星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第一章 終わりのはじまり

10 出汁の香り

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 夜の帳がゆっくりと街を覆い尽くす。

 空気はひんやりと澄み、昼間の熱を残すことなく、静けさだけが辺りに降り積もっていた。
 遠くを走る電車の音が、風に乗ってかすかに届く。まるで遠い世界からの呼び声のように。

 レンは人気のない坂道を一人歩いていた。
 いつもの帰り道。夜道を照らす街灯は、どこか頼りなく、オレンジ色の光が足元を淡く滲ませる。
 古びた商店街の軒先には、シャッターが半ば降りかかり、風鈴が小さく鳴った。
 コンビニの自動ドアが開閉するたび、淡い光が瞬きのように漏れ、日常の気配を微かに主張していた。

 遠くで人々の談話が、楽器の音色のように聞こえていた。

 すべては、いつも通りのはずだった。
 けれど、それらの景色が薄いヴェール越しに見えるようで、どこか遠く、触れがたい。
 足元を踏みしめるたびに、身体の奥に溜まった疲労がじんわりと滲み出し、現実に戻りつつある感覚だけが、やけに鮮明だった。

 なのに──心のどこかが、まだ“あちら側”に取り残されたままだった。
 空間も時間も、感覚さえもどこか浮ついていて、自分だけが異物のようにこの街に溶け込めていない気がする。

 ──あれは、夢じゃない。

 そう言い聞かせるように心で繰り返しても、思考の奥で何かがまだ否定している。
 現実と非現実の狭間で揺れる、確信にも似た疑念。
 あの日常の裏に、あの異様な光景が確かに存在したという事実が、今なお受け止めきれずに胸の中で重たく沈んでいた。

 門構えの木戸を引くと、ぎい、と湿った軋み音が響く。
 引き戸が古風な音を立てて、レンの鼓膜を刺激した。土間の向こうから漂ってきたのは、出汁の香り──昆布と鰹節のやさしい香気が、ふいに胸の奥をほどいた。

「……ああ、帰ってきたんだな、俺……」

 ぽつりと漏れた声は、想像以上に静かだった。
 それは安堵とも哀しみともつかない、混ざり合った感情の果てに生まれた声だった。

 廊下の奥から、畳の軋む音とともに祖父の声が響いた。

「おかえり。遅かったな」

「……ただいま、じいちゃん」

 剣術道場を営む祖父は、道着姿のまま凛とした佇まいで立っていた。
 白髪をきちんと撫でつけたその背中には、長年剣を握ってきた者の風格と静かな威厳が宿っている。
 老いを感じさせる身体つきでありながら、その眼差しはなお鋭く、曇りがなかった。
 それでも、その声には揺るぎない温かさがあった。家族だからこそ感じられる、唯一無二のぬくもりが。

「飯はできてる。温め直すか?」

「……ううん、食べてきたから大丈夫。ありがと」

 祖父はそれ以上は何も言わず、定位置に座ると手にしていた新聞に視線を落とした。
 余計なことを問わないその沈黙に、レンは内心でほっとする。
 そのままそっと目を伏せて、道場の隅にある階段をゆっくりと上がっていった。

 階段を上りながら、祖父の背中がふと脳裏に浮かぶ。
 この人に──今日の出来事を話せる日は、果たして来るのだろうか。

 部屋の扉を閉め、制服を脱ぎ捨てる。
 ベッドへ身を沈めると、白い天井がぼんやりと視界に広がり、灯りの柔らかな光が、静かに瞳に染み込んだ。

 魔法、ヒウラ、イシュ・アルマ、魔獣、そして──スメラギ先生。

 思い出そうとしなくても、映像のように鮮やかに蘇る。
 怒涛のような一日だったはずなのに、今はまるで水底に沈んだ夢の断片のように感じられた。
 だが、その感覚の端々に、確かな熱と痛みが残っている。

 歩き慣れた帰り道、慣れ親しんだ部屋に戻ってきたのに、自分だけが別の時間軸から取り残されて、ここに立っているような気がする。
 まるで、“本当の今”がどこか別の場所にあるかのように。

 非日常に触れた感触。
 魔素の輝き、空気の密度、魔獣の重圧──
 スメラギの、冷たい指先。
 それらは今なお、皮膚の内側に刻まれていた。

「……全部、本当にあった……んだよな」

 誰にも届かない呟きが、静かに天井へと溶けていく。

 あの場所に踏み込んだ瞬間の衝撃。
 魔獣を前にして感じた、どうしようもない恐怖と、圧倒的な無力感。
 ただ、立ち尽くすことしかできなかった自分の姿が、焼き付いて離れない。

 夢のようだった。でも、夢じゃない。

 確かに、今ここに自分がいる。
 そして、何者にもなれていない──ただの自分も、確かにここにいる。
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