星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第一章 終わりのはじまり

9 灯魄火(カサリビ)

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 森の空気は、張り詰めたままだった。

 《カサリビ》たちは、揺らぐ青白い灯を頼りに、ゆっくりと彼らに近づいてくる。まるで水の底から手を伸ばすように、静かに、しかし確実に距離を詰めていた。

 カナメは手元の端末を操作し、何かの設定を素早く切り替えた。

「……数が多すぎる。ここで戦うのは得策じゃない。目的は“調査”であって、“討伐”じゃないんだから」

 冷静な判断だった。だが、その声には微かな焦りも混じっていた。

「イシミネ、走るよ。先生が設置した転送陣まで――こっち!」

「お、おう!」

 レンは頷き、カナメの後に続いて森を駆け出す。踏みしめる土の感触。揺れる枝葉。背後ではなおも、青白い光がついてくる。

「追ってきてる……っ!」

「擬霊型は執着が強いの。特に“記憶”に干渉されたら最後、まともな判断ができなくなる……!」

 二人は風を裂くように走る。その先、わずかに空間の魔素が歪んでいる。転送陣の気配だ。

「あと少し……!」

 だが、次の瞬間――

「きゃっ!」

 足を取られ、カナメがバランスを崩して転んだ。

「ヒウラっ!」

 振り返ったレンの目に、ぞっとする光景が映った。

 一体の《カサリビ》が、地を這うように迫ってくる。その灯は今や人の形を成し、腕を伸ばしてカナメに触れようとしていた。

「や……っ」

 恐怖に硬直するカナメ。

 その時だった。

 レンの左手――親指にはめられた《エーテル・バインダー》が、眩い光を放った。

「――っ……!」

 光が爆ぜ、空間が一瞬だけ白く染まる。

 《カサリビ》の伸ばしていた“手”が、光に触れた瞬間、じゅっと音を立てて後退する。まるで陽光に焼かれる霧のように、たまらず退いた。

「な、に……これ……?」

 レンは呆然と、光る指輪を見つめた。

 その光は、彼の心が動いたときに呼応するように、淡く脈打っていた。

「……今の、イシミネ……?」

「わかんないよ!! 俺……何もしてないっ……!」

 カナメは驚きと安堵の入り混じった表情で、レンを見上げた。

「説明は後っ、早く!」

 レンは彼女に手を差し伸べ、カナメはその手をしっかりと握った。引き起こされるように立ち上がり、再び二人は駆け出す。

 《カサリビ》たちは距離を取りながらも、なお周囲を漂っていた。だが、エーテルリングの光が結界のように二人を包み、干渉を退けていた。

 そして――

「ここだ、転送陣!」

 魔素の流れが集中する一点。森の奥の地面に、淡い光を宿した魔法陣が刻まれていた。スメラギの術式だ。

「この座標で帰還可能。術式、起動!」

 カナメが短く詠唱を唱え、陣に魔素が満ちていく。

 ひときわ強く輝いた光の中で、レンはちらりと背後を振り返った。遠くに浮かぶ《カサリビ》たちの灯が、夜の霧のように揺れていた。

 ――あれは、人を惑わすだけの“火”じゃない。もっと深い、“哀しみ”を孕んでいる。

 その思考は、すぐに光に包まれてかき消えた。

 空間が揺れ、二人の姿が転送陣に飲み込まれる――

 次に目を開けたとき、そこは転送先――スメラギの待つ研究室だった。

 緊張から解き放たれたレンとカナメは、同時にその場に座り込んだ。

「……つかれた……」

「ほんとに……死ぬかと思った……」

 息を切らせながらも、二人の間には確かな信頼と、何かを乗り越えた実感があった。

 森の《カサリビ》との遭遇をなんとか切り抜け、転送陣に身を投じたレンとカナメは、光に包まれて帰還を果たした。

 ⸻

 たどり着いた、スメラギの研究室。

 石造りの壁。棚に積まれた書物と巻物。魔術具の並ぶ調合台。窓から差し込む月光が、灰色の静寂を照らしている。

 確かなスメラギの気配に、二人はほっと息をついた。

 部屋の中央、重厚なデスクにもたれかかるようにして、スメラギが腕を組んで立っていた。

 青みがかった漆黒の髪に、陶器のように白い肌。憂いを抱えたヘーゼルの瞳が、無言で二人を見据えている。

 その視線が、すべてを見通すように、静かに二人をなぞった。

「……やはり、残っていたか」

 低く響いた声には、わずかな疲れと、確信めいた懸念が混じっていた。

「二人とも、無事で何よりだ」

「無事じゃ……ない、れす……」

 カナメがへたり込んだまま、かすれた声を漏らす。

 見ると、制服のスカートから覗く華奢な膝に、大きな擦り傷ができていた。転倒の際に負ったものだろう。血がにじみ、白い肌に痛々しく広がっている。

「こんなの、聞いてない!」

 レンは憤りを露わにした。荒い息をつきながら拳を握り、床を睨みつける。

 怒りとも、恐怖ともつかない感情が胸を灼く。誰も死ななかった――それでも、誰かが死んでいてもおかしくなかった現実が、喉元に鋭く突きつけられる。

 だが、スメラギはその声に何の返答も示さず、ただ一瞥をくれただけだった。

 そして静かに膝を折り、カナメの傍らに座り込む。

 その仕草は、威圧でも否定でもなかった。ただ、無言のまま、彼女の傷に視線を落とす。

 スメラギの指先が、そっとカナメの膝にかざされる。

 ほんの一瞬、空気がふるえた。

 指先からほのかにあふれた魔素が、淡く、優しく、傷を包み込む。まるで初雪のような儚い光が、傷口に触れた瞬間――出血が止まり、肌が滑らかに修復されていった。

 痛みすら、まるで最初からなかったかのように。

「……あ……ありがとうございます……」

 カナメは戸惑い混じりに礼を口にし、そしてそっと目を伏せた。距離が近すぎる。スメラギの体温が、ほんのわずかに肌に触れた気がした。

 それだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

「気にするな」

 短く返すその声は、冷たくも、突き放すでもない。ただ、彼女の無事を肯定するような温度を帯びていた。

 そして今度は、スメラギの視線がレンへと移る。

 レンが動けないままでいると、スメラギはすっと立ち上がり、そのまま彼の左手を取った。

「っ……」

 一瞬、心臓が跳ねた。

 目の前で繋がれた自分の手と、スメラギの手。長く細い指。見惚れるほどに美しく、血の気が薄い指先――驚くほど冷たい。まるで氷のように。

 その手が、レンの指にはめられた《エーテル・バインダー》をまじまじと見つめた。

「……なるほど」

 その口元に、ごくわずかな変化が走る。
 右手の人差し指と親指で顎をなぞり、少し首を傾げて、瞬きを一つ多くする。

 思案の色。計算。そして、どこか遠い過去を見ているような――深い哀しみのようなもの。

「よく分かった」

 スメラギはそう呟くと、すっとレンの指からリングを抜き取った。

「イシミネ。今日はもう帰りなさい」

「は? ちょっと待って、ヒウラは……!」

「案ずる必要はない。彼女は、私の弟子だ」

 淡々と、感情を交えずに言い切る。口調に強さはないのに、なぜかそれ以上は言えない。

 レンは言葉を失ったまま、スメラギと目を合わせる。

 ――拒絶ではない。でも、明らかに“これ以上は踏み込ませない”という無言の圧。

 耳が痛くなるような静寂の中、スメラギはただ黙ってレンを見つめていた。その視線に押し出されるように、レンは言葉を飲み込む。

 研究室の隅にある小さな転送陣が、静かに光を灯していた。

 レンは踵を返し、ゆっくりとそこへ向かう。

 リングを奪われた指先が、なぜか妙に寂しく、冷たかった。

 彼の背後で、スメラギはもう何も言わなかった。

 ただ一人、月明かりの中に立ち尽くしていた――

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