いつかペンと制度の力で 〜公書士アンリエッタ〜

ktktkenji

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エピローグ「そしてペンと制度の力で」

ep-5

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 事務所にて。作成を言い付けられていた賃貸契約書を提出すれば、ロランはそれを素早く、いつも通りにむすりとした表情であらためてみせた。
「丁寧にわかりやすく作られている。役所向きだな」
「ありがとうございます」
「喜ばせたようですまないが、特に誉めたわけではない」
「へ?」
 自身のデスクに書類を放ると、ロランはトントンと指でその紙面を叩いた。
「そもそも用意するものが違う。君が作るべきは契約書ではなく、事務所設備の使用申請書だ」
「は?」
「就業に当たって利用が必要な設備の申請と、維持負担費用の取り決め。それを行えと言っている」
「ええっと……?」
 目を点にしたところで出された指示に全くついて行けなかったアンリエッタに、ロランは言う。
「仮に契約を結んだ場合、君にはその内容に従って賃貸費用の支払い義務が生じ、事務所もしくは私個人に収入が発生する。そうすると何が起きる?」
「何が……?」
「決まっているだろう、税金が掛かるんだ」
 まごつき続けているアンリエッタを見かねてか、ロランは問いかけたくせに即座に答えを出してしまう。
「対して、君の事務所二階の寝泊まりを業務上ないしは身心上必要な措置として認めれば、利用に当たる維持管理費は経費になる。これを算定し、君の給料から天引きする」
 つまり、節税というわけらしい。
「ですが、実際に支出が発生しているわけではありませんよね? その余剰はどうなるんです?」
「修繕の積立金として帳簿上で分ける。これは収入として計上されるがあくまで将来的な支出として見なされるから、課税の控除対象になる。維持・修繕以外の目的で使用すれば何らか追徴などの措置が取られるがね」
「あ……、う」
 実家の紡績工場の宿舎でも、そういえば似たようなことをしていたと思い出す。事務所と宿舎を同じように見る発想はどだい持たなかったのだが、結び付けられなかった自分の迂闊さには言葉もないのだった。
 ちなみに、事務所の維持管理はアニー個人への業務委託という形を取っているらしい。従って仕事が発生すれば、彼女に手間賃が支払われる取り決めなのだとか。
「とにもかくも」
 とロランは言い置き、続けた。
「事務所二階部分の用途変更書類まで準備したことなど、抜け目がなく褒めるべき点はあるものの、君のしたことは完全なる的外れだったということになる」
 唇を尖らせるアンリエッタ。
「……それならそうと、教えて頂いてもよかったのでは」
「書類の準備が必要だとしか言っていないのに勇み足で任せるよう進言したのは君だ。契約書だろうと早合点し、確認を取らなかったのもね」
「ぐう……」
 の音こそ出たが、返す言葉もない。
 経緯で言えば、確かにロランの言った通りなのである。
――そんじゃあさ、ここの上に住んだら良いじゃん。
 きっかけは、そんなアニーの一言だった。
 下宿の大家に、歳やら怪我やら家族を呼ぶやらといった事情が生じ、引越しするかもしれないと話してみれば、開口一番そのような提案が為されたのである。
――良いんでしょうか?
――いーのいーの。格安だし、三人くらいなら余裕だぜ。
――本当に?
 ロランの方を窺えば、渋く目を細められる。見る人が見なくてもわかる程度には気が進まない様子だった。
――もーちろん。でしょ?
 短いアニーの確認にロランはむすりと目を逸らして、書類の用意がいる旨を口にする。そこで勢い執りなす心境で自分が準備すると宣言したわけだが……こんな失敗を犯すことになるとは、夢にも思わなかったのだった。
「まあ、一つ練習にはなっただろう」
 彼にしては肯定的な評価を下し、しかし当然のこと、それだけにはとどまらない。
「無論、間違いなくミスではあったがね。とはいえ君が失態を演じた他には痛手もなく、喧嘩の仲裁で肩を痛めるようなこともなかったわけで、これは余程ましな結果と言える」
 また、比べるまでもない比較対象を出してくる。過去の失態まで引用して、いかにも嫌味たらしい文句ではあったが、割り合いフォローのつもりで言っている節もあるのでなお始末が悪かった。アニーがいればたしなめの一つでも投げてくれたかもしれなかったが、終業をとうに過ぎた今時分、彼女の姿は事務所にない。
「後は、この書類か」
 引出しから二部の書類を出して、ロランは机に置く。
「言われた通り準備をしてある。正副各一部。落ち着いたら関係者から署名を集めたまえ」
「助かります」
 感謝を述べつつ、依頼の書類を受け取る。自分自身が当事者である案件でも公書士は書面の証明を行えるが、とかく結婚の場合などの例外事項があって、こればっかりは人に頼む他ない。
 立場が替わって、今度はアンリエッタの方が書面を眺め、内容を検める。
「やはり、明日は君が行くつもりかね?」
 ふとロランが言ったのにアンリエッタは顔を上げ、首を傾げた。
「それは」
「私が行っても構わないという話だ」
 そういう話は、実際以前にもしていた。
「ですがロラン所長も予定がおありでしょう?」
「電報なり速達なりで延期を知らせれば問題ない。今なら十分今日付けで出せる」
 日は夏を迎えて長く、定時を過ぎた今からでも、西日が沈むまでにはずいぶんと時間があった。
 申し出に、アンリエッタは首を振る。
「平気ですよ、作業内容はこの間と同じですし」
「仕事ぶりの話はしていない」
「それこそ。私はただ、依頼の業務をこなすだけですから」
「そして偶然に、戦没した知人の家族に鉢合わせると?」
「はい」
「あまり作り込みをするのもどうかと思うがね」
 少々批判的な語気を纏いながら、ロランはそう評する。
「身分証の偽造は、しなくても良くなったんだろう。何もこんなところでケチをつけなくても良かろうに」
 研究所にいた子どもたちの身分を不正に証明する。フランツからかつて言い付かっていたその秘密の業務は、表向きに施設が処理されることになったので不要となっていた。明日のことにしたって、ただただ国から要請された事柄を遂行するだけで、執り行うのはあくまで正規の業務である。しかし確かにそれだけではあるのだが、互いに偽るところがあるのも本当だ。あくまでましという程度だが、ロランが行く方がその度合いは幾らか薄まるというのもまた、そうではある。
「ですが、やりたいんです。私が」
 目前の上司の視線をまっすぐに見返して、そう答える。
 窓からここまで到達した西日の陽射しがきらきらと眩くて、アンリエッタは薄く目を細める。
「あの子たちのことで背負い込める責任は、出来る限り私自身の手で引き受けたい。……意味のないこだわりと思われますか?」
「さて、な」
 問いかけには、肯定も否定も寄越されない。
 皮肉屋の上司は沈み込むように深く椅子に腰かけて目を瞑り、述懐が、あの時みたく呆れた様子でなされる。
「家庭に縛られるくらいがちょうど良いと言ったのは、このような意味ではなかったのだがね。……全く、君のような部下は前代未聞だ。迂闊さも突き抜ければ、思わぬ結果を引き寄せるものらしい」
 まあだが、少なくとも。
 ロランは言って、言葉を続ける。
「長続きしそうでは、あるか」
 称賛……というわけでもないけれど。
 声は、目の前の人から発せられたにしては驚くほど柔らかい。
 滲むようにじんわりとほぐれた胸の内には誇らしさが膨らんで、アンリエッタは、小さな苦笑を彼に返した。
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