梨か葡萄か、それとも林檎か。

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第1話 梨の香り、風のはじまり

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第1話 梨の香り、風のはじまり

匂い:青い梨の皮
温度:22℃
色:淡い黄緑



 放課後の風が、ひたいをなでる。
 駅へ続く坂道。イチョウはまだ緑が強い。
 遠くで踏切が鳴って、街全体が少しだけ静かになった。

 横断歩道の手前で、女の子がしゃがみ込んでいた。
 雨上がりのアスファルト。白線の隙間に、何かを探している。
 僕は足を止める。

「大丈夫?」
「うん……たぶん。落としちゃって」

 彼女の指先が、濡れた路面をかすめる。
 小さく光った。
 金色のヘアピンだった。

「これ?」
「それ。それ、ありがとう」

 近くで見ると、葉っぱみたいな形をしていた。
 梨の葉に似ている。淡い金色。
 彼女は受け取ると、胸の前でそっと握った。

「濡れてるね」
「雨、やんだばっかりだし」

 空は明るいのに、細かい雨がまだ降っていた。
 僕はリュックから透明の折りたたみ傘を出す。
「入る?」

 彼女は半歩だけ近づいた。
 肩が触れない距離。
 透明の天井の下で、信号が青に変わる。

 横断歩道を渡るあいだ、言葉が見つからなかった。
 彼女は傘の内側についた水滴を、指でひとつ落とす。
 その仕草が、とても静かで、見ていると呼吸がゆっくりになった。

「ピン、きれいだね」
「形見なの」
「え?」

「おばあちゃんの。怒られちゃうところだった」
 怒られる、って言いながら笑う。
 少し困った笑い。
 でも、目は晴れていた。

「ありがとう、えっと……」
「藤白。藤白晴人」
「私は、梨乃」

 名前が、季節みたいだと思った。
 梨の“梨”。秋の匂いがする。
 彼女の髪は肩で跳ねて、雨粒が光った。

「坂、降りる?」
「うん。駅まで」

 並んで歩く。
 道の端に、金色の落ち葉が少しだけ。
 風がくると、葉は踊って、また止まった。

「そのピン、毎日つけてるの?」
「だいたいつけてる。つけないと、私が私じゃないみたいで」
「わかるような、わからないような」
「うん。自分でも、よくわかんないけど」

 彼女は笑って、前髪を押さえた。
 ピンは制服の胸ポケットに。
 指先に、水が残っている。

「いつも、ここ通るの?」
「うん。青霞坂は見晴らしがいいから好き。晴れた日は、海がちょっと見える」
「今日は、匂いだけだね」
「匂い?」
「雨のあとって、果物の匂いがする時ない?」

 彼女は鼻をすこしすんとさせる。
「するかも。……梨の皮、みたいな」
「だよね」
 ふたりで、同じ匂いにうなずいた。

 商店街のアーケードに入る。
 風が弱くなって、音が増える。
 油の匂い。古い本屋の紙の匂い。
 雨は細くなった。

「ここからひとりで大丈夫」
「そっか」
「今日は、ほんとにありがとう。落としたら、きっと泣いてた」

 彼女は傘から半歩、外へ出る。
 透明な境界が、すっと消える。
「またね、藤白くん」
「うん。また」

 振り返ると、彼女はヘアピンを留め直していた。
 金色が、蛍光灯でもちゃんと光っていた。
 それだけで、商店街が少し明るく見えた。

 家に帰る途中、僕はスマホのメモを開いた。
 タイトルをつける。
 「色の記憶帳」。

 —色:淡い黄緑。
 —匂い:青い梨の皮。
—温度:22℃。
 —一言:傘の中の距離は、優しさの形。

 保存する。
 画面が暗くなるまで見て、また点け直した。
 メモの白が、雨上がりの空に似ていた。

 夕飯のあと、母が洗濯物を取り込む音がした。
 台所の水道が止まる。
 テレビの天気予報は、明日は晴れ、と言っている。
 僕は机に座って、窓を少しだけ開けた。

 風が入る。
 匂いが薄くなる。
 それでも、梨の皮の青い感じは、まだ残っていた。

 あの子の名前を、口の中でそっと転がす。
 梨乃。
 文字にすると、線がやわらかい。
 名前に、季節が入っているのがいい。

 その夜、眠りに落ちる前。
 透明の傘の内側で、並んで歩く映像がまた浮かんだ。
 肩は触れない。
 でも、静かに呼吸が合っている。

 翌朝。
 空はよく晴れて、坂道から海が見えた。
 学校へ向かう人の影が長い。
 僕は少し早く家を出た。

 校門の前で、写真部の三谷に会う。
「おはよ、藤白。今日、文化祭広報のミーティング出られる?」
「広報?」
「うん。ポスターとSNS。人が足りなくてさ。広報リーダーが新しい人探してる」

 興味はない。
 でも、昨日の“記憶帳”の白が、頭のどこかで光っている。
 何かを残すこと。
 それは、悪くない気がした。

「行く。昼休み?」
「放課後。図書室」

 教室へ上がる階段の踊り場で、僕は足を止めた。
 窓から、イチョウ並木が見える。
 風が吹いて、葉が一枚だけ、ゆっくり落ちた。

 一日が穏やかに過ぎる。
 一限、二限。
 昼休み。
 午後のチャイムが鳴るたび、昨日の匂いが薄れていく。
 それでも、完全には消えない。

 放課後。
 図書室の前で三谷と合流する。
 ドアを開けると、紙の匂い。
 窓際に誰かの姿があった。

「紫苑先輩、連れてきました」
 三谷が声をかける。
 振り向いたその人は、群青のカーディガンを羽織っていた。
 髪を耳にかける仕草が、慣れている。
 光が、瞳の奥でゆっくり動いた。

「藤白くん? はじめまして。広報の葡萄原です」
 葡萄原。
 名前に、色が入っている。
 群青の縁取りが、会話の前にやってくる。

「はじめまして」
「文化祭の広報、今年はちょっと攻めたいの。写真と文章、どっちが得意?」
「どっちも、得意じゃないです」
「正直でいい。じゃあ両方やろう」

 彼女は、机に並べたプリントをまとめた。
 行動が速い。
 指先が、紙を軽く弾く。
 パラ、という音がやさしい。

「今日は顔合わせ。明日から本番。放課後、ここ集合ね」
「はい」

 視線を上げたとき、窓の外を金色の光がかすめた。
 夕方のはじまり。
 図書室の空気が、少しだけ濃くなる。

 扉の方から、小さな足音。
 振り返る。
 透明の傘を持ったままの女の子が、立っていた。

「遅れてごめん。図書委員の、林檎坂です」
 静かな声。
 ワインレッドの細いしおりが、手帳からのぞく。
 名前に、赤が入っていた。

 梨。葡萄。林檎。
 頭の中で、果物の並びが自然にそろう。
 でも、今はまだ、それが何を意味するのかわからない。

 ミーティングは短く終わった。
 明日の段取り。部屋の鍵。撮影の許可。
 メモを取りながら、僕は窓の外を見た。
 高い雲が、群青に変わる前の色をしている。

 帰り道、スマホの“色の記憶帳”を開く。
 追記する。

 —今日の色:淡い黄緑 → 群青の入口。
 —匂い:紙と午後の光。
 —温度:放課後の指先、少し冷たい。
 —一言:名前には、季節が隠れている。

 坂を降りる。
 商店街の灯りが、少しずつ点いていく。
 アーケードの端で、昨日と同じ位置に立つ人影。
 金色のピンが、光った。

「藤白くん」
「梨乃」
「昨日のお礼、ちゃんと言えてなかったから」
 彼女は小さな紙袋を差し出した。
「家の梨。おすそわけ。……甘いの苦手じゃない?」

「ありがとう」
 紙袋を受け取る。少しひんやりしている。
 果皮の青い匂いが、またふっと立った。

「ねえ」
「うん」
「私、困ったときに“助けて”って言うの、苦手なの」
 信号が赤になる。
 ふたりとも足を止める。
 彼女の声は小さいけれど、まっすぐだった。

「でも、昨日は言えた気がする。心の中で」
「それで十分だよ」
「うん。……ありがとう」
 彼女は笑った。
 雨は降っていないのに、傘を少しだけ僕の方へ傾けた。

 青になった。
 歩き出す。
 金色の匂いが、肩のあたりでやわらかく流れる。

 家に戻ると、冷蔵庫を開けて梨を冷やした。
 皮をむいて、一切れだけ食べる。
 しゃり、という音。
 舌の上で、甘さより先に水が広がる。

 明日、写真を撮る。
 広報の仕事。
 うまくやれるかはわからない。
 でも、今日の色は、ちゃんと残せた気がする。

 ベッドに横になって、天井を見つめる。
 まぶたの裏に、三つの色。
 淡い黄緑。
 群青の入口。
 そして、どこか遠くで、赤いしおりがひらりと動く。

 目を閉じる。
 最後にもう一度、メモを開いて、一行だけ足す。
 「傘の中の距離は、壊さなくても近づける。」

 画面を消す。
 静かな夜が、始まる。



※次回予告
第2話「優しさの罠」
—“助けて”と言えない心と、透明傘の境界線。
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