幸福な降伏の吐息

伊簑木サイ

文字の大きさ
6 / 11

6 初めての告白

しおりを挟む
 ホテルの浴衣と、それ以外に何をお風呂場に持っていくか、ということを、荷物を広げて考え込んでいたら、彼があっという間に出てきてしまった。
 父や弟もお風呂は早かったけれど、彼も早い。男の人って、中であったまったりしないんだろうか。
 慌てて荷物をまとめて、お風呂場に走りこむ。……だって、なんか、お風呂を上がったばかりの彼の浴衣姿がしどけなくて、直視できなかった。

 浴室は、入浴剤の香りで甘い花の匂いがした。鏡を見るのも、窓の外を見るのも怖いので、うつむいていろいろ済ます。
 お化粧も、おもいきって落とした。きっちりメイクする方じゃないけど、お化粧はお化粧で、落とすとやっぱり、地味な顔がよけいに地味になる。

 この素顔を見て、彼の気分が盛り下がってくれないかな、とも、ちょっと考える。それはそれでショックかもしれないけれど、私にとっては、目の前に迫ってきているものの方が、大事おおごとだった。

 とにかく、念入りに洗った。それから湯船に入ったけれど、あったまりすぎて汗をかくのが嫌で、ささっと出てしまった。
 少し考えて、栓を抜いた。お湯が抜けるのを待ちつつ着替えて、浴衣の裾を持ち上げながら、さっと浴槽と洗い場を冷たいシャワーで流しておいた。

 洗面所でドライヤーを使って髪の毛を乾かし、でも化粧水は使うのを控える。物によっては苦いのもあるから、……その、なんていうのか、彼がそれを口にすることになったら、いけないと思って。

 全部、するべきことは終わってしまった。
 洗面台の鏡に映った自分を見る。うわー、と思うくらい地味な女が、不安そうに立っていた。こんなのに夢中になる男の人なんかいない、と思う。

 もしかしたら、これで終わりかもしれない。とりあえず、常識的な社会人として、明日は家まで乗せて帰ってもらえるだろうけど、そのまま疎遠になって、何もなかった頃に戻るかもしれない。
 それはそれでしかたないよね、と思う。とりあえず、今は彼から好意は感じている。一晩でそれがなくなってしまうとしたら、それは私の魅力のなさというものだろう。

 私は荷物を胸元にぎゅっと抱えて、部屋へ向かった。



 彼はベッドに腰かけてテレビを見ていた。
 ベッドはダブルベッド。大きいそれが、部屋の真ん中にどーんとあって、緑系の素敵なファブリックで包まれている。
 彼はテレビを消して、入り口で立ち止まった私に手をさしだした。おいで、ということだろう。私は荷物を自分の荷物置き場に置いてから、彼のところまで行って、前に立った。
 目は合わせられなかった。彼のどこを見ていいのかもわからなかった。うろうろとお布団のカバーの模様を追った。

 彼の手が伸びてくる。両の腕を引かれて、引かれるままに、彼の膝の上に腰をおろした。
 そうすると、彼が私なんかより、ずっと大きいのがわかった。身長だけじゃなくて、私だって平均の身長も体重もあるのに、その体をすっぽりと包んでしまう、骨格や筋肉。男の人の体だと、ひどく意識された。
 匂いもそう。同じ石鹸やシャンプーを使ったはずなのに、甘くない、どきりとするものが鼻腔をくすぐる。

 動けない力で抱き締められて、なにが始まるんだろうと、緊張する。でも、こうされるのは、不思議と安心もした。ああ、守られている、と感じる。ここは安全なのだと。心ではなく、体から、そう感じた。
 頭をかき抱かれ、キスされた。優しく何度もついばまれて、リップ音が響く。やがて頬擦りされて、かすれたささやき声が聞こえた。

「俺の、ものだ」

 それは、違う、と咄嗟に思った。私は私のもので、他の誰のものにもならない、と。
 だけど、黙っていた。この雰囲気を壊してしまってはいけないと思ったから。

「藍子」

 呼ばれる。初めて、呼び捨てで。目を開ければ、すごく近くで、彼に覗きこまれていた。

「好きだよ」

 とても、とても熱い声だった。その熱さにも、言葉の意味にもびっくりして、息を呑む。
 心臓が全力疾走しだす。彼のまなざしに耐えきれなくなって、彼の首元に顔を伏せながら、小さく頷く。
 私は彼の浴衣にすがって、乱されて体の中で荒れ狂うものにどうしていいかわからず、じっとしているほかなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!

satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。 働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。 早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。 そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。 大丈夫なのかなぁ?

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

【完結】離婚を切り出したら私に不干渉だったはずの夫が激甘に豹変しました

雨宮羽那
恋愛
 結婚して5年。リディアは悩んでいた。  夫のレナードが仕事で忙しく、夫婦らしいことが何一つないことに。  ある日「私、離婚しようと思うの」と義妹に相談すると、とある薬を渡される。  どうやらそれは、『ちょーっとだけ本音がでちゃう薬』のよう。  そうしてやってきた離婚の話を告げる場で、リディアはつい好奇心に負けて、夫へ薬を飲ませてしまう。  すると、あら不思議。  いつもは浮ついた言葉なんて口にしない夫が、とんでもなく甘い言葉を口にしはじめたのだ。 「どうか離婚だなんて言わないでください。私のスイートハニーは君だけなんです」 (誰ですかあなた) ◇◇◇◇ ※全3話。

冷徹社長は幼馴染の私にだけ甘い

森本イチカ
恋愛
妹じゃなくて、女として見て欲しい。 14歳年下の凛子は幼馴染の優にずっと片想いしていた。 やっと社会人になり、社長である優と少しでも近づけたと思っていた矢先、優がお見合いをしている事を知る凛子。 女としてみて欲しくて迫るが拒まれてーー ★短編ですが長編に変更可能です。

処理中です...