星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第五章 ワルプルギスの夜

48 零れた光、こぼれた闇

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「終わりだな」

 ティシフォネの声は静かに響いた。
 その瞳には、淡く紅の灯が揺らめき、獣のように鋭く細められている。まるで、これまでの全てを見透かし、宿命の幕引きを告げるかのように。

「茶番はもうこりごりだ!やっと、せんせーの目玉が手に入る!!」

 アレクトゥは口元に下卑た笑みをぎゅっと噛み殺し、地を蹴った。
 彼女の手のひらに宿る魔素は、黒い雷の奔流となって荒れ狂い、周囲の空気を震わせている。爆音のように炸裂しそうな魔力の奔騰が、戦慄を伴って空間に拡散した。

 メガイラはまるでオペラの終幕の演者のように優雅な仕草で指を鳴らす。

「これでようやく、私たちの“舞踏会”も閉幕ですわね」

 冷ややかで上品な響きが、重苦しい空気に混ざりながらも、戦慄を孕んだ刃のように鋭い。

 アプダの魔女たちの気配が一変した。
 もはや彼女たちに遊びはない。獲物を仕留める刃と化したその気配は、濁流のように暗く、凶暴に波打っていた。

 ――その時、スメラギは腕にレンを抱きしめるようにして囁いた。

「……逃げろ、イシミネ」

 レンは大きく目を見開いた。戸惑いと恐怖が混じり合った瞳。

「なっ、何言ってんだよ……先生っ」

 しかし、スメラギの瞳には静かな覚悟が揺るぎなく宿っていた。

「お前は……こんなところで死ぬべきじゃない……、やりたいこと、たくさん、あるんだ、ろ……?」

 言葉はかすれ、空気に滲むように零れた。
 傷ついた身体から熱が急速に奪われていくのを感じながらも、スメラギはふとレンの頬に視線を落とした。
 震えている。無傷の身体に反して、血の気の引いたその表情はまるで儚い蝋燭の灯火のようだった。

 ――それだけで、胸の奥に何かが疼いた。安堵とは異なる、名前のない感情。

(なぜ、こんなにも……)

 目の前の少年は恐怖に震えながらも、必死に自分を見つめていた。
“あの瞳”――光に包まれた、まだ穢れなき無垢なまなざし。

 決して自分が持てないもの。踏み込んではならない境界線。だが、心は知らず知らず惹かれていた。スメラギ自身、なぜかその理由に気づいてはいなかった。ただ――

 擦り切れた声を振り絞り、スメラギは残された魔素のほとんどを吐き出すように使い、レンの周囲に防護の障壁を展開した。
 蒼白い光が球体状に広がり、淡く揺らめきながらレンを包み込む。
 それは美しい氷細工のように、今にも溶けて消えてしまいそうなほど儚く、繊細なものだった。

「でも――!」

「命令だ」

 呻き声ににじむ痛みを押し殺してなお、その声は揺るがずまっすぐで、命じながらもどこか優しさが滲んでいた。

 レンは言葉を失い、何か言いたげだが言葉にならない。
 どうしようもなくて、レンは手をつくようにスメラギの置いた防護壁に触れる。その冷たさが、彼の指先のようだった。

(俺は……足手まといだ……でも、)

 歯を食いしばり、内なる決意を奮い立たせる。

(でも……!)

 このまままた、逃げてしまうのか。目の前で先生が、守りたいと思ったあの人が血を流し、苦しんでいるのに?



 ――そんなの、絶対に嫌だ!!



 ───


「もう立っているのもやっとだろう。そんな状態でまだ他人の命を守るつもりかい?」

 ティシフォネの声が冷たい氷の刃のように空間を裂いた。

「何て美しいの……美しくて、儚くて、滑稽で……本当に、吐き気がするほど」

 メガイラは高く響く靴音を床に鳴らしながら、血の滴る赤い足跡を残して踏み込む。裾に跳ね上がった鮮血が、彼女の黒い衣装に滲んでいた。

「たまんねぇなあ、せんせー!死人みたいな顔して、生きてるつもりかよ!」

 アレクトゥの嗜虐に満ちた嘲笑が、追い打ちのように重く降り注ぐ。

 アプダの魔女たち。
 その瞳は破壊への熱情で赤く燃え上がり、纏う魔素は黒く濁り、瘴気のように空間を覆う。
 まるで毒の花が盛大に咲き誇り、腐りゆくように滲んでいくかのよう――彼女たちの存在だけで、周囲の空気が淀んだ。

 スメラギは荒い呼吸を繰り返し、背中をわずかに震わせた。
 深く裂けた背中の傷口から血が滲み、足元には飛沫が濡れたように広がる。
 彼のエーテル・バインダー———黒曜石の核には微細な亀裂が走り、まるで悲鳴を上げているかのようだった。

 魔素はすでに限界を超え、焦げ付くような疼きが身体の内側から軋みを立てている。

「苦しそうね……可哀想。すぐに楽にして差し上げますわ」

 メガイラが微笑み、虚空に指を走らせた。

 空間が悲鳴を上げた。
 重力が歪み、異形の魔素が黒い球体となって渦を巻く――

「忠義も信念も、血を流せばただの赤い泥。ああ、滑稽」

 ズン、と空気が震え、巨大な魔素の塊がスメラギへと唸り声をあげて迫る。

「……ッ!」

 とっさに魔法陣を展開し、氷の盾を形成するも、遅かった。

 盾は脆く砕け散り、スメラギの身体は空中に弾き飛ばされ、背中から重く硬い床へと叩きつけられた。

「――ぐ、ぁッ……!」

 骨の悲鳴が全身に響き、視界は滲み、赤黒い濁流が意識の縁を覆い尽くす。

(魔素が……制御できないッ……)

 胸の奥底にずっと抑え込んでいた“何か”が、ひび割れた器の隙間からこぼれ落ちる。
 それは誰にも見せてはならない、彼自身の深淵の“闇”だった。

 メガイラがゆっくりと距離を詰める。

「あなたのその綺麗な顔の奥。ひた隠しにしている本当の姿……いつか見てみたいと思ってたのよ……ねぇ、“英雄の楔”」

 その言葉を囁いた刹那、スメラギの体は大きく震え、瞳に再び火が灯った。
 赤く、強く……!!

 だがそれは理性の灯火ではなかった。
 黒く濁り、底知れぬ深淵を湛えた、闇そのものの輝き――

(ダメだ……あの子にだけは……見せたくない……っ)

 その瞬間だった。

「――やめろ!!!!」

 風を裂くような少年の叫びだった。

 ⸻

「……イシ、ミネ……逃げろと、言っただろ、……っ」

 呻くような、掠れた声が響いた。

 血に濡れた床の上で、スメラギがうつ伏せに倒れている。その手が震えながらも、レンに向かって差し出される。制止の意志ははっきりとあった。だが――

「そんなの、どうでもいい!!」

 レンの声が空気を震わせる。目元は涙で濡れ、その奥には燃えるような感情が渦巻いていた。恐怖。怒り。悲しみ。どうしようもない絶望――それでも、少年は前を見ていた。

「先生が……傷ついてる。血を流してる。俺が、守るって……決めたのに……!」

 その言葉は幼さの中に、確かな覚悟を宿していた。

 ティシフォネが鼻で笑う。

「愚か者。己一人の命すら護れぬ者が、誰かを守る? 幻想も甚だしいな、小僧」

 指先が静かに上がり、空気が歪んだ。黒く濁った魔素が、ゆらりと渦を巻く。

「あなたの教え子は……本当に救いようのない馬鹿ばかりね、センセ」

 メガイラが冷ややかに言い放ち、指を鳴らす。

 刹那――

 空から、無数の魔素の刃が降り注いだ。

 殺意そのものが具現化したような奔流。破壊を宿した魔力の雨が、すべてを呑みこもうとする。

 けれど。

「それ以上……その人に触るな!!俺は……俺はもう、後悔はしたくない!!!」

 レンが叫んだ。

 それは言葉ではなく、祈りだった。
 命のすべてを賭けて放たれた、魂の叫びだった。

 その瞬間、レンの足元が光った。

 まばゆい閃光が、空間を突き破るように迸る。エーテル・バインダーが限界を超えて稼働し、魔素を強制的に集束。まるで世界そのものの構造を塗り替えるような白光が爆ぜた。

 レンとスメラギを包むように、その光は盾となる。

 それは――拒絶と祝福の境界線。

 少年の決意が、生きている世界を書き換えたのだ。

 その光は優しく、けれど絶対的だった。
 命の本質に触れるような、どこか懐かしく、抗えない輝き。

「……な、なに……?」

 メガイラの美貌が歪む。今までどこか余裕すら感じさせていた足取りが、止まった。

 レンの周囲に浮かぶ光の粒子が、ふわりとほどける。
 水面に差し込む月光のように、静かに、優雅に。

 そして――

 光は、姿を変えた。

 淡い輝きの中から、ゆっくりと姿を現したのは――一振りの剣。

 透明に近い結晶のような刃。中心には、星の鼓動のような灯火が脈打つ。柄には有機的な曲線が這い、まるで“選ばれし者”を待ち焦がれていたかのように、レンの前に浮かぶ。

「……剣……?」

 震えるように、レンが呟いた。

「嘘……何よ、あれ……」

 メガイラが硬直し、声を失った。

「まさか……」

 呻くように、スメラギが言葉を絞り出す。
 その声音には、驚愕、畏怖、そして抗いがたい宿命への絶望と——待ち望んでいた希望が滲んでいた。

「……あたたかい……おまえで、戦えって……そう、言ってるの?」

 レンは手を伸ばす。迷いながらも、その光に触れようと。

「……世界そのものが遺した、最後の意志。全てを打ち払う“始まりの剣”――星剣なのか……」

 スメラギの低い声が響いた瞬間、ティシフォネの表情が一変した。

「……星剣、だと……? 馬鹿な……!」

 アプダの魔女たちの空気が、瞬時に変わる。緊張と怯え、そして否定の色。

「ふざけないでッ……そんなもの、存在するはずがないじゃないッ!!」

 メガイラが叫ぶ。美しい顔が引き攣り、声が上擦っている。

「んだよそれ!!神話の遺物だぞ!?作り話だったはずだ!んなもんが、なんでここに……!!」

 アレクトゥの瞳が見開かれる。怒りとも恐怖ともつかぬ、感情の爆発。

 その時――

 レンの手が、剣に触れた。

 吸い込まれるように、その刃は彼の手に納まる。

 瞬間、空間が――震えた。

 星剣から放たれた光が、闇の魔素を焼き、穢れを浄化する。
 展示室を包んでいた瘴気が裂け、腐った魔力は霧のように霧散していった。

 ――空気が、変わる。

「……っ、なに……?」

 ティシフォネが眉を寄せた。

 そして。

 光が、降り注いだ。

 眩い輝きが、天地を満たす。

 ただ明るいのではない。これは、神性、聖なる属性だ。
 その存在だけで、空間に染みついた“穢れ”を焼き尽くす、祝福そのもの。

「うっ、あぁぁぁ!? ギャアァアアッッ……皮膚がっっ!!」

 アレクトゥが悲鳴を上げて地を転げ回る。

「……この光……いや……いやぁあああッ!!」

 メガイラが顔を覆い、恐怖に歪んだ表情のまま後退する。

 ティシフォネの無数の触手が、凍りつくように収縮した。

「……まさか……本当に、選定したというのか!? なぜだっ……!! なぜ、“あんな子供”がッ!!」

 レンは、立ち尽くしていた。剣を手に、ただ震えていた。

「……え、これ……なんで……?」

 彼の手は震え、視線は宙を彷徨う。
 けれど――剣は、確かに彼を選んだ。

 ずっと、待っていたかのように。

 そして、その光は――静かに、スメラギの傷に触れる。

 痛みが、消えていく。
 深く染み付くような傷のはずなのに、不思議と熱くも、苦しくもなかった。

 それどころか優しく包み込むような暖かさ。
 それはまるで、レンの手のひらの温もりのようで。


(……この光は……俺を、焼くはず……なのに、なぜ……)


 スメラギは細く目を細める。

 あの、もう戻れない遥かな昔――
 ほんの一瞬だけ、夢に見たような。

 決して届かなかった、祝福の光。
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