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第二章 火を見るよりあきらか
15 いつもの
しおりを挟む静寂が、部屋を包み込んでいた。
誰も声を発さず、空気は研ぎ澄まされたように張り詰めている。
そんな中で唯一響いたのは、羊皮紙が擦れる乾いた音。静かに書類を整理する手元から、淡く紙の匂いが立ちのぼる。
やがて、沈黙を割るように、スメラギが口を開いた。
その声は静かで、しかし迷いなく、研ぎ澄まされた刃のような明晰さを含んでいた。
「――では、詳細は追って通達を出す。早急に必要なものは、ここに記しておいた」
彼が差し出したのは、一枚の簡素なメモだった。
飾り気のない紙片だが、その表面には、整然とした文字でびっしりとリストが並んでいる。筆致は几帳面で、ひとつひとつが計算されたような正確さを宿していた。
制服のサイズ調整をはじめ、個人の魔素特性に応じてチューニングされた魔導具、護身のための呪符、さらに緊急時の投与が想定された複数種の薬剤の処方リスト――。
そのどれもが、戦場に立つ者として最低限の備えであり、かつ、一人の命を守るために必要不可欠なものであることが、記された文面からひしひしと伝わってくる。
記載は理路整然と、無駄なく。けれど、そこには冷淡さではなく、静かな責任感と、先んじてあらゆるリスクを想定する者の視線があった。
血液型に応じた蘇生薬の記載に至っては、それが万一の事態さえも想定している証左だった。
この場所に足を踏み入れることが、どういう意味を持つのか――スメラギは、言葉ではなく、こうして“準備”で教えようとしていたのかもしれない。
そして、最後に記された一行。
それは他の項目とは異なる、ひときわ静かで重い響きを宿していた。
――エーテル・バインダー。
括弧の中に、こう添えられている。
(封結環)
その名は、ただの装飾でも、ただの道具でもないことを示していた。
魔導士の素養を持つ者にとって、これは魔素の律動を束ねる“媒介”であり、術式との契約を刻む“誓約”であり――そして、時に魂を繋ぐ“絆”ともなり得る特別な装具だ。
指輪の素材には、微細な魔鉱が用いられ、内側には持ち主の魔素に反応して変化する術式が仕込まれている。
一見すればただの銀の細環。しかし、それは選ばれた者にしか扱えない、“境界を越える鍵”でもあった。
レンがこの指輪を手にすることは、すなわちこの世界の理の一端に触れることを意味する。
――人の理《ことわり》を離れ、異なる法に歩み寄る覚悟を問うものであり、同時に、誰かに守られるだけではない、自分の命を己で守るという、最初の誓いでもある。
淡く光を宿したその名を、レンはこのときまだ深く知らない。
だが、スメラギが最後に記した“それ”だけが、他のどの項目よりもわずかに筆跡が濃かったことに、レンは不思議と気づいていた。
「正式に編入するまで一週間。その間に、すべて揃えておきなさい」
「……ありがとう、ございます。あの、先生……」
レンはメモを受け取り、そっと目を落とした。
そこに書かれた現実のひとつひとつが、じわじわと彼の胸に重みを持ってのしかかってくる。
これから自分が進む道が、どれだけ未知で、どれだけ過酷なのか。
まだ実感は輪郭を持たない。
それでも――確かに、何かが変わったのだ。
だからこそ、彼はおずおずと顔を上げ、迷いの残る眼差しでスメラギを見つめた。
言葉にはできない想いが、その瞳に宿っていた。
その問いかけを察したように、スメラギは淡く首を傾け、言葉を紡ぐ。
「……高校を辞める必要はない。あの学校はイシュ・アルマの系統だからな。魔法を知らない一般の生徒ばかりだが……魔導士の卵や候補生も、少なからず在籍している」
「そう……だったんですか」
思いがけない答えに、レンは軽く目を見開いた。
知っていたはずの“日常”が、今になって別の色を帯びて見える。
これまでの平凡な日々――それが、非凡と背中合わせだったという事実に、改めて気づかされる。
そしてスメラギは視線を移し、今度はカナメへと目を向けた。
「……用品の店はヒウラに聞くといい。ヒウラ、頼まれてくれるな?」
「やだって言っても、やらなきゃですよね? ……んもう、今度ロドキン・ジェリーのパンケーキ、奢ってくださいね!」
ぷくりと頬を膨らませるカナメ。ふてくされたようで、どこか楽しそうなその表情に、張りつめていた空気が、ほんの少し和らいだ。
それを見て、スメラギは小さく息を吐いた。
「ふふ、善処する」
ほんのわずか――だが、たしかにそこには、やわらかな笑みが浮かんでいた。
氷のように無表情だったその男の口元が、かすかに緩んでいる。
その“ぬくもり”に、レンは不思議と胸を撫で下ろした。
隣で見ていたカナメは、まるで信じられないというように目を丸くし、口元を手で押さえる。
「今、笑いましたよね!? 先生、今、笑いましたよね!!?」
「……そう騒ぐほどのことではない」
どこか照れを隠すように、淡々とした口調で言い捨てると、スメラギはわざとらしく視線を逸らした。
けれどその背中は――ほんの少しだけ、軽くなったように見えた。
しばらくの間、研究室には穏やかな空気が漂っていた。
張りつめていた緊張が解け、ぬるま湯のような静けさが部屋を満たしてゆく。
その和やかさを破ったのは、やはり彼女だった。
「んじゃあ、アタシはこれで」
アクタビが腰を伸ばして立ち上がる。
いつの間にか椅子の背もたれに寄りかかっていた彼女は、伸びをしながら軽やかに手を振った。
「伝達係も楽じゃあないねぇ。誰かさんが口下手なおかげでさ?」
誰のことかは言わずとも、誰のことかは明白だった。
けれど、スメラギは何の反応も示さない。ただ黙々と手元の書類を整えるばかり。
アクタビは悪戯っぽく笑いながら、ドアノブに手をかけた――が、その動きがふと止まる。
思い出したように、わずかに声の調子を変えた。
「……ああ、そうだ。スメラギ。いつもの、だ。分かってるな?」
それは、先ほどまでの軽快さとは違う、低く静かな声音だった。
笑いを含まず、けれど真剣さを露骨に見せるでもない、絶妙な“間”がそこにある。
スメラギは顔を上げず、ただ一瞬、まぶたを伏せる。
「……」
無言のまま。けれど、それが彼なりの肯定の印だった。
アクタビはそれで充分とばかりに、小さく肩をすくめて笑った。
「まーいいや」
また元の調子に戻った声で、ひらひらと手を振る。
「ソレじゃあねぇ、新芽くんと、子猫ちゃん」
言い捨てるように軽口を飛ばし、アクタビは研究室をあとにする。
ドアが静かに閉まり、再び部屋に静寂が戻った。
レンは、その背中を黙って見送っていた。
しかし、その最後のやり取りに、胸のどこかに微かなざわめきを覚える。
“いつもの”
それが何を意味するのか――
このときの彼には、まだ知る由もなかった。
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