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第一章 終わりのはじまり
8 神域の森・大社跡
しおりを挟むスメラギの研究室には、静かな空気と、微かに魔素の揺らぎが漂っていた。生き物のような気配が空間に満ち、耳を澄ませば、誰かの呼吸にも似た魔力の蠢きを感じ取れるほどだった。
「一処《いちところ》を断ち、一処を結ばん。理《ことわり》の道、此処に開け」
スメラギが綺麗な指先を持ち上げる。虚空に弦を弾くような繊細な仕草だった。瞬間、空間がきしむように歪んだ。見えない何かを剥ぐような仕草と共に、空間に淡い光の糸が縒られていく。それはやがて、円環を描く魔法陣となって浮かび上がった。蒼白い輝きが床に滲み、鏡界が開く。
「……今回の目的はあくまで調査だ。目で見て、記録する。それ以上でも、以下でもない。いいな」
低く落ち着いた声。スメラギの瞳はわずかに鋭さを帯び、学生相手とは思えないほどの威圧感を放っている。
「了解です!」
カナメが即答する。どこか弾む声だが、その表情は真剣だった。言葉の意味をしっかりと理解している者の応答。
その隣でレンは喉を鳴らした。視線をそらしかけたところで、再び名前を呼ばれる。
「イシミネ。この調査はお前の魔素測定も兼ねている。不安な気持ちはわかるが、現地ではヒウラの指示に従うように」
彼の眼差しがレンに向けられる。その深く冷たい、静かな光を受けて、レンは思わず背筋を伸ばした。
「わ、わかった!」
気圧されながらも、精一杯の声で答える。
レンはカナメに続いて足元でぼんやりと回る魔法陣の上に立った。その瞬間、魔法陣の光が一段と強まり、部屋全体が淡い輝きに包まれた。空間が歪み、鏡界が繋がる。空気がねじれ、振り撒いたように光の粒が舞い上がった。
カナメが、気軽に手を振る。
「行ってきまーす!」
「え、え!? わ、わぁあああ!!」
レンの叫びが響いた瞬間、二人の姿が魔法陣の中に吸い込まれるようにして、かき消えた。
――そして、静けさが戻る。
研究室には、もう誰もいない。先ほどまでの光と気配が嘘のように消え、沈黙だけが残った。
スメラギはしばらく黙って、その場に立ち尽くしていた。やがて、誰にともなく呟く。
「……“あれ”が残っていなければいいが」
その声には、微かな憂いと、過去への警戒が滲んでいた。
⸻
転送先は、薄暗い森だった。
鬱蒼とした木々が頭上を覆い、昼間であるはずなのに光は乏しい。枯葉と苔に覆われた地面。空気は湿り気を帯び、どこか冷たい。
少し先には、苔むした鳥居と崩れかけた石段が見える。打ち捨てられた大社跡――かつて“神域”と呼ばれた場所。
だがその神聖さの裏側に、得体の知れない何かが潜んでいるような、そんな戦慄があった。
「先生が言ってたのは、この辺りだけど……」
カナメは手にした測定器を睨みつけながら、足元の落ち葉を踏みしめて進んでいく。顔つきは真剣そのもの。だが、どこか緊張を紛らわせるような動きでもある。
「ま、待ってよ!! 早いって!!」
少し遅れてレンが駆け寄る。魔法陣から放り出されてまだ間もない。足元も覚束なく、辺りの異様な空気にすっかり呑まれていた。
「もう、遅いって。何ビビってんの?」
カナメが振り返り、からかうように笑う。いつもの調子が戻っている――ように見えたが、その口調の裏には少しだけ、レンが無事に転送されてきたことへの安堵も混じっていた。
「だ、だってさ……ここ、いかにも過ぎない!? 絶対なんかいるって!!」
レンの声が裏返る。肩をすぼめ、周囲をキョロキョロと見回す姿はまるで迷い込んだ子犬のようだった。
「ふうーん、意外と怖がりなんだぁ」
カナメは少し意地悪そうに目を細める。こんな場面でも、からかいたくなるのは相手がレンだからかもしれない。
「よせよ、もう……」
レンは口を尖らせる。ほんの少しだけ、顔が赤い。
二人の間に、静かな間が落ちる。
鳥の鳴き声もなく、森はただ、静寂を湛えていた。
「でも、驚いちゃった」
カナメがぽつりと呟く。
「……なにが?」レンはまだ少し膨れ面のまま。
「まさかスメラギ先生が、他人に興味を持つなんてさ」
その一言に、レンは目を見開いた。
「……それなんだよ! あの人、本当に“担任のスメラギ先生”で、合ってる?」
「地味で、ダサくて、影の薄い、高校の先生?」
「そう、それ!」
レンは勢いよく頷いた。やっぱり自分の感覚がおかしいわけじゃなかった、と内心で安心していた。
「合ってるよ。でもあれは……いわゆる“仮の姿”」
カナメの口調はどこか達観していた。彼女にとっての“スメラギ先生”は、既に別の顔を持つ存在だった。
――誰よりも遠くて、誰よりも深く沈んでいる。そう感じさせる人。
レンはその言葉の重みをすぐには理解できず、ただぼんやりと森の奥を見つめた。
……その先に、何が待っているのかも知らずに。
⸻
森を進みながら、カナメは何気なく言った。
「スメラギ先生は、この世界を代表する、最高峰の退魔師なの」
レンは目を見開いた。
「つまり、正義のヒーローってことか!」
「そんな甘いもんじゃないよ」
カナメは即座に否定したが、声色はどこか誇らしげだった。
「退魔師ってのはね――簡単に言えば、“人と魔を隔てる者”。人に害をなす異形や呪い、災厄から世界を守る専門家。でも、実際には命を削るような仕事ばかりだし、誰にも知られずに消えてく人も多い。正義のヒーローになんて華やかなもんじゃないよ」
レンは口を噤んだ。冗談のつもりだったが、カナメの言葉には重みがあった。
「……そっか。なんか、ごめん」
「いいの。でも、だからこそ、スメラギ先生みたいな人が“本物”なんだよ」
彼女は前を向いたまま、少しだけ微笑んだ。
「冷酷冷徹。無慈悲で人間嫌い。感情も希薄だから、氷の教授なんて揶揄されてるけど、先生は誰よりも静かに真っ直ぐに戦い続けてる。私の目標であり、誇りであり、憧れでもあるんだから」
「へえ、けっこう言うじゃん。意外と熱いんだな」
レンがからかうと、カナメはぴくりと肩を揺らし、照れ隠しのように早口で話し出した。
「そういう意味では、あの先生ってほんとすごいんだから! あの静かで爽やかで穏やかな物腰と、ずっと聞いていたくなるような、胸を締めつけられるような、甘くて低いハスキーボイスに……他人を寄せ付けない、どこか寂しげで愁を帯びた眼差しと、戦いになると凛として、一挙一動に隙も無駄もない……あれはもう、美しいって言っていいくらいで、私、初めて見たとき――」
「ちょ、ちょっと待って! 熱量おかしくない!?」
レンが両手を上げて全力で止めに入る。カナメはハッと我に返ると、顔を真っ赤に染めて叫んだ。
「や、今のは違う! 尊敬! あくまで退魔師として、師匠としての尊敬だから!!」
「……無理があるっしょ、それ」
レンは呆れ半分、面白がるように笑った。
カナメはぷいとそっぽを向く。
「うるさい。いいから足元見て歩きなよ。転ぶよ」
「はーい」
歩きながら、レンはふと呟く。
「……俺、学校でのスメラギ先生しか知らないからさ。なんか、知らないことばっかだなって思ったんだ」
「だから、あれは“世をしのぶ仮の姿”なんだよ。学校で目立たないのは、先生がそうしてるだけ。もし本当の姿でいたら――女子たちが見逃すわけないでしょ?」
「まあ、確かに」
レンはクラスの女子たちが騒ぐ光景を想像して、苦笑した。
そのときだった。
――ざわっ
風が木々を揺らし、森の空気が一変した。
カナメが手にしていた計測器が、突如、赤色の異常値を示して警告音を鳴らし始める。
「……ッ!」
カナメが息を呑む。
空気が湿っている。ひやりと肌を撫でる冷気。そして――静けさの裏に潜む“何か”の気配。
「イシミネ、動かないで」
「え、な、何……?」
声が震えていた。レンも、肌で“異常”を感じていた。
――ゆらり
目の前、古びた石段の上。かつて社があったであろう空間に、ぼうっと青白い灯が現れた。
一つ。二つ。三つ……次々と、まるで誰かの霊を弔うように、静かに揺れながら現れる。
それは――《カサリビ》。
「……擬霊型の魔獣、カサリビ。ここに“何か”が残ってる証拠だ」
カナメの声が低くなった。
レンはその“火”に釘付けになる。人の形を模したそれは、表情を持たない顔をこちらに向けた――ように、見えた。
――「……おかえり」
レンの耳に、懐かしい声が響いた。ありえない。聞き間違いか、幻聴か……でも、確かにそれは――母の声だった。
「や、やめて……なんで……?」
「イシミネ!」
カナメが彼の肩を強く掴んだ。
「それは“擬似記憶干渉”。惑わされちゃダメ!」
「っ……!」
レンは目を強く閉じて、かき消すように頭を振った。
カサリビは、まだ増えている。
彼らを、静かに――だが確実に、森の奥へと誘おうとしていた。
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