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第七章 不死人(ふしびと)
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「今日も王妃陛下のところか?」
朝食の最中に殿下が聞いた。ソランの私室の居間にある、こじんまりとしたテーブルに、二人は向かいあって座っていた。
「はい」
あれから王妃には毎日呼ばれて、ドレスの採寸から宝飾品の発注までしてもらっている。それが済んでからは、うやむやのうちになんとかしていた、立ち居振る舞いの本格的なレッスンが始まっていた。
殿下がおかしそうに唇を歪めた。
「元気がないが?」
「気のせいでございましょう」
つん、として食事を続ける。その拗ね方すら指導を受けているので、なんとも色っぽく可愛らしいものだった。
実は気のせいどころではなかった。幼い頃から徹底的に仕込まれてきた動きを変えようというのである。運動神経には自信のあったソランも、今回ばかりは打ちひしがれる日々が続いていた。
同じ単純動作を何百回とやらされるのである。精神的な苦痛は計り知れないものがある。馬に乗って王都を飛び出し、ハレイ山脈に向かって、指導教官の名前を罵倒つきで叫びたかった。
「確実に成果は出ているぞ」
殿下は複雑そうな表情となって言った。
「おまえがそれをできるようになるということは、世の男はどれほど女性に騙されているのか、そら恐ろしいものがあるな」
「男性とて同じでしょう。あの手この手で女性の気を引こうとするのですから。問題は真心があるかないかです」
「まあ、たしかにな」
先に食事を終えた殿下は、背もたれに寄りかかり、行儀悪く肘掛に頬杖をついた。
「それももう少しの辛抱だ。こちらが一段落ついたら、私の領地へ行くぞ」
「キエラですか?」
「ああ。南西部の海岸沿いだから、ここよりだいぶ暖かい。海は見たことがあるか?」
「いいえ」
「塩田や真珠の養殖場も興味があろう?」
「はい。ぜひ見てみたいです」
「それに、酢に真珠を溶かすのだったか。実地調査もできよう」
ソランは好奇心いっぱいに瞳を輝かせた。
「では、楽しみにしていろ」
そう言った殿下も楽しげだった。
「ですが、王妃陛下が進められている件で、国内がきな臭くなっております。こちらを離れて大丈夫なのですか?」
王妃から進捗状況は逐一聞かされていたし、祖父も時間が取れるかぎり来ては報告してくれる。ソランは狭い範囲で生活しながらも、世間から隔絶されてはいなかった。
「それのフォローを兼ねている。詳しくは時間が取れしだい、まとめて話す」
「はい。私にも、もっとお手伝いできることがあればよいのですが」
殿下は毎日夜遅くまで仕事をしている。さほど疲れた様子は見えないが、心配だった。
「おまえに表立って動いてもらうわけにもゆくまい。おとなしく花嫁修業をしていろ。それとも、逃げ出したいか?」
逃げ出したいに決まっている。剣の稽古の方がどれくらい楽しいことか。
ソランは殿下を一睨みして食事に戻った。小口で上品に食べる上に、ゆっくりと時間をかけるように訓練している最中である。戦場でも間に合うようにと、早食いに慣れていたソランにとっては、食事すら拷問に等しくなっていた。
扉がノックされた。マリーが応対に出る。ディーが、急ぎ殿下にお出でいただきたいと呼びに来ていた。
「食事の最中なのにすまんな」
殿下は席を立った。ソランもフォークを置き、立つ。殿下が歩み寄って来る。そして少し屈んで耳元で囁いた。
「今宵は時間ができるかもしれん。行ってもよいか?」
しっ、と、ご自分の口元に一本指を当てたので、ソランはただ頷いてみせた。寝室を行き来するのは、他の者には内緒にしておきたいのだろう。確かに、ディーあたりが耳にしたら、からかいそうだ。そしてマリーに知れたら、侍女の夜番を寝室内に置くと言いだすにちがいない。
殿下は笑みを浮かべた。
「では、頑張れよ」
すっとソランの頬を一撫でし、踵を返した。
鼓動が速い。殿下に微笑みかけられるだけで心が弾むのに、近くで囁きかけられ、触れられれば、眩暈がするほどだ。しかし、すべて隠して、ソランは頭を下げた。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
殿下は一度振り返り、微笑んで頷くと、部屋を出て行った。
朝食の最中に殿下が聞いた。ソランの私室の居間にある、こじんまりとしたテーブルに、二人は向かいあって座っていた。
「はい」
あれから王妃には毎日呼ばれて、ドレスの採寸から宝飾品の発注までしてもらっている。それが済んでからは、うやむやのうちになんとかしていた、立ち居振る舞いの本格的なレッスンが始まっていた。
殿下がおかしそうに唇を歪めた。
「元気がないが?」
「気のせいでございましょう」
つん、として食事を続ける。その拗ね方すら指導を受けているので、なんとも色っぽく可愛らしいものだった。
実は気のせいどころではなかった。幼い頃から徹底的に仕込まれてきた動きを変えようというのである。運動神経には自信のあったソランも、今回ばかりは打ちひしがれる日々が続いていた。
同じ単純動作を何百回とやらされるのである。精神的な苦痛は計り知れないものがある。馬に乗って王都を飛び出し、ハレイ山脈に向かって、指導教官の名前を罵倒つきで叫びたかった。
「確実に成果は出ているぞ」
殿下は複雑そうな表情となって言った。
「おまえがそれをできるようになるということは、世の男はどれほど女性に騙されているのか、そら恐ろしいものがあるな」
「男性とて同じでしょう。あの手この手で女性の気を引こうとするのですから。問題は真心があるかないかです」
「まあ、たしかにな」
先に食事を終えた殿下は、背もたれに寄りかかり、行儀悪く肘掛に頬杖をついた。
「それももう少しの辛抱だ。こちらが一段落ついたら、私の領地へ行くぞ」
「キエラですか?」
「ああ。南西部の海岸沿いだから、ここよりだいぶ暖かい。海は見たことがあるか?」
「いいえ」
「塩田や真珠の養殖場も興味があろう?」
「はい。ぜひ見てみたいです」
「それに、酢に真珠を溶かすのだったか。実地調査もできよう」
ソランは好奇心いっぱいに瞳を輝かせた。
「では、楽しみにしていろ」
そう言った殿下も楽しげだった。
「ですが、王妃陛下が進められている件で、国内がきな臭くなっております。こちらを離れて大丈夫なのですか?」
王妃から進捗状況は逐一聞かされていたし、祖父も時間が取れるかぎり来ては報告してくれる。ソランは狭い範囲で生活しながらも、世間から隔絶されてはいなかった。
「それのフォローを兼ねている。詳しくは時間が取れしだい、まとめて話す」
「はい。私にも、もっとお手伝いできることがあればよいのですが」
殿下は毎日夜遅くまで仕事をしている。さほど疲れた様子は見えないが、心配だった。
「おまえに表立って動いてもらうわけにもゆくまい。おとなしく花嫁修業をしていろ。それとも、逃げ出したいか?」
逃げ出したいに決まっている。剣の稽古の方がどれくらい楽しいことか。
ソランは殿下を一睨みして食事に戻った。小口で上品に食べる上に、ゆっくりと時間をかけるように訓練している最中である。戦場でも間に合うようにと、早食いに慣れていたソランにとっては、食事すら拷問に等しくなっていた。
扉がノックされた。マリーが応対に出る。ディーが、急ぎ殿下にお出でいただきたいと呼びに来ていた。
「食事の最中なのにすまんな」
殿下は席を立った。ソランもフォークを置き、立つ。殿下が歩み寄って来る。そして少し屈んで耳元で囁いた。
「今宵は時間ができるかもしれん。行ってもよいか?」
しっ、と、ご自分の口元に一本指を当てたので、ソランはただ頷いてみせた。寝室を行き来するのは、他の者には内緒にしておきたいのだろう。確かに、ディーあたりが耳にしたら、からかいそうだ。そしてマリーに知れたら、侍女の夜番を寝室内に置くと言いだすにちがいない。
殿下は笑みを浮かべた。
「では、頑張れよ」
すっとソランの頬を一撫でし、踵を返した。
鼓動が速い。殿下に微笑みかけられるだけで心が弾むのに、近くで囁きかけられ、触れられれば、眩暈がするほどだ。しかし、すべて隠して、ソランは頭を下げた。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
殿下は一度振り返り、微笑んで頷くと、部屋を出て行った。
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