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たくらみごとは、草原でされる

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   ******7-2「アニャン、気持ちを持てあます」のすぐ後******



「エウル様は、今日は羊の放牧に出られてたよ」

 ニーナはスウリと『馬を見に行く』道すがら、最早日課となった、『エウル様の今日のご様子』をスウリに語って聞かせた。『馬を見に行く』のは、ほとんど名目で、内実は二人で内緒話だ。

 ニーナはスレイの婚約者として、その家族の天幕に居候している。
 同じ天幕で寝起きしているのだ、話そうと思えば、いくらでも時間を取れそうなものだが、実際はそううまくいかない。スレイが邪魔をするのだ。
 スレイはニーナにも、公主に仕えている最中に見聞きしたことを、スウリに話すなと釘を刺していた。
 ……そうでもしなければ、エウルに近付くのを禁止されたスウリは、彼の姿を見ることはおろか、様子を知ることさえもできないというのに。

「うん、知ってる。兄さんが昨夜、そう言ってた。『覗きに来たって居ないんだからな』だって。ムカつくったらありゃしない言い方だと思わない? 邪魔ばっかりしてさ。もうエウルを何日見てないことか!」
「スウリ、かわいそうに。でも、スレイもお役目だから、辛いところなのよ。今日だって、公主が失礼なことをしてエウル様を怒らせたのを、取りなしていたんだから」
「へえ! あの優しいエウルが怒るなんて、よっぽどだよね! 皇帝の娘だかなんだか知らないけど、偉いのは父親で、あんたじゃないっての! 本人、やせっぽちで皆の足を引っ張るだけの、なんにもできない、ただのお荷物じゃんね」
「そうそう。時間かけたって、ちょっとしか乳を搾れないの。なのに、パタラ様ったら気を遣って、よくできたね、なんて褒めてて。言葉だって、片言よ。『ニーナ、天幕?』なんて聞かれたって、なんのことだか!」
「『ニーナ、天幕』? なにそれ! 公主って、頭も弱いんだ!?」

「エウル様が怒ったのも、帝国の言葉で「嫌」て言ったかららしいんだけど」
「何を嫌がったんだか。思いあがってるよね。公主のせいで移動は遅くなるし、到着したって、何を手伝うわけでもないし。上げ膳据え膳で寝てるだけじゃん。感謝しかないところでしょ。嫌だよねー、身分しかない女」
「ほんと。公主なんかより、スウリの方が、断然いいのにね。器量よしだし、働き者だし、エウル様のことだって、子どもの頃からよく知ってるから、あんなに怒らせるようなことしないしね。『正直に嫌と言ったら、俺が帝国に帰してやる!』なんて怒鳴りつけてるんだもの。驚いちゃったわ。公主は泣きながら横に首を振ってたけどね」

 それを聞いて、スウリは、くすりと笑った。

「連れてきた時は公主を庇うようなことを言ってたけど、とうとうエウルも公主に愛想を尽かしたんだ! ……ねえ、じゃあさあ、公主に帝国に帰りたいって言わせれば、エウルはすぐにでも送り返すってことだよね」
「うーん、それはどうかなあ……」

 ニーナは言葉を濁らせた。スウリに合わせて調子よく語っているが、そうでばかりでないことは、感じている。
 エウルは怒鳴りつけた後、結局は公主を抱きしめ、大事そうに抱き上げて自分の天幕に連れて行ったのだ。
 スレイなどは、「痴話喧嘩もほどほどにしてほしいよな」と言っていたほどの仲睦まじさだった。

「なあに? どうしてよ」

 スウリの口調が険しくなった。ニーナは警戒した。エウルの結婚が決まって以来、思い通りにならないと、スウリは激高して怒鳴り散らして、手が付けられなくなるのだ。

「……だって、王の命令で結婚することになったんじゃない。エウル様の意思じゃなくても、王が許さないとなかなかうまくいかないかもって……」
「なんだ、そんなこと。エウルじゃなくったって、王にはまだ結婚してない息子は、ハシェルだっているじゃない。それに、公主自身が帰りたいって言えば、エウルのせいじゃないもの。王だって考えなきゃならなくなるでしょ」
「そう、か。そう、よね」

 ニーナがあいづちをうったとたん、スウリは機嫌良くなった。

「だからさ、公主に帰りたいって、言わせてあげようよ」
「え?」
「その方が、お互いのためじゃん。エウルは怒鳴りつけるくらい嫌ってるんだからさ。公主だって泣いて謝らなくってもすむようになるんだし」

 ニーナは言葉に詰まった。

「それに、兄さんにも、色目を使われなくて、すむようになるよ」

 それを思い出して、ニーナはドロリと嫌な気持ちになった。
 スレイは、なにかというと公主を気に掛けるのだ。そのうち帝国の言葉を教えてもらいたいなどと言っているが、スレイがそれしか考えていなくても、公主がどう思うかわからない。
 なにしろ、スレイは顔がいい。それに、優しい。ニーナは、スレイに声を掛けられ、ふわりと表情をゆるませた公主を目にして、嫉妬し、恐れを抱いた。
 スレイは、思いついたら、ぽんと実行してしまうところがある。もし、彼が公主をいいと思ってしまったら。あるいは同情してしまったら。彼は公主を攫って逃げ出すかもしれない。……たとえ主であるエウルの妻であろうとも。
 ニーナにとっても、公主は目障りな存在だった。

 もしも公主がいなくなったら、親友のスウリと昔から話していたとおり、一番仲のいいみんなで、楽しくいつまでも一緒に居られるようになるかもしれない。スウリはエウルと、ニーナはスレイと結婚すれば。
 それなら、スレイがエウルの妻に横恋慕して攫うなんてことはあり得ない。なにしろスウリはスレイの妹なのだから。
 それは、公主なんてわけのわからない女とやっていくより、ずっと楽しく安全な未来に違いなかった。

「そうね」

 ニーナは頷いた。

「でしょ。あのね、私、いい考えがあるんだけど」

 誰からも遠く離れた草原で、スウリはニーナに耳を貸すようにと手招きした。ニーナは顔を寄せ、スウリがひそひそと話すのに耳を傾けた。
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