7 / 109
第一章 終わりのはじまり
6 魔術要塞都市イシュ・アルマ
しおりを挟むカナメが結んだ結界が、まるで水面を揺らす風のように空間を震わせる。
男はその中心に進み、静かに片手を掲げた。指先が空中をなぞると、見えざる線が浮かび上がり、魔素の軌跡が青白い光となって宙に描かれる。
「——結び初む 由の理にて 境開け」
その一言とともに、結界が音を立てて転じた。世界が“裏返る”。
空間が波紋のようにねじれ、重力の軸が狂う。
レンは意識が裂かれるような、あるいは無数の 自己に分解されてどこかへ飛ばされていくような錯覚に襲われた。
息をする暇もなく、すべてが反転する。
目を瞑った次の瞬間、空気が変わった。
重いようで軽く、冷たいようで温かい。嗅ぎ慣れた土と草の匂いが消え、代わりに金属と硝子、古代の書庫のような匂いが鼻腔をくすぐった。
——元いた場所ではない何処か。そこに来たのだと、直感する。
ゆっくりと目を開けた。
眼前に広がっていたのは、石造りの壮麗な都市だった。
建築は西洋の大聖堂を思わせながらも、どこか和風の神殿建築の流れを内包している。重厚な柱、精緻に彫られたアーチと紋様、魔法陣を模した天蓋が高く張り出している。
建物の外壁には、幾重にも重なった魔法式が刻まれていて、それが淡く脈動するように輝いていた。まるで建物自体が“呼吸”しているかのようだった。
遥か上空、空と見まがうほどの巨大な魔力障壁が都市全体を覆っている。時折そこに雷光のような魔素の閃光が走り、空間を護る“意思”のようなものを感じさせた。
魔術要塞都市イシュ・アルマ。
中央には、大理石と魔素合金で編まれた塔がそびえ立っていた。あれこそがイシュ・アルマの心臓部だろう。
通りを行き交うのは、見知らぬ衣裳をまとった若者たち。
深紺のローブに銀糸で紋章が織り込まれた装束。その形はさまざまだった。フードのついたロングタイプ。レンの目の前を歩く男と同じクロークコート。中には鎧のようなマントを着た者もいた。彼らは皆、魔術師でありそして、退魔師と呼ばれる闘う者たち。その候補生である。
書を抱えながら歩く者、空中に式を浮かべて何かを演算している者、仲間と魔法術式の応答を訓練している者たち。どの顔にも緊張感と知性が宿っていた。
ここは、レンの日常の延長ではない。
法と理と魔が支配する、もう一つの“現実”だった。
そのただ中を歩く彼——強制的にレンを同行させた男に、すれ違う者たちは皆、一様に頭を下げる。
「先生、試験ありがとうございました!」
「教授、次の講義もよろしくお願いいたします」
「……その案件、後で報告します」
男は彼らの声に応え、最小限の動きで目を伏せるだけだった。だが、それだけで十分なのだと周囲の誰もが理解しているようだった。
この空間において、彼の立ち位置は揺るがないものとして“在る”。
レンはただ、その背中を追いながら呆然としていた。
(夢じゃ、ないんだ……)
昨日、自分が垣間見たあの光景。それが目の前で息づいている。違うのは、今、自分がその“内側”にいることだった。
男は迷いなく回廊を曲がり、石畳の階段を上がると、ひとつの扉の前で立ち止まった。
扉には重厚な金属の取っ手。上部には魔素で封印された小さな紋章が浮かんでいる。
「ここだ」
短く告げるその声には、どこか慎重な響きがあった。
男がドアノブに手をかけた、その刹那。
「……あの!」
レンが堪えきれず、口を開いた。
「……スメラギ先生、ですよね?」
指先が、ぴたりと止まった。
ドアに触れたまま、男の動きが固まる。
空気が変わった。呼吸の音が重くなり、通路を吹き抜ける風までもが止まったかのようだった。
背を向けたまま、男は応えない。
だが、その沈黙こそが、答えであるかのようだった。
レンの胸の奥が、奇妙にざわつく。
初めて聞いたわけではない。ただのクラス担任だった筈のその名に、なぜか懐かしさが宿る。
——この名を知っている。
——もっと深く、ずっと前から。
それが何を意味するのかを、レンはまだ知らなかった。
だが、この瞬間から、すべてが変わり始めることだけは、理解していた。
⸻
魔法が取り巻く空間には、現実とは異なる密度がある。
世界の裏側、あるいは“もうひとつの地層”とでも言うべきその場所に、境界空間──由界《ゆいかい》は存在していた。
そこは人の目には見えず、地図に記されることもない。
だが確かに“在る”。
現実と異界の狭間、もっとも深く、もっとも古く、魔素の根源に近い領域。
現実世界の構造そのものに干渉しうる、恒常性を持った境界空間。
由界に恒常的に構築されている魔術要塞都市、そして、都市と同じ名を冠する学術機関《イシュ・アルマ》である。
魔法とは、奇跡ではなく理論であるという思想のもとに築かれたこの機関は、あらゆる学術分野の魔術的応用を試み、体系化し、継承する場所だ。
魔素理論学、術式工学、符術理論、古代歴史魔術、召喚術、構文解析学、魔草薬学、魂魄干渉理論──
無数の研究棟と講義棟が広がり、そこでは日夜、魔法という現象を“学問”として解析しようとする者たちが集い、学び、争い、進化を続けている。
また、イシュ・アルマは同時に、戦う術を持つ者──退魔師の育成機関でもある。
魔素を武器とし、異界より侵入する“それ”に対抗するための技術と知識が教えられる場所。
そのためこの地には候補生と呼ばれる若者たちが多く暮らし、魔力に適性を持つ者のみが制服を許されていた。
その制服もまた、ただの衣ではない。
素材には魔素への共鳴特性が織り込まれ、戦闘時の術式強化や反応速度の最適化など、理論的に裏打ちされた無数の魔法補助機能を備えている。
イシュ・アルマの通路は、どこまでも幾何学的だった。
回廊の床に刻まれた精緻な術式のライン、白と黒の石材を組み合わせた床材、魔素の循環によって発光する淡い灯り。
アーチを描く天井の至るところには封印や障壁、侵入対策の符が組み込まれ、常時展開されている複数の結界が空間を分層している。
レンの視界に入るものすべてが、未知だった。
けれども、それは恐ろしい異質さではない。
むしろ、息を呑むほどに整然として、美しかった。
現実とは異なる理が、そこには確かにあった。
自分は今、物語の世界を歩いている。そんな興奮さえ宿っていた。
通り過ぎる若者たちは誰もが凛としていた。
それぞれの衣裳に刺繍された紋章が、彼らの専門や所属を表しているのだろう。
歩く者、飛ぶ者、魔導具を抱えて走る者──
彼らは当たり前のように、この“異界の都市”で日常を送っていた。
2
あなたにおすすめの小説
嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま
中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。
両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。
故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!!
様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材!
僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX!
ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。
うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか!
僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。
そうしてニ年後。
領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。
え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。
関係ここからやり直し?できる?
Rには*ついてます。
後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。
ムーンライトにも同時投稿中
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!
野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ
平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、
どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。
数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。
きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、
生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。
「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」
それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。
ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎
兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。
冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない!
仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。
宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。
一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──?
「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」
コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
その捕虜は牢屋から離れたくない
さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。
というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる