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第二章 火を見るよりあきらか
18 彼は猫舌
しおりを挟む次に案内されたのは、中央食堂だった。
一歩足を踏み入れた瞬間、イシュ・アルマの荘厳さとはまた別の、異世界のようだった。
天井から吊るされた鮮やかな布飾りと、壁一面を覆う幾何文様のタイル。香辛料と甘い香りが入り混じり、鼻をくすぐる。どこか異国を思わせる空間で、遠くで響く撥弦楽器の音が空気を震わせていた。
厨房の奥では、猫の妖精《ニャル》たちが、しなやかな身のこなしで鍋の中を覗き込んだり、皿の上に香草をちょこんと添えたりと、忙しげに動き回っている。その傍らでは、キノコの妖精《キノッペ》たちが、プルプルした丸い体を小刻みに揺らしながら、蒸気の立ち昇るセイロの管理をしていた。どちらも小さな存在ながら、この食堂には欠かせない調理スタッフだ。
だが一つ、注意すべきなのは彼らの“機嫌”だった。もし失礼な態度を取れば、スープに猫の毛が浮かんでいたり、サラダに笑い茸が紛れ込んでいたりすることがあるという……。あまりの評判に、学生たちは「妖精さんに感謝を忘れずに」が合言葉になっているほどだった。
ビュッフェ形式の料理台には、色とりどりの品々が並んでいる。
発酵香が漂うもちもちの平麺、焼いた魔魚に甘辛い餡をかけた料理、黄色く炊かれた香草飯に、ハーブ入りの卵料理。透明な果実のゼリーや、香料をまとった温かい豆乳のデザートまである。
生徒たちは思い思いの皿を手に料理を選び、円卓を囲んで楽しげに談笑していた。教授らしき人物もちらほらおり、重厚な魔術服の裾をたくしあげながらスープをすすっている。
レンは涎を飲み込んだ。そういえば今朝は、緊張で何も食べられなかった。嗅覚をくすぐる香りが、空腹を思い出させる。食堂の料理はどれも初めて見るものばかりだったが、利用客たちが一心不乱に頬張る姿は、どう見ても毒ではなかった。
「そろそろお昼だし……少し早いけど食べていこうか」
カナメがそう言って、列に並びかける。
「やったー!!俺もうお腹ぺこぺこ!!」
レンが元気よく返したそのときだった。
背後から静かな、まるで夜の静寂のような落ち着いた声が通り過ぎた。
「そうか、今日からだったな」
黒のクロークコートをゆるやかに揺らしながら、スメラギが横を通り過ぎる。
冷たい光沢を帯びた黒髪がふわりと流れた。どうやら、飲み物を取りに来たようだ。
「あのっ、先生……この間のアフヌンなんですけど……」
思い出したように、カナメが声をかけた。少し俯き、頬に赤みをさしながら。
スメラギは足を止め、振り返る。その口元に、わずかに微笑と呼べるものが浮かんだ。
「……気にするな。お前には無理を言っている自覚はある」
「そんな、無理なんてないです!」
カナメはぱっと顔を上げ、嬉しそうに答える。
その様子を見ていたレンは、胸の奥がじわりと重くなる。
(ん?なんだこれ……)
嫉妬とは違う。でも、自分も同じくらい、あの人に何か言ってほしい、そんな気持ちが込み上げる。
気づけば口が勝手に動いていた。
「……せんせ、いっしょに……たべませんか?」
一瞬、自分でも驚くほどの勇気だった。なぜそれを言うのにこんなに緊張するのかはわからない。けれど、言わずにはいられなかった。
そのせいで、ろくに舌が回ってなかった。最後なんて、噛んだ気もする。
スメラギは静かに瞬きをし、顎に指を添えて少し考え込むような素振りを見せる。
そして、何も言わずにその場を離れていった。
「……あっ」
レンの肩が、ほんの少し落ちる。
断られたわけじゃない。でも、たぶん駄目だったのだろう。そんな予感が、胸の奥を冷たく撫でた。
だが――
「……」
わずか数分後、再びその姿は戻ってきた。手には翡翠色のカップが乗った小皿。
カップの中では、光に透けるような淡い液体が星屑のようにまたたいていた。
《星灯露(せいとうろ)》――
高山に咲く夜光花《ヨルカ》から抽出した雫を発酵させた、希少な飲み物。
薄い翡翠色に、ほのかに星が浮かぶような微光が揺れ、金属のような冷たさと、喉を通るときにだけ現れる温かさが特徴だ。
スメラギが「好き」と明言したことはない。けれど、彼がよく手にしているのは、決まってこの飲み物だった。
ぬるめにしてあるのは、彼が猫舌だから――それを知っている者は少ない。
「……えっ、先生……?」
レンが目を丸くする。
そのまま何の迷いもなく、スメラギはレンの隣に腰を下ろした。
そんなスメラギを見て、向かいに座っていたカナメも箸を持ったまま固まっていた。
「……いけなかったか?」
自然体の問いに、レンは思わず声を裏返らせた。
「ぜぜん……ど、どぞうっ!!」
変な敬語が飛び出して、自分で恥ずかしくなる。けれど、スメラギは気にする様子もなく《星灯露》の香気を静かに吸い込み、目を伏せる。
それだけで、周囲のざわめきが不思議と遠ざかった気がした。
香辛料の香り、妖精たちの軽快な動き、皿の上の湯気――
そのすべてが、静かに背景へと溶けていく。
そんなちょっとドキドキした、昼のひとときだった。
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