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第二章 火を見るよりあきらか
14 芽吹き
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レンは黙したまま、足元の床をじっと見つめていた。
胸の奥で、きしむような音がしていた。耳には届かぬはずのその音が、けれど確かに、心のどこかを引っかき、掻きむしる。ひどく不穏で、どこか懐かしい――そんな痛みだった。
ほんの少し前まで、彼はただの高校生にすぎなかった。
朝、制服に袖を通し、眠気の残るまま登校し、授業を受け、夕暮れとともに帰宅して、家族と食卓を囲み、やがて眠る。そんな平凡で、穏やかで、確かな日常が――今では、まるで遠い昔に見た夢のように感じられた。
幼馴染のカベと、意味もなく笑い合いながらくだらない話をした放課後。
なにも知らず、なにも背負わずに済んでいた、曇りひとつない時間。無意識のうちに守られていた日々。それらすべてが、もう二度と戻らないのだという現実が、心に重たくのしかかってくる。
けれど今――世界は音を立てて変わり始めていた。
かつて知ることのなかった領域が眼前に広がり、彼の内側の“何か”が、それを受け入れるように、ざわめきを増していた。
「……俺は――」
その一言が形になろうとした、その瞬間。
ずきん、と鋭い痛みがこめかみを貫いた。
思わず頭を押さえた刹那、視界がぐるりと裏返るように反転し、足元の重力が崩れる。身体がふわりと浮き上がり、空間がゆっくりと歪みはじめた。
――まばゆい光。
――頬をなでる、春風のような温もり。
――遠く、遠くから届く、誰かの声。
『……会いに行くよ。何度、星を巡ろうとも。千の夜を越えてでも、必ず』
その声は、言葉よりも心に先に届いた。
名前も、顔も、思い出せない。けれど、確かに知っていた。懐かしく、切なく、あたたかな“誰か”の声だった。
光の中、誰かが寂しげに微笑む唇だけが、ぽつんと浮かび上がった。
手を伸ばしたい。呼びかけたい。触れたい。けれど、喉がひどく重く、声が出ない。指先も、まるで水の中にあるように思うように動かない。
それが記憶なのか、幻想なのか。
答えはなく、ただ胸の奥だけが震えていた。
「……イシミネ?」
現実に引き戻したのは、そっと肩に触れる小さな手だった。
カナメが、不安げな瞳で彼を見つめている。ようやくその輪郭に焦点が合い、現実が輪郭を取り戻しはじめた。
レンは何かを言おうと唇を動かすが、言葉が喉の奥で絡まり、うまく出てこなかった。
けれど、確かに感じていた。胸の奥に、名前もない“何か”が芽吹きはじめているのを。
──
しばらくの沈黙ののち、レンは静かに目を伏せた。
心の中をかき乱すような感情が、嵐のように渦巻いている。
けれど、それらは言葉にならず、ただ彼の中で脈打っていた。
“選ばれる”ということが、これほどまでに重く、息苦しく、そして曖昧なものだとは思わなかった。
自分に何ができるのか。何をすべきなのか。――いや、そもそも自分は、本当に“普通”の人間だったのかさえ、わからなくなっていた。
この手に宿った光は何なのか。
どこから来て、どこへ導こうとしているのか。
答えは、どこにもなかった。
けれど、忘れられない瞬間がある。
あの薄暗い森の廃れた大社跡で。
カナメが転び、危機にさらされたあの一瞬。
無意識に体が動いた。守らなければと叫ぶように。
そして彼の手が描いたのは、光の盾――確かにそこに在った“力”だった。
もし、あれがただの偶然ではなかったのなら。
もし、あのとき自分の中に“本当の何か”が目覚めていたのなら。
レンはゆっくりと顔を上げた。
その鳶色の瞳には、もはや揺らぎがなかった。
迷いではなく、“越えた”という確信がそこにあった。ほんのわずかでも、彼は何かを超えていた。
その変化は、ごく僅かなものだった。
けれど、それを見逃す者は、部屋の中に一人としていなかった。
カナメは目を見開き、思わず口元を押さえる。
レンの中に、確かな“芯”が芽吹いたことを感じ取っていた。
それはまるで、春の訪れを告げる光の芽吹きを見るかのようだった。
一方、アクタビは口角を吊り上げ、にやりと笑った。
瞳に宿る色は観察者のもの。獣のように鋭く、学者のように冷静な光。
何も知らぬ少年が、自ら“世界の裏側”の扉を開いた――その事実に、彼女は深い興味を抱いていた。
「ほぉ……」
その低く漏らした声は、好奇と驚嘆の入り混じった響きを持っていた。
レンは小さく、しかしはっきりと頷いた。
「俺……やる。退魔師候補生になる」
その言葉は決して大きな声ではなかった。
だが、芯のある声だった。揺るがぬ意志のこもった、真っ直ぐな宣言だった。
それは、ひとりの少年が“普通”という名の殻を脱ぎ捨て、運命に足を踏み出した瞬間だった。
カナメは小さく息を吐き、ふっと安堵の笑みを浮かべた。
「……よかった」
アクタビは大袈裟に手を打ち鳴らし、からかうように言った。
「歓迎するよ、新芽くん。……まあ、死なない程度に頑張ってねぇ?」
口調は相変わらずの皮肉混じりだったが、その奥には、ごく微かな労わりの色が滲んでいた。
――そして。
部屋の片隅、窓辺に佇む一人の男だけが、その喧騒に加わることなく、静かに外を見つめていた。
——スメラギ。
この場において、レンの決意にもっとも深く関わる存在。
その横顔には、どこか遠くを見つめるような影が落ちていた。
今この場で生まれた小さな希望。けれど彼の視線は、それを祝福するにはあまりにも静かで、あまりにも寂しげだった。
その胸の内に去来している思いを、今、誰も知ることはできない。
――この選択の意味を知るのは、きっと、もっとずっと先のことになるのだ。
胸の奥で、きしむような音がしていた。耳には届かぬはずのその音が、けれど確かに、心のどこかを引っかき、掻きむしる。ひどく不穏で、どこか懐かしい――そんな痛みだった。
ほんの少し前まで、彼はただの高校生にすぎなかった。
朝、制服に袖を通し、眠気の残るまま登校し、授業を受け、夕暮れとともに帰宅して、家族と食卓を囲み、やがて眠る。そんな平凡で、穏やかで、確かな日常が――今では、まるで遠い昔に見た夢のように感じられた。
幼馴染のカベと、意味もなく笑い合いながらくだらない話をした放課後。
なにも知らず、なにも背負わずに済んでいた、曇りひとつない時間。無意識のうちに守られていた日々。それらすべてが、もう二度と戻らないのだという現実が、心に重たくのしかかってくる。
けれど今――世界は音を立てて変わり始めていた。
かつて知ることのなかった領域が眼前に広がり、彼の内側の“何か”が、それを受け入れるように、ざわめきを増していた。
「……俺は――」
その一言が形になろうとした、その瞬間。
ずきん、と鋭い痛みがこめかみを貫いた。
思わず頭を押さえた刹那、視界がぐるりと裏返るように反転し、足元の重力が崩れる。身体がふわりと浮き上がり、空間がゆっくりと歪みはじめた。
――まばゆい光。
――頬をなでる、春風のような温もり。
――遠く、遠くから届く、誰かの声。
『……会いに行くよ。何度、星を巡ろうとも。千の夜を越えてでも、必ず』
その声は、言葉よりも心に先に届いた。
名前も、顔も、思い出せない。けれど、確かに知っていた。懐かしく、切なく、あたたかな“誰か”の声だった。
光の中、誰かが寂しげに微笑む唇だけが、ぽつんと浮かび上がった。
手を伸ばしたい。呼びかけたい。触れたい。けれど、喉がひどく重く、声が出ない。指先も、まるで水の中にあるように思うように動かない。
それが記憶なのか、幻想なのか。
答えはなく、ただ胸の奥だけが震えていた。
「……イシミネ?」
現実に引き戻したのは、そっと肩に触れる小さな手だった。
カナメが、不安げな瞳で彼を見つめている。ようやくその輪郭に焦点が合い、現実が輪郭を取り戻しはじめた。
レンは何かを言おうと唇を動かすが、言葉が喉の奥で絡まり、うまく出てこなかった。
けれど、確かに感じていた。胸の奥に、名前もない“何か”が芽吹きはじめているのを。
──
しばらくの沈黙ののち、レンは静かに目を伏せた。
心の中をかき乱すような感情が、嵐のように渦巻いている。
けれど、それらは言葉にならず、ただ彼の中で脈打っていた。
“選ばれる”ということが、これほどまでに重く、息苦しく、そして曖昧なものだとは思わなかった。
自分に何ができるのか。何をすべきなのか。――いや、そもそも自分は、本当に“普通”の人間だったのかさえ、わからなくなっていた。
この手に宿った光は何なのか。
どこから来て、どこへ導こうとしているのか。
答えは、どこにもなかった。
けれど、忘れられない瞬間がある。
あの薄暗い森の廃れた大社跡で。
カナメが転び、危機にさらされたあの一瞬。
無意識に体が動いた。守らなければと叫ぶように。
そして彼の手が描いたのは、光の盾――確かにそこに在った“力”だった。
もし、あれがただの偶然ではなかったのなら。
もし、あのとき自分の中に“本当の何か”が目覚めていたのなら。
レンはゆっくりと顔を上げた。
その鳶色の瞳には、もはや揺らぎがなかった。
迷いではなく、“越えた”という確信がそこにあった。ほんのわずかでも、彼は何かを超えていた。
その変化は、ごく僅かなものだった。
けれど、それを見逃す者は、部屋の中に一人としていなかった。
カナメは目を見開き、思わず口元を押さえる。
レンの中に、確かな“芯”が芽吹いたことを感じ取っていた。
それはまるで、春の訪れを告げる光の芽吹きを見るかのようだった。
一方、アクタビは口角を吊り上げ、にやりと笑った。
瞳に宿る色は観察者のもの。獣のように鋭く、学者のように冷静な光。
何も知らぬ少年が、自ら“世界の裏側”の扉を開いた――その事実に、彼女は深い興味を抱いていた。
「ほぉ……」
その低く漏らした声は、好奇と驚嘆の入り混じった響きを持っていた。
レンは小さく、しかしはっきりと頷いた。
「俺……やる。退魔師候補生になる」
その言葉は決して大きな声ではなかった。
だが、芯のある声だった。揺るがぬ意志のこもった、真っ直ぐな宣言だった。
それは、ひとりの少年が“普通”という名の殻を脱ぎ捨て、運命に足を踏み出した瞬間だった。
カナメは小さく息を吐き、ふっと安堵の笑みを浮かべた。
「……よかった」
アクタビは大袈裟に手を打ち鳴らし、からかうように言った。
「歓迎するよ、新芽くん。……まあ、死なない程度に頑張ってねぇ?」
口調は相変わらずの皮肉混じりだったが、その奥には、ごく微かな労わりの色が滲んでいた。
――そして。
部屋の片隅、窓辺に佇む一人の男だけが、その喧騒に加わることなく、静かに外を見つめていた。
——スメラギ。
この場において、レンの決意にもっとも深く関わる存在。
その横顔には、どこか遠くを見つめるような影が落ちていた。
今この場で生まれた小さな希望。けれど彼の視線は、それを祝福するにはあまりにも静かで、あまりにも寂しげだった。
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――この選択の意味を知るのは、きっと、もっとずっと先のことになるのだ。
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