なんてあまりないわよ」と呟くようにハルヨが俺に言い放ち、手元からするりと抜けたのを合図に、ヤクザたちは俺とカレンに向かって一斉に射撃を開始した。カレンの手を取り、柱の影に隠れて銃弾をやり過ごすと、銃声が止み、少しずつ俺たちの方へ三人は歩いて向かって来た。ハルヨが解放され、情報も得た彼らは俺を始末するつもりだ。もしかしたら、情報は二の次で、奴らは最初から俺を殺すつもりだったのかもしれない。ただ、元から俺を殺すことが目的なら、ハルヨの行動は不可解だった。初めからハルヨに俺を始末させれば良いのに、なぜあいつはそうしなかったのか。ハルヨの不可解な行動を分析し、彼らに交渉を迫り、逃げ出すのは難しそうだ。なんとかカレンだけでも逃がせれば。彼女は俺の手を強く握っている。足音はだんだん大きくなってきている。相打ち覚悟で飛び出して、なんとか三人を撃ち殺せるだろうか。だが、俺が決死の覚悟を決めて飛び出そうとすると、カレンは俺の手から拳銃を奪い取って、一度だけ俺にキスをして、柱の影から飛び出した。彼女の手を取ろうとしたが、手は届かず、カレンは叫び声を上げながら、ひたすら引き金を引いた。
 銃弾の軌跡を視認できるような停止した時間の中で、地下室の中で絶え間なく銃声が鳴り響き、銃口から硝煙が綺麗な灰色の粒子になって立ち昇る。部屋の明かりを真鍮色に乱反射する薬莢が地面にぶつかると軽快な金属音を奏でる。銃声が止むと、部屋は音を失ったかのように静まり返り、俺の時間は動き始めた。カレンは銃を構えたまま呆気に取られたような顔をして立ち竦んでいる。カレンは無事だった。俺は立ち上がり、カレンの元に駆け寄ろうとした、その時。一発の銃声が鳴り響いた。最後の力を振り絞ったヤクザの凶弾は、カレンの溝落ちを貫き、カレンの背中から一筋の綺麗な朱色の鮮血が噴き出すと、カレンはその場に倒れた。傷口からは、ドクドクと血が流れていく。床はサラサラした赤い絵の具をこぼしたみたいに、真っ赤に染まっていく。俺がカレンの傷口を必死になって押さえると、手から生温い血がこぼれていった。カレンの顔から血の気が引き、生気を失っていく。彼女はショックで気を失っているのか、俺が何度も呼びかけても答えない。頬を優しく何度も叩いて、ようやく、大きな咳をして目を覚ますと、目を細めながら俺に話しかけてきた。
「なんで助けに来ちゃったの?」そんな事わざわざ訊くなよ。
 なんとかカレンを助けないと。幸いここは病院だ、急いで駆け込めばなんとか助かる。カレンを抱えて立ち上がると、血が勢いよく傷口からこぼれてビシャビシャと跳ねた。先に止血しないと、もう一度カレンを床に寝かせ、止血しようとすると、カレンは何かを探すような手つきで俺の体を消え入りそうな力で触ってきた。視界が薄れてきているのか、暗闇の中で壁を探しているみたいだった。
「私のあげたネックレス今日つけてる?、ねえ、ちょうだい、あなたのネックレスを私の首にかけて」
「もういい、何も喋るな。そんなことより、早く医者に診てもらわないと」
「指名手配犯が皆んなの前に堂々と現れちゃダメじゃない。私はもうダメ、わかるの。お願い、死ぬ前に私にそのネックレスをちょうだい。お願い」
 カレンは俺の腕の中で、冷たくなっていき、グッタリと力を失っていった。俺は要求通り、ネックレスをカレンの首にかけてやると、彼女はネックレスをギュッと握り、俺に向かって物淋しく、
「ずっと玉城由依のために動いていたんでしょ。あの女の仇をとるために、私が気づいてないと思ってたの?。でも、ここに来てくれたってことは、リュウの中で玉城由依より私の方が大事だったってことでしょ。来ないでって思ってたけど、来てくれて嬉しかったよ。これで私があなたの一番だって証明された。今更気づいたってもう遅いよ。あなたは本当に馬鹿だねえ」と言って、安らかに目を瞑ったまま動かなくなった。
 何度揺すっても、呼びかけても、カレンは目を覚まそうとしない、ナース服に真っ赤な薔薇みたいな血液を滲ませ、体が硬直していった。俺は本当に馬鹿だった。血と硝煙の匂いが瀰漫する地下室で、彼女は俺を守って死んだ。カレンの綺麗な死相を見ると、走馬灯のように、この数年間の彼女との思い出が蘇ってきた。真っ赤に汚れた俺の掌からは、とても大事なものが零れ落ちていく。耐え難い喪失感に打ちのめされそうになった。以前の俺ならここで命を絶っていただろう。だが、俺は死ぬ訳にはいかない。俺がここでやめたら、何の為にカレンは死んだんだ。俺は意地でも計画を完遂させる必要がある。
 すれ違う看護師や患者たちは血まみれの俺をみて悲鳴をあげているが、俺はそんなことに脇目も振らず、院長から不正の証拠を聞き出すために、エレベーターに一人で乗り込み、目的の階まで上がっていった。エレベーターは一度も止まらず、目的の階に辿り着き、俺は確かな足取りで院長室に入って行こうとすると、扉は開けっぱなしにされていて、部屋の中で仁科院長は口封じの為に頭を撃ち抜かれていた死んでいた。簡単にデータを復元できないように、パソコンも破壊されている。何とか中身のハードディスクだけでも持ち帰らなければとパソコンを解体していると、部屋の外から女の叫び声が聞こえてきた。振り返るとナース姿の看護師が血まみれの俺と犯行現場を見て青ざめていた。すると、示し合わせたかのように、パトカーのサイレンが院長室まで聞こえてきた。ハルヨが院長を殺し、警察に通報したのだろう、誰かが警察を呼んだにしても到着があまりにも早すぎる。警察だけではなく、扉の前には警備員や看護師が何人かやってきていた。俺はここに長居できなくなり、計画は失敗に終わったと悟った。
 ここから逃げ出さなければならない、下には警察、目の前には警備員、とりあえず、俺は威嚇射撃の為に適当なところに向けて発砲し、震え上がったギャラリーの中から小柄な女の看護師を人質に取りエレベーターに乗り、人質に救急車まで案内させた。救急車で強行突破しよう、追跡をまく運転には自信がある。ごめんなさい、ごめんなさい、と手元で震える看護師。俺はどこまで逃げれば良いのだろうか、追跡を巻いたとして、救急車を乗り捨てた後は、どうすれば良い?、そんな事逃げ切ってから考えれば良い。救急車はイメージより大きく見えた。こんな目立つ車で逃げ切れるか、俺はその場にいた救命医を脅し、運転席に乗せ車を発進させた。けたたましいサイレンを鳴らし救急車が救命用の駐車場を抜けると、何台かのパトカーが救急車を追跡しに行った。
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