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第二章 火を見るよりあきらか
17 世界の広さ、世界の深さ
しおりを挟む「イシミネ……? おーい、イシミネ!!」
カナメの声が耳元で弾けた瞬間、レンは心臓が跳ねるような感覚に包まれて、我に返った。思わず肩をすくめ、ぱっと顔を上げる。
「へぁ!? ご、ごめん、ぼーっとしてた!」
笑ってごまかす声が、どこか裏返っていた。自分でもわかるほど。
だが無理もない。彼の視線は――教壇の上に立つ、スメラギに奪われていたのだ。
凛とした美しさを兼ね備えたその姿は、静かに講義を進めながら、どこか現実から乖離して見える。
その手にチョークはない。代わりに、宙に浮いた白墨がひとりでに動き、黒板の上を舞うように滑っていた。誰の手にも触れられていないはずなのに、筆記具は明確な意志を持っているかのように止まることなく走る。
緻密な魔術陣と数式が、黒板に淡く発光しながら浮かび上がる様は、まるで魔導機構そのものだった。
まるで「知識そのもの」が、彼の意思に従って空間に書き記されていくようだった。
(やっぱ、すげぇ……)
そう思いながらも、レンはその光景に何か――得体の知れない、底の知れない「異質さ」も感じていた。
スメラギの姿はたしかに荘厳で、整然としていて、完璧だ。けれどその奥には、触れてはいけない何かが確かに在る気がした。
凍てつくような沈黙。張りつめた糸のような集中。声にできない、言葉の層の深み。
「……何言ってんの、次いくよ、つーぎ!」
カナメが明るい声で空気を引き戻す。レンは「うん」と頷いたが、胸の内に残ったざわつきは、まだ消えていなかった。
⸻
次に二人は、研究棟へと向かった。
その建物は、魔術理論学部の最深部――術式開発や魂魄干渉理論など、高度に専門的な研究が行われる場所だ。外見こそ重厚な石造りだが、中に一歩入ると、空気がまるで異なる。
薬草を乾燥させたような清涼な香りが、鼻腔をくすぐる。ミント、セージ、ラベンダー……さまざまな香気が混ざり合い、心地よい酩酊感を誘う。だが、どこか焦げ臭い匂いも紛れていた。
小さな爆発音が、遠くからくぐもって響く。
――ボン、と柔らかな音がしたかと思えば、次には甲高い笑い声。
「キッキャー!」「また失敗だってぇ~!」
レンが反射的に身構えると、カナメは肩をすくめて笑う。
「大丈夫。あれ、妖精たち。研究の補助してるんだけど、たまに遊びすぎるの」
「研究棟、って……もっと静かで真面目な感じかと思ってた」
「静かだよ? ……ただ、学術都市の“静か”って、人間の感覚とは違うんだよね」
カナメはそう言いながら、魔素で封じられた鉄扉を軽く叩き、次の部屋――魔導図書館の重厚な扉を開いた。
⸻
魔導図書館――そこは、まるで異国の古都の大聖堂を思わせる空間だった。
高くそびえるアーチ型の天井。彩色ガラスに描かれた魔獣たちの紋章。数百年を経たであろう柱と壁は、魔素の粒を含んだ光に淡く照らされ、空気そのものが金色に揺らいでいる。
棚には無数の魔導書が並び、一部は宙に浮いて勝手に飛び回っていた。時折、ページがぱらぱらと音を立てては、目的の棚へと舞い戻っていく。中には迷子になって別の棚に入ろうとする本もあり、見かねた司書がそれを光の紐でそっと引き戻す。
その司書の隣で、忙しなく飛び跳ねていたのは――小さな妖精のような存在だった。
耳は長く、尾はふさふさしていて、身体の動きは素早い。ウサギ、狐、イタチを掛け合わせたような獣の姿。
胸元には大きなガーネットの宝石がぶらさがっており、動くたびに光を反射して煌めいていた。
「……あれ、カーバンクル?」
レンが目を丸くして問うと、カナメは頷いた。
「うん。司書の補助役。あの宝石で魔導書の識別してるんだって。頭いいよ、すごく」
「カーバンクルって……ほんとにいたんだ……ゲームだけかと思ってた」
カーバンクルはぽかんとしているレンに気づいて、短い前足で軽く挨拶のように手を振る。どこかプライド高そうな仕草だった。
レンは思わず笑いながらも、ふと一冊の本に目を奪われた。
深緑色の革表紙に、古代言語で刻まれたタイトル――『千眼の蛇と七十二の封印式』。
「お、これすごそう……!」
思わず手を伸ばしかけたその瞬間――
「ストップ!」
カナメが素早くその手を引き戻した。
「それ、開けたら噛みつかれるよ。見た目に騙されないほうがいい」
「噛むの!?」
「牙は本物。噛まれても自己治癒するけど、けっこう痛いよ」
レンは肝を冷やしながら本から一歩退いた。すると、棚の上でふわふわ浮いていた別の本がくすくすと笑ったようにページを揺らす。
「……ぜってぇ、この図書館、普通じゃねぇ……」
「普通だよ?だって本が大人しいもん。普通じゃない図書館は、本達が竜巻みたいになってるんだから。ここは、“知の深淵”に足を踏み入れる場所。ここの蔵書はそのプライドがあるの」
カナメが微笑む。レンの胸には、またひとつ、世界の広さと深さが刻まれていくのだった。
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