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第三章 夜帳のきざし
26 業火にやかれて
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眩い転送陣の残光が地を照らし、三つの影が揺らめきながら現れる。木々は鬱蒼と茂り、枝葉の隙間から差す陽光さえも、ここでは霞んで見えた。風は冷たく湿り気を帯び、鼻先を撫でる空気には、重苦しく濃密な魔素の匂いが漂っている。
「……うわ。やっぱり来たくなかったかも……」
レンが口を尖らせ、苦笑混じりに呟いた。肩の荷をずり上げ、背筋を走る寒気を振り払うように身震いする。続けて、カナメも眉間に皺を寄せて周囲を見回した。
「前より……魔素が濃い。風がねっとりしてる……普通の森じゃないね」
「そうだな」
静かに応じたのは、前を歩くスメラギだった。コートの裾を翻し、足元の枯葉を踏み分けながら振り返る。ヘーゼル色の彼の瞳の奥には、鋭く研ぎ澄まされた感覚が宿り、周囲に渦巻く異様な気配を的確に捉えていた。
「気持ちは分かるが、お前達の経験値向上が今は非常に重要だ。森の様子、魔素の変質、目に映るすべてを記録しながら進め。これは実地での学習でもある」
いつもより僅かに柔らかさを帯びた声音だった。レンとカナメの不安を察し、「俺がいる」と言外に伝えているかのようだった。
ふたりは頷き、意を決して歩を進める。木々の合間を抜けるほどに空気は重くなり、魔素はじっとりと汗のように肌へとまとわりついてきた。
やがて視界が開け、古びた鳥居と苔むした石段が現れる。
大社跡――かつてこの地に神を祀っていた場所。今は祈る者も、祭る者もいない。ただ沈黙に支配された、朽ちた聖域。
「……こんなに、歪んでたっけ」
カナメが小さく呟き、レンも目を細めて辺りを見渡した。
「ううん。前よりずっと重たい感じ……なんていうか、息がしづらい……」
社の奥から、ぼうっと揺れるような青白い光がいくつも浮かんでいた。それは強い輝きではない。しかし記憶の奥底に直接触れてくるような、言葉にできない懐かしさと不安を胸に灯す。
「……あれ、やっぱり……カサリビですよね」
レンが声を潜めて問う。スメラギは目を細めた。
「お前達が以前遭遇した魔獣は、確かに“あれ”で相違ないな?」
「はい、間違いないと思います」
カナメが一歩前に出て応じた。その目に宿るのは、記憶をなぞる慎重な光。
「夜でした。霧が出ていて、青白い火がいくつも……。声も聞こえました。“帰ってこい”とか“ごめんね”とか、身に覚えのない人の声……。誘導されかけて、私も、レンも──」
「……立ち止まりかけた」
レンが苦く唇を噛む。
「カサリビには擬似記憶干渉がある。個体差はあるが、未練や情動に敏感な者ほど深く影響を受けやすい。お前達の反応は正しい」
そう告げて、スメラギは社の奥へと視線を向けた。
かつて神を祀ったはずのその場所には、今、濁流のような魔素が渦巻いている。青白い火がいくつも揺れ、まるで「何かを弔う」ようだった。
その光景を見つめるスメラギの瞳は、ただ観察する者のものではなかった。怒りすら滲む、鋭く冷たい眼差しだった。
「……このままでは“あれ”が進化しかねない。ヒカリオクリが現れる前に、手を打たねば」
低く抑えたその声に、レンとカナメは息を呑む。だがスメラギはすぐに背を向け、ふたりへと視線を戻す。
「気配を読め。カサリビは一種の“灯”だ。動きには意味がある。警戒しつつ、俺に続け」
言葉少なにそう告げて、スメラギは社の奥へと歩を進めた。
その背を、レンとカナメはしっかりと見つめる。彼の背に漂う気配が、ただの教師や学者のものではないことを、ふたりとも肌で感じていた。
──
転送陣の揺らぎが消え、鬱蒼とした森の闇が背後に遠ざかる。三人は、崩れかけた社の前に立っていた。
「……やっぱり、嫌な場所だな」
レンがぽつりと呟く。カナメも無言で頷き、息を詰めるように社を見上げた。
かつて神域だったその地は今、目に見えぬ何かに深く蝕まれていた。魔素は濁り、空気は鈍く重い。まるで異界そのもののようだった。
「魔素が濃い。記録しておけ。……これは、少なくとも自然のものではない」
スメラギは淡々と告げ、ふたりに魔素記録用の結晶を手渡す。その動作はまるで学術調査のようだったが、どこかさりげない優しさが滲んでいた。
三人はやがて、崩れかけた社の内部へと足を踏み入れる。
———
内部は異様だった。
空間は歪み、柱も床も正しい位置にあるはずなのに、どこかずれて見える。何層もの夢を重ねたような、不自然な構造。重力すら曖昧に感じられるこの空間こそ、魔獣――カサリビの影響によって生じた“迷宮”だった。
「空間自体が……変質してる……」
カナメが呟いた直後、闇が揺らめいた。社の奥から、ゆらゆらと炎が浮かび上がる。カサリビたちだ。
それはまるで魂の灯のように静かで、それでいて胸を締めつけるほど強い“感情”を纏っていた。
—どうして守ってくれなかったの?
—また、繰り返すの?
囁くような“声”が、レンとカナメの耳に届く。実際に音が鳴っているわけではない。ただ、心に直接流れ込んでくる感情の残滓――それが、カサリビの“攻撃”だった。
レンの足が止まりかける。カナメも息を呑む。
だが、その瞬間。
「月読《つくよみ》の光、我に降りて
欠けし心を、護り給え」
低く、静かな詠唱が空間を震わせた。スメラギの指先に、古の言葉が宿る。
詠唱と共に、三人の周囲を淡い銀の光が包む。空気の歪みが晴れ、心へと流れ込んでいた囁きは霧散していく。強固でありながら、静かな水面のように優しい光の防壁だった。
レンとカナメは、それがどれほど高度な結界かを理解していなかった。ただ、不思議と心が落ち着き、あたたかさに包まれるような感覚を覚えていた。
「……ありがとう、先生」
ぽつりとレンが呟いた。彼自身も、なぜその言葉が出たのかわからなかった。
「気にするな。……進むぞ」
スメラギは背を向けたまま応じた。その声には冷静さの奥に、微かな安堵が滲んでいた。
———
そして、三人は迷宮の最深部へと辿り着く。
そこは、異様な空間だった。
錆びた装置、割れた魔法陣、魔素に汚染された記録書。無造作に散らばったそれらは、明らかに何かの“実験”の痕跡だった。
「なんだよ……これ……」
レンが息を呑む。スメラギは一枚の記録紙を無言で手に取ると、眉間に深い皺を刻んだ。
「ここは……イシュ・アルマの施設じゃない。非公認の魔素研究機関。かつて、逸脱した研究が行われていた場所だ」
その言葉は、怒りを孕んだ低音となって空間に響いた。
「魔素の変質……人為的な魔獣化……。ここに残されているのは、その失敗の残骸だ」
彼の背には、静かな怒りと、深い憂いが差していた。
(そうだ……これは人間の業……。カサリビは、その業火に燃やされた憐れな魂……その根本としてここで研究されていたのは……)
スメラギの表情が微かに曇る。その揺らぎに呼応するかのように、周囲の魔素が揺れた。
そして――再び、炎が現れる。
ただのカサリビではない。進化した個体。過去と罪を纏った“記憶の魔獣”が、その奥底から現れようとしていた。
三人の前に、新たな“記録”が、牙を剥く。
「……うわ。やっぱり来たくなかったかも……」
レンが口を尖らせ、苦笑混じりに呟いた。肩の荷をずり上げ、背筋を走る寒気を振り払うように身震いする。続けて、カナメも眉間に皺を寄せて周囲を見回した。
「前より……魔素が濃い。風がねっとりしてる……普通の森じゃないね」
「そうだな」
静かに応じたのは、前を歩くスメラギだった。コートの裾を翻し、足元の枯葉を踏み分けながら振り返る。ヘーゼル色の彼の瞳の奥には、鋭く研ぎ澄まされた感覚が宿り、周囲に渦巻く異様な気配を的確に捉えていた。
「気持ちは分かるが、お前達の経験値向上が今は非常に重要だ。森の様子、魔素の変質、目に映るすべてを記録しながら進め。これは実地での学習でもある」
いつもより僅かに柔らかさを帯びた声音だった。レンとカナメの不安を察し、「俺がいる」と言外に伝えているかのようだった。
ふたりは頷き、意を決して歩を進める。木々の合間を抜けるほどに空気は重くなり、魔素はじっとりと汗のように肌へとまとわりついてきた。
やがて視界が開け、古びた鳥居と苔むした石段が現れる。
大社跡――かつてこの地に神を祀っていた場所。今は祈る者も、祭る者もいない。ただ沈黙に支配された、朽ちた聖域。
「……こんなに、歪んでたっけ」
カナメが小さく呟き、レンも目を細めて辺りを見渡した。
「ううん。前よりずっと重たい感じ……なんていうか、息がしづらい……」
社の奥から、ぼうっと揺れるような青白い光がいくつも浮かんでいた。それは強い輝きではない。しかし記憶の奥底に直接触れてくるような、言葉にできない懐かしさと不安を胸に灯す。
「……あれ、やっぱり……カサリビですよね」
レンが声を潜めて問う。スメラギは目を細めた。
「お前達が以前遭遇した魔獣は、確かに“あれ”で相違ないな?」
「はい、間違いないと思います」
カナメが一歩前に出て応じた。その目に宿るのは、記憶をなぞる慎重な光。
「夜でした。霧が出ていて、青白い火がいくつも……。声も聞こえました。“帰ってこい”とか“ごめんね”とか、身に覚えのない人の声……。誘導されかけて、私も、レンも──」
「……立ち止まりかけた」
レンが苦く唇を噛む。
「カサリビには擬似記憶干渉がある。個体差はあるが、未練や情動に敏感な者ほど深く影響を受けやすい。お前達の反応は正しい」
そう告げて、スメラギは社の奥へと視線を向けた。
かつて神を祀ったはずのその場所には、今、濁流のような魔素が渦巻いている。青白い火がいくつも揺れ、まるで「何かを弔う」ようだった。
その光景を見つめるスメラギの瞳は、ただ観察する者のものではなかった。怒りすら滲む、鋭く冷たい眼差しだった。
「……このままでは“あれ”が進化しかねない。ヒカリオクリが現れる前に、手を打たねば」
低く抑えたその声に、レンとカナメは息を呑む。だがスメラギはすぐに背を向け、ふたりへと視線を戻す。
「気配を読め。カサリビは一種の“灯”だ。動きには意味がある。警戒しつつ、俺に続け」
言葉少なにそう告げて、スメラギは社の奥へと歩を進めた。
その背を、レンとカナメはしっかりと見つめる。彼の背に漂う気配が、ただの教師や学者のものではないことを、ふたりとも肌で感じていた。
──
転送陣の揺らぎが消え、鬱蒼とした森の闇が背後に遠ざかる。三人は、崩れかけた社の前に立っていた。
「……やっぱり、嫌な場所だな」
レンがぽつりと呟く。カナメも無言で頷き、息を詰めるように社を見上げた。
かつて神域だったその地は今、目に見えぬ何かに深く蝕まれていた。魔素は濁り、空気は鈍く重い。まるで異界そのもののようだった。
「魔素が濃い。記録しておけ。……これは、少なくとも自然のものではない」
スメラギは淡々と告げ、ふたりに魔素記録用の結晶を手渡す。その動作はまるで学術調査のようだったが、どこかさりげない優しさが滲んでいた。
三人はやがて、崩れかけた社の内部へと足を踏み入れる。
———
内部は異様だった。
空間は歪み、柱も床も正しい位置にあるはずなのに、どこかずれて見える。何層もの夢を重ねたような、不自然な構造。重力すら曖昧に感じられるこの空間こそ、魔獣――カサリビの影響によって生じた“迷宮”だった。
「空間自体が……変質してる……」
カナメが呟いた直後、闇が揺らめいた。社の奥から、ゆらゆらと炎が浮かび上がる。カサリビたちだ。
それはまるで魂の灯のように静かで、それでいて胸を締めつけるほど強い“感情”を纏っていた。
—どうして守ってくれなかったの?
—また、繰り返すの?
囁くような“声”が、レンとカナメの耳に届く。実際に音が鳴っているわけではない。ただ、心に直接流れ込んでくる感情の残滓――それが、カサリビの“攻撃”だった。
レンの足が止まりかける。カナメも息を呑む。
だが、その瞬間。
「月読《つくよみ》の光、我に降りて
欠けし心を、護り給え」
低く、静かな詠唱が空間を震わせた。スメラギの指先に、古の言葉が宿る。
詠唱と共に、三人の周囲を淡い銀の光が包む。空気の歪みが晴れ、心へと流れ込んでいた囁きは霧散していく。強固でありながら、静かな水面のように優しい光の防壁だった。
レンとカナメは、それがどれほど高度な結界かを理解していなかった。ただ、不思議と心が落ち着き、あたたかさに包まれるような感覚を覚えていた。
「……ありがとう、先生」
ぽつりとレンが呟いた。彼自身も、なぜその言葉が出たのかわからなかった。
「気にするな。……進むぞ」
スメラギは背を向けたまま応じた。その声には冷静さの奥に、微かな安堵が滲んでいた。
———
そして、三人は迷宮の最深部へと辿り着く。
そこは、異様な空間だった。
錆びた装置、割れた魔法陣、魔素に汚染された記録書。無造作に散らばったそれらは、明らかに何かの“実験”の痕跡だった。
「なんだよ……これ……」
レンが息を呑む。スメラギは一枚の記録紙を無言で手に取ると、眉間に深い皺を刻んだ。
「ここは……イシュ・アルマの施設じゃない。非公認の魔素研究機関。かつて、逸脱した研究が行われていた場所だ」
その言葉は、怒りを孕んだ低音となって空間に響いた。
「魔素の変質……人為的な魔獣化……。ここに残されているのは、その失敗の残骸だ」
彼の背には、静かな怒りと、深い憂いが差していた。
(そうだ……これは人間の業……。カサリビは、その業火に燃やされた憐れな魂……その根本としてここで研究されていたのは……)
スメラギの表情が微かに曇る。その揺らぎに呼応するかのように、周囲の魔素が揺れた。
そして――再び、炎が現れる。
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