星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第六章 回り始めた歯車

51 曖昧な、言葉じゃなくて

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 背中を裂いた傷口から、熱い血が滴り落ちていく。

 それは布地を濡らし、床に描かれた魔術回路の上にもじわじわとにじみ出す。
 激しい痛みに顔を歪めながらも、スメラギは膝をつき、震える指先で地面をなぞっていく。
 幾重にも重なる精緻な円環――その魔法陣は、まるで意識の刃で刻み込むように、彼の手で正確に構築されていった。

 館内にはなお、戦いの余韻が漂っていた。
 砕けた展示物、焦げた柱、崩れかけた天井。異常の爪痕を残したままの空間の中で、人々は呆然と立ち尽くしている。

 誰かが息を呑み、誰かが震える声で祈りをつぶやいた。
 その視線の先にいるのは、地に伏しながらなお術式を編む、一人の男。
 けれど彼らの誰一人として、その男が自分たちの担任教師――“スメラギ先生”だとは気づけなかった。

 それほどに、彼は“異質”だった。

 擬態を忘れた星色の瞳は、かすかに焦点を失いながらも、虚空の先を見据えていた。
 残されたわずかな魔素と精神力を総動員しながら、彼は足元に陣を描き続けている。

 指先が震え、肩が痙攣する。
 傷は深く、魔素はすでに限界を超えている。
 それでも彼は、止めなかった。止めることができなかった。

「……やめて、先生!」

 星剣を放り出し、レンが駆け寄ってくる。
 光の粒子となって消えた剣の残光が、空気の中でかすかに揺らめいた。
 少年の手がスメラギの腕に触れようとした――その瞬間。

 彼は、わずかに首を振った。

「……手を、出すな」

 掠れた声。それでも、そこには確かに拒絶の意志があった。

 スメラギが描いた陣は――

 忘却の魔法。

 博物館内にいたすべての一般人。
 その記憶を、戦いの恐怖から解き放つためのもの。
 恐慌と混乱、絶望と死の匂いを、美しい夢のような記憶に塗り替える、繊細極まる術式だった。

 その発動には莫大な魔素を必要とし、なにより術者の精神を激しく削る。
 スメラギの唇が、静かに開かれた。
 低く、澄んだ声が空間に満ちていく。

『此の傷を贄と為し 代償と定む
 星界のことわり 記憶を反転せしめよ
 恐怖は幻夢となりて彼らを離れよ
 真実は 唯我が身に刻まれよ
 心には 安寧の夜のみを宿せ

 ――夢なり 幻なり
 忘却せよ 星の堕つるときを』

 詠唱と共に、陣が淡く輝きを帯びる。
 星屑のような光が空間に漂い、人々の記憶に触れ、優しく包み込んでいく。

 レンは、もう止めなかった。
 ただその背中を見つめていた。
 その祈りが、誰かの明日を守るのだと、彼は知っていたから。

 やがて空間は、青白くかすかに揺れる光に包まれる。
 それはスメラギの魔力による光。慰撫するように、すべてを覆い隠していく。
 その光が触れた者たちの脳裏から、異形と恐怖の記憶が、静かに、優しく消えていった。

 だがその代償として、スメラギの身体は限界へと刻一刻と近づいていく。

 呼吸は浅く、視界は揺れ、冷たい汗が首筋を伝う。
 それでも彼は、歯を食いしばり、何度も何度も術式を走らせ続けた。

(……今だけでもいい……せめて……)

「これで……なんとか……」

 かすれた声が漏れるたびに、唇の端から血が滲む。
 この空間にいるすべての“無関係な人間”の記憶を、個別に書き換える。
 本来の彼であれば、難なく行える高位魔術――
 だが今の彼には、補助を必要とするほど、力が削がれていた。

 それでも構わなかった。
 彼の中に、一つの揺るがぬ信念があった。

 “自分の戦いに、誰も巻き込ませない”。

 それが、彼が唯一守ると誓った“境界”だった。

 そして――空気は次第に鎮まり、人々の表情も、ぼんやりとした安堵に包まれていく。
 魔物も、呪詛も、恐怖も、なにもなかった。
 そんなふうに、誰もが“思い込む”。

 そうしてスメラギは、すべての呪文を紡ぎ終えると――静かに、その場に崩れ落ちた。

 闇が、彼を飲み込むように。意識が、暗転する。

 ──

 スメラギの横顔が、揺れた。

 湿度を抑えた空気に、薬草と魔素の混ざった香りがほのかに漂う。
 錬成用の器具が整然と並ぶ一室。
 その奥に置かれた簡易ベッドの上、深く沈んだシーツに身を横たえる男の瞼が、ゆっくりと開いた。

「……思い出したかい?」

 ぽつりと、アクタビが声を落とす。
 気配を殺すでもなく、気遣うでもなく。ただ事実を確認するように。

「……ああ」

 答えたのは、伏せられていた瞳をようやく持ち上げたスメラギだった。
 微かに眉間に皺を寄せ、深く息を吐く。

 ほんの少しの沈黙が流れた。

 アクタビは椅子に胡座をかき、淡々と語り始める。

「……あの子達が、血まみれで意識を無くしたアンタをここまで運んだんだ。健気にも、必死に応急術をかけながらね。新芽くんなんて、子猫ちゃんの見様見真似でその場で応急魔法を構築したんだぞ」

 スメラギはその言葉に、ゆっくりと目を伏せた。
 瞼の裏に、あの夜の残響が甦る。
 己の力を振り絞った末に倒れた。意識を失った後のことなど、当然覚えていない。

 だが、アクタビの語りによって、それは確かな像となって浮かび上がってくる。

 レンとカナメが、どれほど必死だったのか。
 それを思うだけで、胸の奥に熱が灯る。
 それは申し訳なさでもあり、情けなさでもあり――けれど、確かにあった。ほんの少しの、嬉しさでもあった。

 言葉にはしなかったが、その思いは表情の端に滲み出ていた。
 唇がわずかに揺れ、伏せた瞳はどこか遠くを見つめていた。

 アクタビは、くくっと短く笑う。

「機転を利かせた子猫ちゃんが黒子を手配しなきゃ、三人揃って行き倒れで終わってたさ」

 黒子――人工式神のような存在。逆再生の言語を話す、無機質な従者。
 それを的確に動員したのは、カナメの判断だった。

 スメラギはやや苦々しく、自嘲するように呟いた。

「……不甲斐ないな」

「――そうだな」

 即答だった。だが、その声に責めの色はない。
 アクタビは椅子を軋ませて立ち上がり、点滴スタンドに手を伸ばす。
 淡い青みがかった魔素活性薬と物理栄養剤を混ぜた薬液が、静かに細い管を伝い、スメラギの腕へと流れ込んでいく。

 生命を繋ぎとめるように。
 現実へ、意識を引き戻すように。

「だが同時に、愛されてもいる。そのことは……お前自身が、理解しろ」

 その一言は、刺すようでもあり、どこか温かくもあった。
 スメラギは何も言わなかった。
 けれど、その視線がわずかに揺れる。

 レンとカナメの姿が、脳裏に浮かぶ。
 同時に、自身の「境遇」が彼らに与えるであろう影響を思ってしまう。

 言葉にできない葛藤。
 知られたくないもの、与えたくない苦しみ。

 沈黙が、その思いを呑み込んだ。

 アクタビは、そんな彼を一瞥し、少しだけ声を強める。

「とにかく、あの子達には礼を言うんだよ。曖昧な言葉じゃなくて、ちゃんと伝わるように。何せ、ここに来てからもお前の看病を必死で手伝ってくれたんだからな」

 スメラギが、微かに目を見開く。

 アクタビは思い出すように、口元をわずかに歪めた。

「坊やは、魔素が尽きるまで床に座り込んでいたよ。
 お嬢ちゃんはその横で、眠気と闘いながら水分補給の手助けをしていた。
 身体を拭いてやったり、冷却の調整をしたりな……黒子の指示で、黙々と」

 アクタビが淡々と語る声の調子は軽やかだったが、その奥には微かな哀れみがにじんでいた。

 その言葉を聞いた瞬間、目を閉じていたスメラギの顔に、わずかな変化が現れる。
 硬く張りつめていた表情が、ほんのひと匙、溶けるように和らいだ。

 彼のまぶたの裏に、まだ見ぬ情景がゆっくりと描かれていく――
 自分のすぐ傍らで、息を詰めるように支えてくれていた二人の姿。
 冷えた床、ぬるくなった水差し、小さな手がタオルを絞る感触。
 静かな夜のなか、誰も声を発せず、ただ自分の命が燃え尽きるのを見つめていたであろう、あの時間。

 どれほど疲弊していたのだろう。
 どれほど自分のために、時間も力も、心までも砕いてくれたのか――

 レンたちがようやく眠りに落ちたのは、朝日が差し始めた頃だったと、アクタビは言った。
 夜を徹して看病していたその面影が、まるで残り香のように胸を締めつける。

 安堵と疲労の混じった寝顔が、今も診察室の隅、アクタビの机のそばで、毛布にくるまれて眠っているのだろう。

 スメラギは、胸の奥から込み上げてくる感情を押しとどめるように、浅く息を吸い込んだ。

「……わかった」

 かすれた呟きが、呼吸のように口をついて出た。
 それは小さな、小さな頷き。
 だが確かに、自らの意思として刻まれた返答だった。

 アクタビは満足げに小さく笑い、
「もう少し休んでな」
 とだけ残して、くるりと踵を返す。
 部屋を出ようと、扉に手をかけたその時――ふと、歩みを止めた。

「……まさかとは思うが、アンタ、あの子のこと――」

 続きを口にしようとした瞬間だった。

 診察室の外から、鋭く張り詰めた怒号が響いた。

 空気が一変する。
 瞬間、部屋の空気がぴんと張り詰め、肌を刺すような緊張が走った。

 アクタビの眉がぴくりと動く。すぐさま音のした方向へ視線を向ける。
 スメラギも同じく、かすかに耳をそばだてた。

 聞き覚えのある声だった。

 激情に駆られたような、鋭く震える叫び。
 獣のように唸るその声は、制御の利かない怒気をはっきりと帯びていた。
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