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第六章 回り始めた歯車
49 ただ欲しかったもの
しおりを挟む──闇の中、誰かの声がした。
「……またお前か。厄介な子だな」
その声音は、凍てつく刃のように冷たく、容赦なく鋭かった。
水面に張る薄氷のような静けさを湛えつつ、言葉だけが深く突き刺さる。
声が向けられた先にいたのは――まだ、ほんの子供だった。
影のように立ち並ぶ大人たちの足元で、小さな身体が膝を抱え、蹲っている。
怯えを湛えた瞳は、薄暗い床に落ちていた。
かすかに震える唇は、もはや声を紡ぐ術を失っている。
「魔素が……濃すぎる。こんなもの、人間の器に収まるはずがない」
「人として生まれたのが、間違いだったんだよ」
誰かが吐き捨て、また別の誰かが重くため息をつく。
その視線は災厄を見るかのように冷たく、
その声音は、廃棄物を処理するような無慈悲さを孕んでいた。
だが、少年は何も言い返さなかった。
言葉が見つからなかったわけではない。
――違う。知っていたのだ。
——何を言っても、届かない。
——何を思っても、変わらない。
だから、黙っているしかなかった。
声をあげることも、逃げ出すことも許されず、
ただ、その場に“存在する”しかなかった。
凍えるような細い腕を、自分自身に巻きつける。
それだけが、唯一の防壁だった。
⸻
―――おいで。共に行こう。
その孤独に差し伸べられた手は、春の陽だまりのようにやさしく、ひどく温かかった。
鳶色の瞳が、自分をまっすぐに見つめている。
拒絶でも恐怖でもない眼差しで。
それだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
そこに、光があった。
少年は、おずおずと手を伸ばした。
そして、その指先が光に触れた瞬間――世界が、反転した。
⸻
──黒い雪が、降っていた。
灰でも、血でもない。
すべての色を失った、冷たい黒。
空から舞い降り、大地を穢し、音もなく景色を埋め尽くす。
無音の雪は、死の静寂を纏っていた。
青年がひとり、雪の中に膝をついていた。
崩れた石柱、砕けた魔法陣、焼け焦げた大地。
それは、戦場の“終わり”だった。
彼の手は、地に伏した誰かに向かって伸ばされていた。
名を呼ぼうと開いた唇は、もはや声を持たない。
(……どうして、こんなことに……)
問いだけが浮かび、虚空へと消えていく。
けれど、答えは――もう、自分の中にあった。
自分という存在が、どれほどの破壊を孕んでいるのか。
ずっと、知っていたのだ。
涙も、嗚咽もなかった。
ただ、胸の奥がひどく冷えていた。
彼はゆっくりと身体を折り、己の両腕で自分を抱きしめる。
まるで、凍てついた内側を、少しでも温めようとするかのように。
空は、血のように赤かった。
雪だけが、静かに、音もなく降り続いていた。
その胸の奥に――誓いが刻まれる。
──もう、誰も巻き込まない。
──愛も、憎しみも、感情そのものが、俺には不要だ。
それはやがて鎖となり、棘となり、
彼の心と身体、魂ごと締めつけていく。
風が吹く。だが、音はない。
降り積もる白は、雪ではなかった。
それは、記憶の断片。凍てついた悔恨と、罪と、絶望の破片。
色も、音も、時間さえも閉ざされた、無音の檻。
泣いていたのは、誰だったか。
その顔は、もう思い出せない。
けれど、その哀しみだけは、今もなお、胸を刺し続けていた。
手を伸ばす。誰かに向かって。
けれど、掴めるものは何もなかった。
あの日、届かなかった。
ただ、守りたかっただけなのに。
だから……だけど——
……いや、本当は、最初から……
———
胸の奥から、誓いにも呪いにも似た感情が立ち上がる。
誰のものともつかぬその想念が、白の牢獄を軋ませた。
ギシリ、と。
沈黙を裂くように、軋む音。
重く閉ざされていたまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
ぼやけた視界の先に映ったのは、くすんだ白の天井。
薄くひび割れた石膏。
蛍光灯の光が滲み、鈍く揺れていた。
薬と血と鉄錆の匂いが、鼻腔を突く。
古びたスプリングが、微かに軋んだ。
――これは、夢ではない。
現実だ。
視線が泳ぎ、空間を捉える。
使い古された棚、乱雑なカルテ、干からびた薬草の束。
ここは――アクタビの診療室。
彼女の研究室に併設された、仮眠と治療のための小部屋。
ベッドに横たわったまま、スメラギはゆっくりと目を細めた。
焦点は合わず、喉は渇き、全身が鈍く痛む。
記憶はまだ、霧の中に沈んでいた。
足音が近づく。
「……気分は、どうだい?」
聞き慣れた声が、頭上から落ちてきた。
視界の端に、白衣の裾と、ひやりとした指先。
部屋の主がそこにいた。
顔には、いつもの軽薄な笑み。
だが、その奥の瞳には、隠しきれぬ怒気が宿っていた。
彼女は無言でスメラギの額に指を当て、魔素の流れを探る。
「……乱れは落ち着いたな。仮繋ぎも、まあ、定着してる。人の形を保てただけでも儲けものだね」
飄々とした口調とは裏腹に、指先の温度は冷たく澄んでいた。
その温度が、今のスメラギにはひどく遠く感じられた。
彼は目を伏せ、かすかに唇を動かす。
「……どうして……俺は……」
かすれた声。問いにもならない問い。
アクタビは肩をすくめ、鼻で笑った。
「アンタ、覚えてないのかい?」
皮肉混じりの笑み。その奥にあるのは――怒りと、焦りと、哀しみ。
「大社跡で子供らを庇って、光魔法で闇払い。
まともに回復もしないうちに、今度はアプダの魔女相手に突っ込んだ。
博物館ごと呑む保護結界を一人で張って、高位魔法を連発。で、案の定ぶっ倒れた」
言葉を切って、彼女は溜息をつく。
「マゾヒズムにも程があるなあ?」
カルテなど捲るまでもない。
「診察拒否」「後日対応」「多忙」――
それは、自己逃避の痕跡だった。
それでも彼は、限界を超えて戦場に立ち続ける。
「はっきり言うぞ。バカなのか、アンタは」
そして――
「……何より、“供給”を絶ったままだろ。
最後にまともに受けたのは、いつだった?」
沈黙。
スメラギは、何も返さない。
だが、その沈黙こそが、すべてを語っていた。
アクタビの眉がわずかに寄る。
「……また、悪癖が出たな」
それは、自らの存在を否定し、
孤独と呪いの中に沈もうとする――哀しき自己断絶。
「いいか。アンタが魔素切れでどこでぶっ倒れようが、こっちは回収して蘇らせるだけさ。
でもな、」
アクタビの息が強く漏れる。
腰に置かれた両手が、苛立ちを物語っていた。
「……お前の無意味な拒絶のせいで、命の危機に瀕した子供たちがいる。わかってるのか?」
その言葉に、スメラギの全身がびくりと震えた。
瞳が揺れ、胸が大きく波打つ。
瞬間、感情が閾値を超える。
彼は、突き動かされるように、荒々しく上体を起こした。
「……レン……っ!!」
喉が裂けるような叫び。
胸の奥を焼く激痛が、傷口から溢れる。
あの瞬間。
光。悲鳴。血。
崩れゆく足元。燃える魔素。
――そして、少年の名を叫んだ、あの一瞬。
すべてが、鮮烈に蘇った。
何が起きたのか。
誰が自分を庇ったのか。
自分が、何を守ろうとしたのか。
そのすべてを――
彼は、思い出した。
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