いつかペンと制度の力で 〜公書士アンリエッタ〜

ktktkenji

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第7話

7-2

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 中央市場が先に見たように閑散とするのと引き換えに、栄える場所があった。
 ある日の夕刻、カストル地区、商業組合事務局の門前は人だかりで満ちている。両開きの門扉の脇をはみ出して集まる血気盛んな顔ぶれ、それとやや遠巻きに様子を見守る第二、第三陣を含めれば、集合した民衆は百を下らない。
 閉ざされた敷地の内側には守衛と、おっかなびっくりと息を呑む平の事務局員と、ロランの仕事に帯同して局へと訪れている、アンリエッタが立っていた。
 どよどよと、塀を挟んだあちら側からは人々の声が漏れ聞こえている。鋼鉄の門扉の敷地側、目線の位置にある覗き窓の取っ手に、アンリエッタは指を掛けた。二度ほど繰り返して受けた注意に従って、自身が正面にはならない位置にいることを確かめると、すらりと横へ窓の蓋を滑らせる。
 幸いにも何も飛んではこなかった覗き窓の先に、シモンの顔が見えた。
「やあどうも! 役員方との面会を希望したはずだが」
「すぐには難しいかと。言伝であれば、私が」
 やにわに勢いを増した喧騒に負けないように、声を張って言葉を交わす。シモンはいったん考えるふうに黙って、それからまた口を開いた。
「では……こちらの意見書を頼もう。お歴々へご通知願いたい」
 丸めた数枚の書類と新聞が、覗き窓から突っ込まれる。
「はい。確かに」
「頼んだよ」
「はい」
 会話を終えて窓の蓋を戻す。塀の向こうで、シモンが取りなす様子で群衆に語りかけるのが聞こえた。アンリエッタは特別耳を傾けることはせずに、踵を返して歩き出す。局のエントランスへと繋がる真っ直ぐのアプローチを引き返すさなか、三階建ての屋敷を見上げた。窓という窓から注がれる視線には綯い混ぜにされた感情が見え隠れして、好奇とか不安とか恐怖とか怒りとかが、形容し難い複雑さをもって漂っている。
 眼差しの雨をくぐって、事務局の中へと戻った。受付台を横切り、入り口正面の階段を上がっていく。絨毯張りの通路を進んで、先の階段をさらに上れば、眼前には大扉が現れる。
 重たい扉を押して広間へ入ると、奥の窓の近くへと集まる十数人の初老の男たちと、事情を質そうと別室から押し入った何人かの婦人方が、ほとんど一斉にこちらを振り返った。アンリエッタは、注がれた視線を受け流すみたいに目線を左へ滑らせて、部屋の奥、長机の端へ着席するロランを見た。
 書面に書付をしていたらしい彼は、少ししてからペンを置く。顔を上げ、首だけを向けてこちらと目を合わせた。
「彼らはなんと?」
 門前に詰めかける者たちを指して訊ねてきたのに、アンリエッタは歩み寄りつつ答える。
「代表者との面会については、いったん断りました。代わりにこちらの意見書が」
 傍へ立って、広げられた上司の手に書類を置く。ロランはじっくりと、列席者の一人一人と目を合わせるみたいに広間を見回した。
「私が読んでも?」
 彼が訊ねると、ちょうど視線を定めた辺りにいた事務局長が手振りと共に頷いた。許可されたロランは丸められた書類を広げ、文書を無感情に読み上げ始める。
 組合の役員たちを集めた臨時の会合。クーポンの現況について報告するそれを、今まさに執り行っている最中だった。
 本日は、元々同じ場所で役員の一人が主催する夜会があって、それで緊急に打ち合わせの場を設けたという寸法である。イレギュラーに決められたそのスケジュールは、ロランと事務局長の口よりシモンに漏らされている。
『市民よ、いざ来たれ! 明日、商業組合へ意思を問う!』
 そう高らかに叫んだ呼びかけは、昨日付けの新聞に載せられたものだ。事前に役員方の耳に入らないよう急な告示になったものの、先に見た通り人は集まったらしかった。それらが門前に大挙している旨を、クーポンの近況について状況を整理する途中、役員方は聞かされる。
 なぜ?
 理由は?
 要求は?
 俄かに混迷した中で、ロランが口を開いた。
 ――聞いてきましょうか?
 はっきり響いた声音が注目を集めて、それからもう一度言う。
 ――聞いてきますよ。それが一番早い。
 反対などありえないみたいに述べると、アンリエッタ君、と隣に呼びかける。瞬時に場に漂った逡巡の気配には一切取り合わずに、アンリエッタは席を立って扉へ向かう。
 ――大丈夫なのかね、その、彼女で。
 ――彼女は優秀ですよ。見くびらないで頂きたい。
 共謀している事務局長が上げてみせた懸念に、ロランが短く反駁する。目に見えて不和を生じさせることで、やや不自然な人選への注目を避けるための、演技。幾分感情的な調子はそれにしたって彼らしくなくて、うっかり口許が緩んでしまうのを堪えたアンリエッタは、議場を後にして局の外へと出向く。
 事の経緯は、つまりはそういう流れだった。
「要は、銀行との和解を求められているわけですな。またクーポン事業を廃止にする場合、国にも訴えを出すと」
 意見書と記事を一通りロランが読み上げると、事務局長がそのようにまとめた。フンッ、と気に入らなさそうに一人が鼻を鳴らす。
「貧乏人どもが訴えて、それで何が変わる」
「イスタ銀行の後ろ盾がない現状、国が無視を決め込むとも限りませんが」
「しゃしゃるな!」
 口を挟んだのに一括されると、ロランは小さく肩をすくめて黙る。
「紙書き風情が、さっきからでしゃばりおって……」
「いやだが、彼の意見もそう違ったものではないだろう」
 忌々しく言い募り始めた事業撤退派を遮って、中立派から援護の言葉が入る。しばらくの間、やいのやいのと意見が交わされる。おめおめと奴らにも銀行にも従うのか。しかしそれが一番損をしない。これからも利益が出るとは……。だがやめるのにも根回しがいる。だいたい銀行のことにしたって、所詮は端金だ、ここまで揉め続けるのは馬鹿馬鹿しい。金の問題じゃなかろう、コケにされたんだぞ。――かりかりと、アンリエッタと隣の局員が発言を書き記していく。ふと、銘々思うところを口にしたのか、議論がいったん止まる。外からの野次だけが壁を抜けて、広間に静かに響く。
「奴らは武器を持っていなかったな?」
 一人が言った。かつては組合理事も務めたという彼は、他の出席者よりもなお年嵩の老人である。皺深い骨ばった相貌は冷静さに満ちるが、眼差しだけは剣呑に光った。
 それが、ロランとアンリエッタの方を向いている。
「意見書の記載を信じる限り、きちんと届けを出した集会のようですからね」
 ふん……と老爺は考えを巡らす様子で息をついた。
「警察が動かんのは、それでか」
 ――前に言ったろ? 警察を動かすのは仕事か賄賂か命令だ。そしてこの優先度は、後ろに行くほど高いときてる。
 集会の結成。その許可を受けるために警察へ根回しをしたいのだとフランツに相談してみれば、返ってきたのはそんな回答だった。
 ――まあ、今回は振る袖がなくても簡単だな。奴らが口出ししないだけで通る儲け話があるわけだし。分署長の判を貰うくらい、訳ない。
 もちろん治安をひどく乱さないことを前提にではあるが、そういう流れで、警察は介入をひとまず控える。
「すると、荒事になると困るのはむしろあちらだな。血を見る用意もなければ、覚悟もない」
 つと老爺は、右手に座る事務局長の方を見た。
「武器は?」
「は?」
「ここに銃はあるのかと訊いている。何挺ある?」
「え――ええっと」
 事務局長はわずかに顎を震わせつつ、瞳を右へ左へ泳がせた。
「六挺、でしょうか。そちらと、応接室の飾りに二挺ずつと、守衛と受付に一挺ずつ」
 そちらと言ったのは今いる広間の扉の右側、鹿の首の剥製が据え付けられた壁面のことである。猟銃が二挺、斜め十字に掲げられている。
「手入れは?」
 短く訊ねたのはアンリエッタで、一瞬の注目の後、再び事務局長へと視線が戻った。即座に答えを出せなかった彼に、老爺は聞こえよがしに舌打ちする。
「使えそうなのは、二挺か。追い払うくらいはできそうだな」
「しかし、彼らは暴動を起こしているわけではありません」
 老爺がぎろりと目を向けたのにも構わず、ロランは続ける。
「それを火薬で威嚇し散らせる。印象としては最悪ですよ」
「ほとほと、君もよく口を出す男だな」
 そっけなく述べたロランの言葉に、老爺はそれ以上取り合わない。おい――と、撤退派で一等息巻いていた一人に声をかけた。
「どうするね?」
「ど、どうとは」
「やるのかやらないのか」
「いや」
 ちらりと扉の方を見る。視線の先には、壁掛けの飾りがある。
「撃ったことくらいあるだろう」
「そりゃあ」
「鳥や獣を狙うよりも、簡単だ」
「……」
 答えあぐねたのを潮時とでも思ったか、老爺は息をつく。
「和解案をまとめようか」
「な」
「追い払うつもりがないのならそれしかなかろう。大体、何の得もしない話だ」
 上がりかけた抗議を一言で黙らせて、老爺は出席者を眺める。「いいね?」と問い掛けて、反対の声は上がらない。ロランの方へ視線を向けて、口を開く。
「さて、今こそ君らの仕事だな。まずは外の彼らへの返事を作るので、書き起こして頂きたい」
 公文書・私文書の作成とその正当性の保証は、公書士が執り行う主たる業務だ。議事録や声明文の作成もまた、依頼者の要望に応じて代行を実施する。元々仕組んだ芝居であることを悟られそうなくらい調子良く頼んできた老爺は、そのまま場を取り仕切る格好で、声明の素案を述べ始めた。
 文書はそうして、直前の混迷が嘘みたいにすんなりと完成する。
「――どうぞ」
 再び、門前。覗き窓より。
 自身が署名した意見書への回答文を、アンリエッタはシモンへ差し出す。しばらくぶりの彼の表情には疲れたものが見えたが、成果を察してみるみる輝き、群衆の方へと振り返る。
 ……どよめき、雑音、息を吸う音。
 それから声は誇らしげに、往来の中を響き渡った。
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