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第二章 火を見るよりあきらか
13 君の“自由”は君が決めること
しおりを挟む場の空気は、まだどこかざわめきを残していた。重くも、静かでもない。不安定に揺れるような緊張が、古びた研究室の壁際にまで染みついている。
そんな中、アクタビは深々と椅子にもたれかかり、足を組んだ。その口元に浮かんだのは、どこか挑発的な、意味深な笑みだった。
「――さて。そもそもの話をしようかね」
乾いた声が、薄暗い室内に軽やかに響く。まるでこの空間だけが時の流れを逆行させるように、不釣り合いなほど明るく、無邪気な響きを帯びていた。
「イシミネ・レン。君が、どうして“ここ”にいるのか――その理由について、さ」
言葉が落ちた瞬間、レンとカナメが小さく息を呑んだ。
一方で、スメラギはまるで関係のない世界にいるかのように、静かに書類に手を伸ばしている。俯いた横顔には感情の影一つなく、話の内容がまるで耳に届いていないかのようだった。
アクタビはくすりと笑い、肩をすくめると、舞台役者のように両手を広げて芝居がかった調子で続けた。
「昨日のことさ。新芽くん、君は子猫ちゃん――ヒウラ・カナメと一緒に“大社跡”の調査に行ったろ?」
「うん……」
レンは反射的に頷いたものの、何を問われるのかが掴めず、戸惑いを隠せない。
「そのとき、魔獣“カサリビ”が現れた。下位種ではあるが、なかなかに厄介なやつだ。しかもタイミングが悪かった。魔獣は、逃げ惑うか弱くて未熟な候補生を追い回す。そこで子猫ちゃんが足を滑らせて倒れた。魔獣はこれ幸いとその一瞬を狙うように――」
カナメが肩をすぼめ、頬を赤らめながら、そっと視線を逸らす。
「本来なら、素人が動けるような状況じゃない。逃げることすらできないだろう。だが、君は――イシミネ・レンは、ためらいもなく飛び出した。そして彼女を庇った。…で、そのとき見せたんだよ、“光の盾”を。しかも、無詠唱で、ね」
室内が一瞬、凍りついたように静まりかえる。
レン自身も信じられないというように肩をすくめ、口を開きかけたが、言葉にならなかった。
「詠唱構文の指導も訓練も受けていない。生まれてこのかた、まともな魔法教育など受けたこともないただの少年が、魔素を制御し、しかも防御系の術式を即座に展開したんだ。――呪文ひとつすら、なしに」
「……やっぱり、あれ……でも、そんなの……ありえないよ……」
カナメがぽつりと呟いた。
その言葉には驚きと、言い知れぬ不安、そして――ほんの僅かな恐れがにじんでいた。
「ありえないさ。理論の上ではね。でも、現実に起こった。イシミネ・レンが魔獣を退け、仲間の命を救った――それだけは、紛れもない真実だ」
アクタビの声音が、ふっと落ち着く。
冗談めいた調子を脱ぎ捨て、冷静な研究者としての面が、そこに垣間見える。
「……本来なら、そういう子は“保護対象”として扱われる。この“イシュ・アルマ”の地下深くへ連れて行かれ、徹底的に観察される。意思も自由もない、“安全管理下”で、ね。あたたかいベッドに三食付き……なんて愉快で快適な監禁生活!!!」
アクタビが大げさに両手を広げて語る。部屋を響かせた笑い声は下品極まりない。
レンの表情が強張った。
言葉で説明されるまでもなく、本能的に“それ”が意味するものを察していた。何かが失われるという、確かな予感が胸を締めつける。
「けど、そうはならなかった。それはな、アイツ――スメラギが、全力で止めたからだよ」
アクタビが流し目で指し示した。
その瞬間、部屋の隅からわざとらしい咳払いが響いた。
書類のページをめくる手が、わずかに止まる。レンとカナメも思わず視線を向けるが、当の本人――スメラギはまったく顔を上げようとはしなかった。
アクタビは愉快そうに笑い、首を傾げる。
「……あー、そこは触れちゃダメだったか。お前がどんな顔で、“俺の管理下に置く”って言ったか、坊やには内緒にしておきたいわけね?」
にやにやと唇を歪め、ふざけた視線でスメラギを覗き込む。
「ま、愛だよねぇ。うん。これも、れっきとした愛。なぁ?」
あくまで茶化しているのは明らかだった。
だがレンは真っ赤になって目を伏せ、カナメはこめかみを押さえて小さく呻いた。
そして、当のスメラギはというと――
一切の反応を見せることなく、淡々と次の書類へと手を伸ばしていた。
───
「そういうわけで、君は今日付で“退魔師候補生”として、スメラギの監督下に置かれるわけさ」
スメラギの戸棚を勝手に漁って注いだ紅茶をいっぺんに飲み干すと、そのカップをくるくると回しながら、アクタビが飄々と言った。
その口ぶりは軽いが、眼差しには鋭い知性と、皮肉を帯びた真意が潜んでいる。
レンは唇を開いたが、言葉が出てこなかった。
「……でも、俺……いきなりそんなこと言われても……何も、わかんないし……」
その声はひどく小さく、頼りなかった。
自分の胸の内を手探りするような、戸惑いの色が滲んでいた。
アクタビはわざとらしく肩をすくめ、面白そうに笑った。
「もちろん、拒否してもいいさ? “スメラギの無償の愛”がお気に召さないなら、ね」
その言葉には、明らかな毒が含まれていた。
「拒否すれば――君は、イシュ・アルマの玩具だ。あったかい布団、三食昼寝付き、快適なモルモット生活が待ってるってわけだ!」
茶化したような口調の奥に、現実の重さが滲む。
「いいぜぇ、何にも考えず何にもせず、ただ只管になすがままされるがままの生活ってのもさ!!」
レンの目が、わずかに揺れる。
頭に浮かんだのは、鉄格子に囲まれた無機質な部屋。無表情な白衣の人々の手。
ただの想像にすぎないはずなのに――なぜか、あまりにも生々しく思い描けてしまった。
ガタン、と音がして空気が変わった。
スメラギが手元の書類を机に叩きつけるように置き、アクタビを鋭く睨んでいた。
その眼差しは氷のように冷たく、室温すら下げてしまいそうな圧を帯びていた。
だがアクタビは悪びれた様子もなく、どこか愉しげに肩をすくめて言った。
「おー、涼しくなった! さすが“氷使い”。隣にいると快適だねぇ」
冗談めかして体を抱きすくめた後、アクタビの声がふっと静かになる。
その言葉の奥に、わずかながら誠実さが混じっていた。
「君の“自由”は、君が決めることだ。……何を“自由”と呼ぶかは、君次第だけどね。」
一瞬、深い沈黙が訪れる。
アクタビの言葉が、まるで余韻のように研究室の空間を満たしていく。
誰も、すぐには続きを口にすることができなかった。
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