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第二章 火を見るよりあきらか
11 かりそめのすがた
しおりを挟む翌朝。
澄み切った青空の下、レンはどこか夢見心地のまま、ぼんやりと通学路を歩いていた。
頭の中では、昨日見た不可思議な光景が鮮明に焼きついている。
異形の化け物、そして──あの人。
スメラギの放った氷の魔法。現実とは思えない出来事に、レンはまだ心が追いついていなかった。
「いよう、相棒! 本日も快晴だな!!」
背後から不意に、肩へ腕が回される。
カベの明るい声が弾むが、レンの目は虚ろで、どこか上の空だった。
そのまま視線を宙に泳がせたまましばらく黙っていたが、やがて声を震わせて切り出す。
「……あのさ、ちょっと、いい?」
「ん? なに、いきなり告白? 悪い、俺、そっちの気は──」
「ちがう!!」
思わず声を荒げてしまい、近くにいた生徒たちが一斉に振り返った。
レンは慌てて声を潜め、真剣な表情で言葉を続ける。
「昨日の昼休み、俺、ヒウラに呼び出されたろ? そのとき裏庭で変な化け物に襲われて……そこにスメラギ先生が現れて、氷の魔法でそいつを一瞬で……」
話すたびに、現実味が薄れていくような気がする。けれど、それは確かに“あった”のだ。
目を閉じれば、まだまぶたの裏に光景が焼きついている。
「は?」
カベは口を半開きにして固まっていた。
「氷? は? 何それ、冷凍ビーム的な? てかスメラギって、あのスメラギ? 生徒にチョーク投げ返されてる、あの?」
「……だから、見たんだって。マジで。雰囲気も全然違ってた……」
「おまえさあ……疲れてんじゃね? 最近剣道もガチだったし、寝不足とか?」
「嘘じゃないってば!」
レンの声が裏返り、廊下に響き渡る。またも数人の生徒が振り返り、レンは小さく舌打ちした。
「……ごめん。でも、本当にあったことなんだよ」
信じてほしかった。けれど、話してみてわかった。
昨日の出来事を、言葉で伝えるのは想像以上に難しい。
信じてもらえないどころか、自分でも現実感が薄れていく。
「おまえがそこまで言うなら、嘘じゃねえのかもしんねえけど……にしても、ヤベェだろ、それ」
「……わかってるよ」
「てかおまえ、昨日フツーに五限にいたじゃん?」
「え?」
心臓が跳ね上がった。
──そんなはずはない。あの時間、俺は確かに裏庭にいて──。
その瞬間だった。
背筋をなぞるような、ひんやりとした声が降ってきた。
「──おはよう、カベくん。イシミネくんも」
びくりと肩を揺らして振り向く。そこには、昨日と同じ“あの人”がいた。
スメラギ先生。
だらしない寝癖に、地味なスーツ。
教室では気弱そうで、どこか頼りない、いつもの彼。
──だが、違っていた。瞳の奥だけが、明らかに“違った”。
「……せ、先生……」
レンの喉が詰まる。視線が外せなかった。
スメラギは何も言わず、ふっと柔らかく微笑んだ。
まるで「昨日のことは忘れてしまえ」とでも言うかのように。
「今日も、いい天気だね」
その言葉とともに、時間がまるで“なかったこと”のように流れていく──。
⸻
放課後の校庭は、部活動に励む運動部の声が響いていた。
スメラギの要領を得ない説明で長引いたホームルームも終わり、彼が教室を出ていく背中を、レンは無意識に目で追っていた。
丸まった背中、だるそうな姿勢。曖昧な返事に、冴えない態度。
だがもう、レンにはすべてが“かりそめの姿”に見えていた。
(あれは、仮面だ)
レンは、知ってしまった。彼の本当の顔を。
冷たく、他人を寄せ付けない、憂いを帯びた彼の。
だから──黙ってなんていられなかった。
椅子を引いて立ち上がる。
教室の扉から見えなくなる直前、レンは叫んだ。
「スメラギ先生、ちょっと話があります!」
振り返ったスメラギの顔に、一瞬だけ、驚きの色が走った。
その表情を見て、レンは確信する。
──この人は、まだ、何かを隠している。
⸻
東校舎の角にある歴史資料室は、ほとんど使われていなかった。
古ぼけた資料はどれも埃をかぶり、室内には埃と古い紙の匂いがこもっている。
レンは少し鼻が痒くなった。
長く伸びる影。放課後の静けさの中、人気のない場所。
レンがスメラギを強引に連れてきたのは、そんな場所だった。
腕を組み、いつもの無表情で立つスメラギが言う。
「……ここで話すことじゃないだろう?」
けれど、その声にはわずかな硬さがあり、目元には警戒の色が浮かんでいた。
「じゃあ、どこでならいいんですか。……昨日のこと、ちゃんと話してください」
レンは一歩踏み出し、真正面からその瞳を見つめる。
「“昨日の、こと”……?」
冷静を装いながらも、苛立ちが滲むような口調。
レンは迷わず、声を震わせて言った。
「しらばっくれないでください! 裏庭でヒウラと会って……化け物に襲われて……先生が来て、氷でそいつを倒した! それだけじゃない、調査だとか、魔獣だとか、指輪とか──!」
胸の奥で膨らみ続けていた想いが、言葉となって溢れ出す。
気がつけば呼吸は乱れ、息苦しかった。
「……俺、見たんです。はっきりと。現実だったことも、先生が“普通の人”じゃないってことも。……知らなかったことには、もうできません」
風が窓をかすめ、校舎の壁が軋む音が聞こえる。
沈黙。長いようで短いそれは、時間の感覚を麻痺させていく。
スメラギはゆっくりとレンを見つめた。
その瞳は冷たく、感情を映さない。けれど──どこかに、迷いや諦めの色があった。
やがて、彼は深く息を吐いた。
「……お前は、本当に厄介な奴だ。普通なら見なかったことにして、黙って日常に戻ろうとするものだ」
「俺は、もう“普通”には戻れません。……昨日、あんなもんを見せられて、“なかったこと”なんてできない」
「……せっかく忘れるチャンスというのに?」
その言葉に、レンの瞳が鋭さを増す。
「先生は、忘れさせたいんですか? なかったことにしてほしいんですか?」
沈黙。スメラギの瞳が細められる。
「……そうか。よくわかった。ならば──代償を払ってもらう」
「……代償?」
言葉が口をついて出た瞬間。
スメラギが、静かに右手を振った。ごく小さな動きだった。
しかし──空気が変わった。
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