星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第三章 夜帳のきざし

25 試練の使い

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 朝の光がやわらかく差し込む、イシュ・アルマの研究棟。
 講義のない日、退魔理論研究室には、レンとカナメ、そしていつも通り静かなスメラギの姿があった。

 窓辺に置かれた観葉植物が朝露を帯び、陽光に淡く透けている。
 広々とした空間には、魔術書や研究資料、魔素石や試作装具が無造作に散らばり、長い机の上には、ふたりに課された訓練課題が山と積まれていた。

 だが、レンの手は止まりがちだった。
 ぼんやりと資料に目を落としたまま、彼はぽつりと呟く。

 「ねえ先生、俺さ……しばらく高校行ってないけど、授業とか大丈夫なのかな?」

 何気ない問いかけに聞こえたかもしれない。けれどその声には、ほんのかすかに、不安の色が混じっていた。
 出席日数や授業の遅れも気にはなっていたが、それ以上に、レンは気掛かりがあった。
 自分が今朝、最悪の目覚めを迎えてからというもの、どこかスメラギの様子ばかりを気にしている自分がいる。スメラギに不調はないか、異変はないか。そんなことばかりが気になって仕方がない。

 あれは夢だ。ただの悪夢だ。内容すら覚えていないというのに。
 何度も頭を振ってみても、胸の奥に残るざらつきは消えてくれなかった。

 そんなレンの心中を知ってか知らずか、スメラギは視線を手元から上げず、淡々と返す。

 「問題ない。お前は今、高校では特別課程の研修生として短期留学に出ていることになっている」

 「えっ、そうなんだ」

 「学術機関《イシュ・アルマ》には、神陽学園高等学校の監査権限がある。一定条件下で、選抜者を独自に訓練対象とすることができる」

 「えぇー……なんかすごい。俺、気づいたらすっかり……特別扱いされてんだな」

 気の抜けたように笑いながら、レンは頭をかいた。
 けれどその表情には、どこか疲れがにじんでいた。寝不足のせいか、それとも心が晴れないままだからか――。

 机の向かいで魔素回路を描いていたカナメが、その様子にふと目を上げる。
 ペンを止め、少しだけ声を和らげた。

 「……まあ、学校のことは大丈夫そうだけど。イシミネ、家のほうは? 寮に移るって、ちゃんと伝えてあるの?」

 その問いに、レンはわずかに目を伏せた。
 そして、懐かしむような声でぽつりと答える。

 「うん。じいちゃんには……ちゃんと話したよ」

 
 ──

 
 あれは、寮へ引っ越す前日の夜のことだった。

 道場には夜風が吹き込み、畳の匂いと木の匂いが静かに混じっていた。
 天井の梁には長年の稽古で染み付いた煤が残り、正面の上座には防具と、手入れの行き届いた古びた木刀がきちんと並べられている。
 壁には代々の師範たちの名前が記された掛け軸がかかり、空気には、代々の剣士たちの気配がまだ息づいているようだった。

 その中央で、祖父が黙々と竹刀を拭いていた。
 しわだらけの指先が静かに動くたび、油の匂いとともに、道場に張り詰めたような静寂が漂う。

 やがて、その手がふと止まった。

 「……明日、行くんだな」

 低く、重みのある声だった。
 視線は合わせないまま、それでもはっきりと伝えるような口調で。

 「うん」

 レンは小さく頷いた。

 「言ったな。『行く』と決めたなら、迷うな。中途半端はするな。……それが、剣を持つ者の礼儀だ」

 「……はい」

 短く返すレンの声に、どこか覚悟のようなものがにじむ。
 祖父は一瞬だけ目を細め、横目でレンの姿を見た。
 その視線には、厳しさと、そしてほんのわずかな誇らしさが宿っていた。

 「荷はまとめたのか」

 「うん。最小限でいいって言われたから」

 「そうか」

 また、静かな沈黙が落ちる。
 けれどその沈黙は、どこか安心できるものだった。

 祖父は再び手元の竹刀に目を落とし、ぽつりと告げる。

 「――帰る場所は、いつでもここにある。それだけは忘れるな」

 その言葉に、レンの喉の奥が熱くなった。
 祖父の口から、そんな言葉が聞けるとは思っていなかった。

 「……ありがとう、じいちゃん」

 「礼を言うな。行くと決めたのは、お前自身だ」

 ぶっきらぼうなその声に、逆にこみ上げてくるものがあった。
 祖父の背中は、まっすぐに揺るがず、そしてなにより、どこかあたたかかった。

 それはきっと――剣士として、男として、そして家族としての、無言のエールだった。

 ⸻

「……ってな感じ。言葉は少ないけど……伝わった、って思う」

 レンが照れくさそうに笑うと、カナメは目を細め、静かに頬を緩めた。

「……いいお祖父様だね。うん、ちょっと怖そうだけど、優しい人なんだね」

「怖いよ! ずっと竹刀持ってたし!じいちゃん、怒ると本気で追いかけ回してくるんだから!」

 レンが肩をすくめて苦笑すると、カナメはくすっと小さく笑った。

「……よかった。少し元気が出たみたいね」

「ふえ?」

「今日、あからさまにテンション低かったでしょ。具合でも悪いのかと思ってた」

「あはは……いや、まぁ……ちょっと、疲れてたのかも」

 レンは曖昧に笑って誤魔化した。
 “悪夢”の話などして、カナメやスメラギを余計に心配させたくなかった。
 心の奥に重く沈む不安はまだ消えていないが、それを口にする気にはなれない。

 だから――レンは、机の向こうで黙々と書類に目を通すスメラギの視線を、どこか意図的に避けていた。

 一方、隣席で静かに書類を読み進めていたスメラギは、ふと視線を下げ、そのまま微かに瞳を細めた。

 表情に大きな変化はない。だが――彼の目には、確かに何かが映っていた。

 遠くを見つめるような静かな眼差し。
 それはどこか優しく、そして懐かしさを含んでいた。

 レンは、まだ気づいていない。
 スメラギの瞳に映る、あどけないレンの横顔が、封じた心の湖に、小さな波紋を落としていたことに。

 ⸻

 その後の研究室は、穏やかな静けさに包まれていた。
 ページをめくる音と、魔素石が微かにきらりと光を放つ音だけが、柔らかく空間に響いている。

 レンとカナメは黙々と課題に取り組み、スメラギは書棚から引き出した魔道書を静かに整理していた。

 カリカリとペンが走る音が交錯し、ふたりの若き退魔師候補生は自然な呼吸の中で机を並べている。

「……この反応式、こんな感じでいいのかな。ここ、熱量が逆流するけど」

「うん、多分それで合ってる。魔素の流れって、まるで血管みたいに動いてるよね……生きてるみたいで、なんか面白いなって思う」

 レンの目がきらきらと輝く。
 その様子に、カナメも思わず微笑んだ。

「ほんと、あんたってそういうとこ得意だよね。感覚でつかむっていうか」

 ほんのひととき――
 そこには、穏やかな学びの時間が流れていた。

 だがその空気を断ち切るように、窓をコツコツと叩く音が響く。

「……?」

 カナメが顔を上げ、レンも反射的に窓の外をのぞき込む。

 そこにいたのは、一羽の奇妙な鳥だった。
 飛行型の小型使い魔。羽は濡れた黒曜石のように黒く光り、金の瞳が無機質な輝きをたたえている。
 その足には、筒状の封筒が結びつけられていた。

「なにこれ……?」

「使い魔だよ。たぶん学術機関の調査部門の……連絡係」

 カナメが低く呟いたほぼその瞬間、スメラギが無言で立ち上がる。

 彼は何も言わず窓を開け、使い魔はするりと室内に滑り込んだ。
 一度旋回して空中で静止し、スメラギの肩の高さにふわりと降りる。
 そして、くちばしで封書を差し出した。

 無言のまま、それを受け取るスメラギ。

 封を切るその指先とともに、部屋の空気がわずかに張り詰める。

 彼の目が書状を走り――表情は変わらない。
 けれど、眉間には深い皺が刻まれた。

「…………」

 小さく、しかし確かなため息が漏れる。

「先生……?」

 レンがおそるおそる声をかけると、スメラギはわずかに間を置き、手紙を閉じた。

「……先日、お前たちが調査に赴いた“大社跡”についてだ。現地の魔素異常が正式に認定された」

「正式に……」

 カナメの声が緊張に硬くなる。

「それに伴い、調査の再開と、異常の発生源の解明および排除が命じられた。今回の調査には、俺が責任者として同行し、学生二名――君たちも、実地研修として随伴するよう指示されている」

「えっ……俺たちも行くの!?」

「いきなり現場に!?」

 レンとカナメは顔を見合わせ、動揺を隠せずに声を重ねる。

「……指示は以上だ。詳細な準備については追って伝える。今は、目の前の課題に集中してくれ」

 淡々とそう告げながら、スメラギは手紙をたたみ、封筒を再び使い魔へと差し出した。

 使い魔は反応を返すことなくそれを受け取り、静かに窓の外へと飛び去っていった。

 レンはまだ落ち着かない様子で、ぽつりと呟いた。

「……なんか、いきなりすぎて、ちょっと怖いな」

「うん……でも、やるべきことはちゃんとやらないと」

 カナメが背筋を伸ばすようにして姿勢を正すと、レンも少し緊張をまとった面持ちでうなずいた。

 そんなふたりの姿を、スメラギは無言で見つめていた。

 そして――その視線がわずかに伏せられる。

(……無理をさせたいわけではない。だが、この経験が、今の彼らには必要だと――“あちら”は考えている。ならばせめて)

「……大丈夫だ」

「え?」

 レンがはっと顔を上げると、スメラギはそっけないようでいて、どこか視線を逸らすように言った。

「お前たちに無理強いはさせない。問題が起こる前に迅速に対処する。何も……案ずるな」

 その声にこもる、微かな“温もり”に、ふたりはまだ気づいていなかった。
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