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第5話「繋がりゆく共謀の輪」
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そうしてフランツと一緒になって研究機関周辺の実態に迫る間に、クーポン横領の一件に関しても進展はあった。ただしそれは係争の外で、思わぬ形の影響としてだ。
その朝、ばたんと開いた事務所の扉からどたどたと音を立てて訪問してきたのは、二等公書士ニーナだった。さらに彼女に引っ張って連れてこられた来たのは、記者と公書士、二足わらじのシモン青年である。
「重要参考人を連れて来たわ」
やや息の上がった第一声は冷静に用件を告げたが、どこか苛立ちを含んだように聞こえた。投げ入れるように腕を振るうと、よろめいたシモンが室内の中央へ踊り出る。この間から、我らが事務所は尋問の舞台のようになっているのだった。
「これを見て」
言いながら新聞記事らしきものを広げたので、アンリエッタが近寄って確認する。
「『マティルド・クーポンに危機か!? 職員の横領により紙切れに!?』」
一面を読み上げて顔を上げると、ニーナが頷きで返してみせる。
「昨日、街中で声高に喧伝して売られていたわ」
「これを、シモンさんが?」
「……正確には合作だがね。しかし特に問題だという認識はない」
昨夜に深酒でもしたのか体にいくらか酒臭さを残したシモンは、不服そうに答える。彼方を示す手振りで腕を広げ、言った。
「なんなら適当な売店にでも確認してくると良い。今日は多くの紙面で同じニュースを取り上げてるんだ。ウチだけがどうこうというわけでは」
「だからと言ってそのタイトルは何? 事実無根の話を流布する理由にはならないわ」
「ぐっ……そりゃあ僕だって、過剰な見出しかもと思わなくもなかったですが」
冷たく詰問されたのに一旦口を窄めたシモンだったが、しかしすぐに意気を取り戻す。
「だけれども、事実無根というのはどうなんですか。商業組合とイスタ銀行の関係が悪化したことは、公表されている裁判記録を見ればわかることでしょう。しからば近い内、クーポンの運営に不具合が起こるのは当然あり得る話であると、ただそう主張しているまでじゃないですか」
「悪影響を与えているじゃないの。各社がこぞって報道を始めたというのは今あなたが言ったことでしょう。混乱の種を蒔いたという認識はないの?」
「遅かれ早かれじゃないですか。そもそも組合がクーポン事業の健在さを主張すれば済む話で、それをしないのは彼らの手落ちだ。報道に当たって配慮しろと言われるのは筋違いです。……所長こそ、義憤に駆られているのはロランさんの関わる案件だからではないんですか」
「なっ」
「はーい、喧嘩はストップ。やめて」
瞬間気色ばんだニーナに被さる形で、アニーがはっきりと待ったを掛ける。
「ま……シモン君が何をしたところでね、言ってた通りそんな変わらないんじゃない? だから責めても一緒。自分とこの部下が迷惑かけてるかもって思ったら気が逸っちゃうのもわかるけど、ロランのことはまあ、そんな気にかけないでも良いし」
「おい」
横から抗議の声が入ったが、アニーはすっかり無視してシモンの方へ目を向けた。
「そんでキミも、せっかく取った一面をニーナちゃんに叱られたからって拗ねないように」
「なっ、僕は拗ねてなど」
「はいはい、どーどー、ヨシヨシ。反論できるってのは別に、立派な男の象徴ってわけじゃないんだぜ?」
言い返したげに唇を噛んだシモンだったが、言葉を飲み込んで黙る。会話に隙間ができたのを見計らって、アンリエッタが口を開いた。
「実際、世の中の動きはどうなんでしょう? どういう経緯でこの記事を?」
話の流れが変わるのにわずかな抵抗感を表したシモンだったが、それでも質問には回答してくれる。
「裁判が開かれてしばらく経った頃だ。金利生活者たちの中である噂が立っていると、そう聞いた。クーポンが使えなくなるかもとね。その段階で、一部の人間の間では持っているクーポンの処分が始まっていた。今では両替商の相場も下がり始めている」
金利生活者と言えば、所有する国債の利息や不動産を担保とした終身年金などの収入だけで生活する者たちのことだ。要は小資産家というわけだが、綿密に生活資金の管理を行う彼らは、手軽に生活費を削減できるクーポンのキャンペーンを大いに活用する層でもある。
アニー、とロランが名前を呼ぶ。意を得た彼女から新聞を渡してもらった彼は、デスクでその記事を眺めながら、言う。
「換金用に準備されている資金はそれなりだ。小金持ちどもが大挙したくらいで枯渇することは考えづらいが、とはいえ素地は「ある」と見るべきだな。庶民までが手持ちの金券の処分に動いてしまえば、クーポン事業は潰れるぞ」
換金資金はおよそひと月分ほど余分にプールされているというが、状況が進めば販売額は減退し換金額が増大していく。もちろんそれにしたって、商業組合が有している資本から資金を注入したなら、賄うことはおそらく可能なはずだ。けれども、組合があくまで事業者たちの寄り合い組織である以上、その意思決定は一枚岩ではないし、直前までの投資計画もあるのだから、そう簡単に取っ替え引っ替えをして換金資金に充てるというのも、実際現実的ではないだろう。
それにだ。銀行の支店が保有する現金もまた、無尽蔵ではない。銀行側が限界を危ぶんで換金を一時停止にすることだって十分にあり得る。期間をおけば当然、換金の中断は解除されるだろうが、その瞬間あらゆる信用が下落しかねないことは言うまでもない。
読み終わったのか、ぱさりと新聞を放った。
「だいたい噂自体、根も葉もないとまでは言えん。二年保障を盾に清算するクーポンを限定して勝ち逃げするやり方も考えられる。役員方で分け合ってもまあまあの上がりにはなるだろうが、実際問題、強引に対処すればそれだけ軋轢が生まれる。聞屋だけでなく国からも問題視されかねないことを踏まえると、手放しに良案とも言い難いな。とはいえ銘々思惑は様々だから、意思統一にも時間が掛かるはずだ」
机に広げた紙面を、ロランはこんこんとノックするように指で叩く。
「そのもたつきを思えば、こういう話が流行るのも悪くはない。上手くすれば、くだらない裁判をさっさと和解に持ち込むための材料になりうる」
「あちらの危機感を煽る、というわけですか?」
訊ねれば、頷きが返る。アンリエッタは口許に手を置いてちょっと考え、それから顔を上げた。
「なら、公権力が介在してくるかもと意識させたいところですね」
「そうなるな。追い立てた結果損切りに走らせては元も子もない。今度はその分配で揉めて、面倒な仕事を増やす羽目になる」
「すると――」
「ちょっ、ちょっと待って!」
慌てた様子で横入りするニーナ。
「何も、こんなところで話し込まなくても。その……」
言いながら、ちらりとシモンを横目で見た。「ほう」とロランもそちらに向いて、彼と目を合わせる。
「この会話も記事にするのかね?」
「いや――」
「したければすれば良い。無論同意はしないし訴えも起こすがね」
口調こそどうでも良さげだが、口にした対応は攻撃的だった。殴り付けられたのに応じるように、ぐっとシモンの眉根に皺が寄る。
「……なんですか、それは? そんなことで僕が怖気付くとでも? 少しばかり脅されたからって、僕は自分の主張を曲げるつもりは」
「まあ、記者としての君はそうなんだろうな」
彼の所信を遮って、ロランは言う。
「シモン・クレマン三等公書士。勘違いをしているようだから補足しておくが、この場合私が文句を付けるのは君ではなく君の上司だよ」
「なっ」
「え?」
ニーナも合わせて、寝耳に水とばかりに二人組が声を上げた。
「当然だろう? 君は公書士として彼女の事務所に所属していて、部下として我々の所へと連れられて来た。ここで君が情報漏洩を企図するのであれば、責任を取るべきはそちらの代表者たる彼女だ」
「だ、だとしても無理筋ですよ。僕がするのは公書士の職務上の仕事じゃない。つまりは、ニーナ先生の管轄外のことじゃないですか」
「さて、どうかな。我々は公書士として、依頼者の利益を守るために必要な話し合いを実施している。君の上司もまたその利益の維持のために我々を訪ねて来た。ここに生じた協力関係を信頼して我々は君らの同席を暗黙の内に了解しているわけだが、それで知り得た情報をみだりに公表し依頼者の不利益に繋げるというのであれば、これは公書士の職業倫理に深く抵触する行為と言える。この根拠でもって、彼女に損害賠償と組織体制の正常化を求める」
公書士はその仕事の性格上、依頼者の相当にプライペートな領域に立ち入る職業だ。秘密裏に開示された情報を共有するのは業務上の関係者間に留め、これを利用して私的な利益を得たり、依頼者の地位や生活を貶めたりするようなことがあってはならないということは、紛れもなく公書士の倫理規定として定められている事項ではある。
けれども、今現在の彼の立場を公書士の倫理規定に当てはめることができるかどうかは、かなり微妙のように思われた。どころかロランやアンリエッタの言動こそ不用意だと抗弁を受ける余地まである。だからだろうか見解を一通り聞いたシモンは、狼狽した様子でその場を一歩退いた。
「いや、そんな、滅茶苦茶な」
「だが理屈は通っている」
「屁理屈ですよ。誰が、そんな主張を認めるというんですかっ」
「少なくとも君の上司はこれを認める。私の知るニーナ・クレマンというのはそういう人間で、それが全てだ。君が何を言おうとしたところで変わらん。君は、この請求関係の外にいる人間だからな」
どうも二人が同じ苗字であるらしいことは一旦置いて。確かに、ニーナが端から要求に応えるつもりであれば裁判にすらならない。苦情を受けた本人が粛々と受け入れたのなら、シモンにできることは、彼女がその後彼に下す処遇に文句をつけることくらいだ。
「よって、君にできることは二つに一つというわけだ。上司にして義理の姉である彼女を踏みつけにして己の栄光を手にするか、大人しく口を閉じ、耳にしたことを慎み深く黙っているかのね」
「……っ」
挑発的な文言の選択肢を提示したロランは、そこで言葉を止める。何事も一切言いあぐねて、シモンが歯噛みしてみせる。
隣のアニーが、つんつんとロランの肩をつついた。目を向けた彼に彼女が指で示して見せたのは、腕を組んで唇を歪めるニーナだ。
「ずいぶん、勝手なことを言うのね」
「何か違うところがあったか?」
「そりゃ面倒は見るけれど。止めろと言ったのに聞かずに喋り続けたことまで責任は取らないわよ」
「ふむ。俺の買い被りだったか」
「かっ……あなたねえ、言うに事欠いて」
軽い調子で応酬される小言と居直りに毒気を抜かれたのか、シモンは深くため息をついた。
「……結局、茶番じゃないか。本気でそうするつもりなんてないんだ」
嘆いた言葉に、ロランは「ふん」と鼻息を鳴らす。
「どうとでも取ればいい。ここで前者を選ぶというなら、私は彼女に袂を分つよう勧めたいがね。それが例え、恩人の息子であろうともだ」
突き放すように告げられて、シモンは言葉を返せないで口を噤む。互いに黙りこくってしまって、その沈黙に、アンリエッタは小さく掲げた手を差し込んだ。
その朝、ばたんと開いた事務所の扉からどたどたと音を立てて訪問してきたのは、二等公書士ニーナだった。さらに彼女に引っ張って連れてこられた来たのは、記者と公書士、二足わらじのシモン青年である。
「重要参考人を連れて来たわ」
やや息の上がった第一声は冷静に用件を告げたが、どこか苛立ちを含んだように聞こえた。投げ入れるように腕を振るうと、よろめいたシモンが室内の中央へ踊り出る。この間から、我らが事務所は尋問の舞台のようになっているのだった。
「これを見て」
言いながら新聞記事らしきものを広げたので、アンリエッタが近寄って確認する。
「『マティルド・クーポンに危機か!? 職員の横領により紙切れに!?』」
一面を読み上げて顔を上げると、ニーナが頷きで返してみせる。
「昨日、街中で声高に喧伝して売られていたわ」
「これを、シモンさんが?」
「……正確には合作だがね。しかし特に問題だという認識はない」
昨夜に深酒でもしたのか体にいくらか酒臭さを残したシモンは、不服そうに答える。彼方を示す手振りで腕を広げ、言った。
「なんなら適当な売店にでも確認してくると良い。今日は多くの紙面で同じニュースを取り上げてるんだ。ウチだけがどうこうというわけでは」
「だからと言ってそのタイトルは何? 事実無根の話を流布する理由にはならないわ」
「ぐっ……そりゃあ僕だって、過剰な見出しかもと思わなくもなかったですが」
冷たく詰問されたのに一旦口を窄めたシモンだったが、しかしすぐに意気を取り戻す。
「だけれども、事実無根というのはどうなんですか。商業組合とイスタ銀行の関係が悪化したことは、公表されている裁判記録を見ればわかることでしょう。しからば近い内、クーポンの運営に不具合が起こるのは当然あり得る話であると、ただそう主張しているまでじゃないですか」
「悪影響を与えているじゃないの。各社がこぞって報道を始めたというのは今あなたが言ったことでしょう。混乱の種を蒔いたという認識はないの?」
「遅かれ早かれじゃないですか。そもそも組合がクーポン事業の健在さを主張すれば済む話で、それをしないのは彼らの手落ちだ。報道に当たって配慮しろと言われるのは筋違いです。……所長こそ、義憤に駆られているのはロランさんの関わる案件だからではないんですか」
「なっ」
「はーい、喧嘩はストップ。やめて」
瞬間気色ばんだニーナに被さる形で、アニーがはっきりと待ったを掛ける。
「ま……シモン君が何をしたところでね、言ってた通りそんな変わらないんじゃない? だから責めても一緒。自分とこの部下が迷惑かけてるかもって思ったら気が逸っちゃうのもわかるけど、ロランのことはまあ、そんな気にかけないでも良いし」
「おい」
横から抗議の声が入ったが、アニーはすっかり無視してシモンの方へ目を向けた。
「そんでキミも、せっかく取った一面をニーナちゃんに叱られたからって拗ねないように」
「なっ、僕は拗ねてなど」
「はいはい、どーどー、ヨシヨシ。反論できるってのは別に、立派な男の象徴ってわけじゃないんだぜ?」
言い返したげに唇を噛んだシモンだったが、言葉を飲み込んで黙る。会話に隙間ができたのを見計らって、アンリエッタが口を開いた。
「実際、世の中の動きはどうなんでしょう? どういう経緯でこの記事を?」
話の流れが変わるのにわずかな抵抗感を表したシモンだったが、それでも質問には回答してくれる。
「裁判が開かれてしばらく経った頃だ。金利生活者たちの中である噂が立っていると、そう聞いた。クーポンが使えなくなるかもとね。その段階で、一部の人間の間では持っているクーポンの処分が始まっていた。今では両替商の相場も下がり始めている」
金利生活者と言えば、所有する国債の利息や不動産を担保とした終身年金などの収入だけで生活する者たちのことだ。要は小資産家というわけだが、綿密に生活資金の管理を行う彼らは、手軽に生活費を削減できるクーポンのキャンペーンを大いに活用する層でもある。
アニー、とロランが名前を呼ぶ。意を得た彼女から新聞を渡してもらった彼は、デスクでその記事を眺めながら、言う。
「換金用に準備されている資金はそれなりだ。小金持ちどもが大挙したくらいで枯渇することは考えづらいが、とはいえ素地は「ある」と見るべきだな。庶民までが手持ちの金券の処分に動いてしまえば、クーポン事業は潰れるぞ」
換金資金はおよそひと月分ほど余分にプールされているというが、状況が進めば販売額は減退し換金額が増大していく。もちろんそれにしたって、商業組合が有している資本から資金を注入したなら、賄うことはおそらく可能なはずだ。けれども、組合があくまで事業者たちの寄り合い組織である以上、その意思決定は一枚岩ではないし、直前までの投資計画もあるのだから、そう簡単に取っ替え引っ替えをして換金資金に充てるというのも、実際現実的ではないだろう。
それにだ。銀行の支店が保有する現金もまた、無尽蔵ではない。銀行側が限界を危ぶんで換金を一時停止にすることだって十分にあり得る。期間をおけば当然、換金の中断は解除されるだろうが、その瞬間あらゆる信用が下落しかねないことは言うまでもない。
読み終わったのか、ぱさりと新聞を放った。
「だいたい噂自体、根も葉もないとまでは言えん。二年保障を盾に清算するクーポンを限定して勝ち逃げするやり方も考えられる。役員方で分け合ってもまあまあの上がりにはなるだろうが、実際問題、強引に対処すればそれだけ軋轢が生まれる。聞屋だけでなく国からも問題視されかねないことを踏まえると、手放しに良案とも言い難いな。とはいえ銘々思惑は様々だから、意思統一にも時間が掛かるはずだ」
机に広げた紙面を、ロランはこんこんとノックするように指で叩く。
「そのもたつきを思えば、こういう話が流行るのも悪くはない。上手くすれば、くだらない裁判をさっさと和解に持ち込むための材料になりうる」
「あちらの危機感を煽る、というわけですか?」
訊ねれば、頷きが返る。アンリエッタは口許に手を置いてちょっと考え、それから顔を上げた。
「なら、公権力が介在してくるかもと意識させたいところですね」
「そうなるな。追い立てた結果損切りに走らせては元も子もない。今度はその分配で揉めて、面倒な仕事を増やす羽目になる」
「すると――」
「ちょっ、ちょっと待って!」
慌てた様子で横入りするニーナ。
「何も、こんなところで話し込まなくても。その……」
言いながら、ちらりとシモンを横目で見た。「ほう」とロランもそちらに向いて、彼と目を合わせる。
「この会話も記事にするのかね?」
「いや――」
「したければすれば良い。無論同意はしないし訴えも起こすがね」
口調こそどうでも良さげだが、口にした対応は攻撃的だった。殴り付けられたのに応じるように、ぐっとシモンの眉根に皺が寄る。
「……なんですか、それは? そんなことで僕が怖気付くとでも? 少しばかり脅されたからって、僕は自分の主張を曲げるつもりは」
「まあ、記者としての君はそうなんだろうな」
彼の所信を遮って、ロランは言う。
「シモン・クレマン三等公書士。勘違いをしているようだから補足しておくが、この場合私が文句を付けるのは君ではなく君の上司だよ」
「なっ」
「え?」
ニーナも合わせて、寝耳に水とばかりに二人組が声を上げた。
「当然だろう? 君は公書士として彼女の事務所に所属していて、部下として我々の所へと連れられて来た。ここで君が情報漏洩を企図するのであれば、責任を取るべきはそちらの代表者たる彼女だ」
「だ、だとしても無理筋ですよ。僕がするのは公書士の職務上の仕事じゃない。つまりは、ニーナ先生の管轄外のことじゃないですか」
「さて、どうかな。我々は公書士として、依頼者の利益を守るために必要な話し合いを実施している。君の上司もまたその利益の維持のために我々を訪ねて来た。ここに生じた協力関係を信頼して我々は君らの同席を暗黙の内に了解しているわけだが、それで知り得た情報をみだりに公表し依頼者の不利益に繋げるというのであれば、これは公書士の職業倫理に深く抵触する行為と言える。この根拠でもって、彼女に損害賠償と組織体制の正常化を求める」
公書士はその仕事の性格上、依頼者の相当にプライペートな領域に立ち入る職業だ。秘密裏に開示された情報を共有するのは業務上の関係者間に留め、これを利用して私的な利益を得たり、依頼者の地位や生活を貶めたりするようなことがあってはならないということは、紛れもなく公書士の倫理規定として定められている事項ではある。
けれども、今現在の彼の立場を公書士の倫理規定に当てはめることができるかどうかは、かなり微妙のように思われた。どころかロランやアンリエッタの言動こそ不用意だと抗弁を受ける余地まである。だからだろうか見解を一通り聞いたシモンは、狼狽した様子でその場を一歩退いた。
「いや、そんな、滅茶苦茶な」
「だが理屈は通っている」
「屁理屈ですよ。誰が、そんな主張を認めるというんですかっ」
「少なくとも君の上司はこれを認める。私の知るニーナ・クレマンというのはそういう人間で、それが全てだ。君が何を言おうとしたところで変わらん。君は、この請求関係の外にいる人間だからな」
どうも二人が同じ苗字であるらしいことは一旦置いて。確かに、ニーナが端から要求に応えるつもりであれば裁判にすらならない。苦情を受けた本人が粛々と受け入れたのなら、シモンにできることは、彼女がその後彼に下す処遇に文句をつけることくらいだ。
「よって、君にできることは二つに一つというわけだ。上司にして義理の姉である彼女を踏みつけにして己の栄光を手にするか、大人しく口を閉じ、耳にしたことを慎み深く黙っているかのね」
「……っ」
挑発的な文言の選択肢を提示したロランは、そこで言葉を止める。何事も一切言いあぐねて、シモンが歯噛みしてみせる。
隣のアニーが、つんつんとロランの肩をつついた。目を向けた彼に彼女が指で示して見せたのは、腕を組んで唇を歪めるニーナだ。
「ずいぶん、勝手なことを言うのね」
「何か違うところがあったか?」
「そりゃ面倒は見るけれど。止めろと言ったのに聞かずに喋り続けたことまで責任は取らないわよ」
「ふむ。俺の買い被りだったか」
「かっ……あなたねえ、言うに事欠いて」
軽い調子で応酬される小言と居直りに毒気を抜かれたのか、シモンは深くため息をついた。
「……結局、茶番じゃないか。本気でそうするつもりなんてないんだ」
嘆いた言葉に、ロランは「ふん」と鼻息を鳴らす。
「どうとでも取ればいい。ここで前者を選ぶというなら、私は彼女に袂を分つよう勧めたいがね。それが例え、恩人の息子であろうともだ」
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