星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第一章 終わりのはじまり

6 魔術要塞都市イシュ・アルマ

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 カナメが結んだ結界が、まるで水面を揺らす風のように空間を震わせる。
 男はその中心に進み、静かに片手を掲げた。指先が空中をなぞると、見えざる線が浮かび上がり、魔素の軌跡が青白い光となって宙に描かれる。

「——結び初む 由の理にて 境開け」

 その一言とともに、結界が音を立てて転じた。世界が“裏返る”。

 空間が波紋のようにねじれ、重力の軸が狂う。
 レンは意識が裂かれるような、あるいは無数の 自己に分解されてどこかへ飛ばされていくような錯覚に襲われた。

 息をする暇もなく、すべてが反転する。

 目を瞑った次の瞬間、空気が変わった。
 重いようで軽く、冷たいようで温かい。嗅ぎ慣れた土と草の匂いが消え、代わりに金属と硝子、古代の書庫のような匂いが鼻腔をくすぐった。

 ——元いた場所ではない何処か。そこに来たのだと、直感する。

 ゆっくりと目を開けた。

 眼前に広がっていたのは、石造りの壮麗な都市だった。

 建築は西洋の大聖堂を思わせながらも、どこか和風の神殿建築の流れを内包している。重厚な柱、精緻に彫られたアーチと紋様、魔法陣を模した天蓋が高く張り出している。
 建物の外壁には、幾重にも重なった魔法式が刻まれていて、それが淡く脈動するように輝いていた。まるで建物自体が“呼吸”しているかのようだった。

 遥か上空、空と見まがうほどの巨大な魔力障壁が都市全体を覆っている。時折そこに雷光のような魔素の閃光が走り、空間を護る“意思”のようなものを感じさせた。

 魔術要塞都市イシュ・アルマ。

 中央には、大理石と魔素合金で編まれた塔がそびえ立っていた。あれこそがイシュ・アルマの心臓部だろう。

 通りを行き交うのは、見知らぬ衣裳をまとった若者たち。

 深紺のローブに銀糸で紋章が織り込まれた装束。その形はさまざまだった。フードのついたロングタイプ。レンの目の前を歩く男と同じクロークコート。中には鎧のようなマントを着た者もいた。彼らは皆、魔術師でありそして、退魔師と呼ばれる闘う者たち。その候補生である。

 書を抱えながら歩く者、空中に式を浮かべて何かを演算している者、仲間と魔法術式の応答を訓練している者たち。どの顔にも緊張感と知性が宿っていた。

 ここは、レンの日常の延長ではない。

 法と理と魔が支配する、もう一つの“現実”だった。

 そのただ中を歩く彼——強制的にレンを同行させた男に、すれ違う者たちは皆、一様に頭を下げる。

「先生、試験ありがとうございました!」

「教授、次の講義もよろしくお願いいたします」

「……その案件、後で報告します」

 男は彼らの声に応え、最小限の動きで目を伏せるだけだった。だが、それだけで十分なのだと周囲の誰もが理解しているようだった。
 この空間において、彼の立ち位置は揺るがないものとして“在る”。

 レンはただ、その背中を追いながら呆然としていた。

(夢じゃ、ないんだ……)

 昨日、自分が垣間見たあの光景。それが目の前で息づいている。違うのは、今、自分がその“内側”にいることだった。

 男は迷いなく回廊を曲がり、石畳の階段を上がると、ひとつの扉の前で立ち止まった。

 扉には重厚な金属の取っ手。上部には魔素で封印された小さな紋章が浮かんでいる。

「ここだ」

 短く告げるその声には、どこか慎重な響きがあった。

 男がドアノブに手をかけた、その刹那。

「……あの!」

 レンが堪えきれず、口を開いた。

「……スメラギ先生、ですよね?」

 指先が、ぴたりと止まった。

 ドアに触れたまま、男の動きが固まる。

 空気が変わった。呼吸の音が重くなり、通路を吹き抜ける風までもが止まったかのようだった。

 背を向けたまま、男は応えない。

 だが、その沈黙こそが、答えであるかのようだった。

 レンの胸の奥が、奇妙にざわつく。
 初めて聞いたわけではない。ただのクラス担任だった筈のその名に、なぜか懐かしさが宿る。

 ——この名を知っている。
 ——もっと深く、ずっと前から。

 それが何を意味するのかを、レンはまだ知らなかった。

 だが、この瞬間から、すべてが変わり始めることだけは、理解していた。

 ⸻

 魔法が取り巻く空間には、現実とは異なる密度がある。
 世界の裏側、あるいは“もうひとつの地層”とでも言うべきその場所に、境界空間──由界《ゆいかい》は存在していた。

 そこは人の目には見えず、地図に記されることもない。
 だが確かに“在る”。
 現実と異界の狭間、もっとも深く、もっとも古く、魔素の根源に近い領域。
 現実世界の構造そのものに干渉しうる、恒常性を持った境界空間。

 由界に恒常的に構築されている魔術要塞都市、そして、都市と同じ名を冠する学術機関《イシュ・アルマ》である。

 魔法とは、奇跡ではなく理論であるという思想のもとに築かれたこの機関は、あらゆる学術分野の魔術的応用を試み、体系化し、継承する場所だ。
 魔素理論学、術式工学、符術理論、古代歴史魔術、召喚術、構文解析学、魔草薬学、魂魄干渉理論──
 無数の研究棟と講義棟が広がり、そこでは日夜、魔法という現象を“学問”として解析しようとする者たちが集い、学び、争い、進化を続けている。

 また、イシュ・アルマは同時に、戦う術を持つ者──退魔師の育成機関でもある。
 魔素を武器とし、異界より侵入する“それ”に対抗するための技術と知識が教えられる場所。
 そのためこの地には候補生と呼ばれる若者たちが多く暮らし、魔力に適性を持つ者のみが制服を許されていた。

 その制服もまた、ただの衣ではない。
 素材には魔素への共鳴特性が織り込まれ、戦闘時の術式強化や反応速度の最適化など、理論的に裏打ちされた無数の魔法補助機能を備えている。

 イシュ・アルマの通路は、どこまでも幾何学的だった。
 回廊の床に刻まれた精緻な術式のライン、白と黒の石材を組み合わせた床材、魔素の循環によって発光する淡い灯り。
 アーチを描く天井の至るところには封印や障壁、侵入対策の符が組み込まれ、常時展開されている複数の結界が空間を分層している。

 レンの視界に入るものすべてが、未知だった。
 けれども、それは恐ろしい異質さではない。
 むしろ、息を呑むほどに整然として、美しかった。
 現実とは異なる理が、そこには確かにあった。

 自分は今、物語の世界を歩いている。そんな興奮さえ宿っていた。

 通り過ぎる若者たちは誰もが凛としていた。
 それぞれの衣裳に刺繍された紋章が、彼らの専門や所属を表しているのだろう。
 歩く者、飛ぶ者、魔導具を抱えて走る者──
 彼らは当たり前のように、この“異界の都市”で日常を送っていた。


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