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第六章 回り始めた歯車
52 響く怒声、震える虚勢
しおりを挟む朝の光が、半開きの窓から静かに差し込んでいた。
古びた木枠をすり抜けた柔らかな陽光は、薬瓶が整然と並ぶ棚や、乱雑に積まれた書類の上をなぞるように滑り、わずかに舞う埃を淡く照らし出す。空気の中に漂うのは、乾いた薬草の香りと、鼻を刺すような薬品の匂い――アクタビの研究室特有の、現実からほんの一歩だけ遠ざかった、静寂と混沌の匂いだった。
その気配の中で、レンはゆっくりとまぶたを開いた。
「……ん、ここ……ああ、そうだ。アクタビさんの研究室……」
寝起きの意識がぼんやりと浮上し、重いまぶたをこすりながらソファの上で上体を起こす。まだ夢の名残を引きずる思考で辺りを見渡せば、隣ではカナメが毛布にくるまり、安らかな寝息を立てていた。無防備なその寝顔に、小さな安堵が胸に灯り、レンは思わずほっと息をついた。
だが、その一瞬の穏やかさはすぐに引き裂かれる。
「……そうだ! ミナトさんはっ!」
胸の奥に閉じ込めていた不安が、破裂するように一気に噴き出した。恐怖、焦燥、後悔――怒涛のように押し寄せる感情が、彼の心を乱暴に掴む。跳ねるように立ち上がり、視線は反射的に部屋の奥へと向かう。しかしアクタビの姿はなく、ミナトのいるはずの診察室の扉は静かに閉ざされたままだ。
──今、行ってもいいのか?
また、あの人を苦しめてしまうのではないか。
今の自分は、傍に立つ資格があるのか――
逡巡とためらいが、喉元に棘のように引っかかる。立ち上がったまま、一歩も踏み出せずにいるその足が、まるで鉛のように重かった。
そのときだった。
扉の取っ手が、静かに回る音がした。
レンが振り向いた先。
わずかに開いた隙間から、影のように滑り込んできたのは――
「……ビャクヤ……?」
朝の光に透けて揺れる、絹糸のような銀髪。
狐の半面に顔を隠したその姿は、白磁の彫像のように冷ややかで、息を潜めたままそこに立っていた。だが、面の奥の双眸――深く澄んだ紫の瞳だけが、怒りに燃えていた。
その視線が、刃のように室内の空気を張り詰めさせる。
「……小僧。あの人に、傷を負わせたのはお前か?」
静かだった。怒鳴り声でも、罵声でもない。ただ、低く、吐き捨てるようなその声音には、凍てつくような怒気がにじんでいた。
レンの身体が、硬直する。
言葉が喉に引っかかり、呼吸が浅くなる。体温が急速に奪われていく感覚に襲われながら、それでも足は一歩も動けなかった。
「それはっ……あれは……色々あって……でも、俺……先生を守りたくてっ……だから……でもっ……!」
声は震えていた。だが、それは恐怖からではなかった。
言葉にしきれぬ後悔と悔しさ。そして――
それでもなお、ミナトを守りたいという真っ直ぐな想い。
ビャクヤは、その必死な声を黙って聞いていた。
紫の瞳が、レンの奥に揺れるものを、静かに、鋭く見つめる。
そして冷酷な一言が、空気を凍らせる。
「……お前が原因であることに、変わりはない」
次の瞬間、ビャクヤの手が、レンの制服の胸元を掴む。
乱暴に引き寄せられ、彼の瞳が至近距離でレンを射抜いた。
「お前が……! アイツに……ミナトに、何をさせた!!」
その怒気は、鋭利な刃のようにレンの胸を斬り裂いた。
「無理を続けて……満身創痍で、忘却術まで……! どうして止めなかった!? なぜだ!!!!」
「せ、先生はっ……一般の人たちを、守ろうとして……っ!!」
絞り出すように叫んだその声に、ビャクヤはさらに怒りを強める。
「そんなもの、どうでもいい!!! なんの力も持たない奴らなんかっ!! 俺は……っ、俺は、ただ……ミナトが無事なら、それでよかったのに……!」
その叫びは、徐々に掠れていく。
拳が震えていたのは、怒りだけではなかった。
その奥にあるもの――哀しみ、喪失、そして報われぬ想い。
たとえ届かなくても、傍にいたかった。
選ばれなくても、愛し続けたかった。
それが、彼のすべてだった。
「やめてっ!」
甲高い声が、空気を切り裂いた。
目を覚ましたカナメが、慌てて二人の間に割って入る。
寝ぼけ眼をこすりながら、それでもビャクヤの腕を掴み、必死にレンを庇うように立ち塞がる。
「ここで揉めたって、仕方ないじゃないっ……! イシミネのせいじゃないよ! 先生は、自分で決めて……!」
「黙れ!!」
怒声が響き、カナメの身体がびくりと震えた。
だが、それ以上の怒気は続かなかった。
振り上げられた腕が、ゆっくりと降ろされる。
その手は明らかに震えていた。怒りを超えて、どうしようもない感情が彼を突き動かしていた。
「……なぜだ。なんで、俺を頼らないんだ……」
その呟きは、まるで風のように小さかった。
けれど、レンには、痛いほどはっきりと届いた。
「……ビャクヤ」
レンがそっと名を呼ぶ。しかし、応えはなかった。
ビャクヤの目は、どこか遠くを彷徨っていた。焦点の定まらないその視線の奥で、行き場をなくした想いだけが、静かに燻り続けていた。
———
そして――場を切り裂くように、のらりとした声が空気を揺らした。
「──騒がしいな。朝から人の研究室を壊す気かい?」
白衣の裾を翻して現れたのは、アクタビだった。
くたびれたシャツのボタンは留め忘れられ、だらしない姿のまま。しかしそのメガネの奥の瞳だけは、全てを見透かすように鋭かった。
「……仲良くケンカしてる暇があるなら、アイツの様子でも見てきたらどうだい?」
皮肉を混ぜた軽口。それでも、場の空気は解けなかった。
張り詰めたままの沈黙だけが、なお、そこに残っていた。
———
「このワタシがね、眠たい目をこすりながら夜通しつきっきりで、あの気難しい先生のお世話をしてたっていうのに……」
アクタビは扉の前に立ったまま、白衣のポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出すと、それで目元を拭う真似をしてみせた。わざとらしい仕草だったが、その声には微かに掠れが混じっていた。
芝居がかった動きに、張りつめていた空気が少しだけやわらぐ。
けれど、それは笑い飛ばすためのものではなく――感情を、ほんの少し隠すための幕だった。
「起きて早々これじゃあ、さすがのワタシでも報われないよ。スメラギが見たら、泣き出すかも。……いや、あいつは泣かないか。睨むだろうね、無言でじっと――あの冷たい目で」
軽口のように聞こえたその言葉には、不思議と棘がなかった。
冗談とも皮肉ともつかない、けれどどこか懐かしさを孕んだ響き。
それに、誰も反論を挟めなかった。
レンも、カナメも、そしてあれほど苛烈だったビャクヤでさえ、一瞬だけ沈黙する。
静寂。
その中に、まだ揺れる感情が残っていた。
心配、不安、そして――希望。
レンが、戸惑いがちに口を開く。
「……先生、目を覚ましたんですか?」
その声には、祈るような響きがあった。
アクタビは答えず、ふいに足を踏み出す。
ガラス片の散らばる床を器用に避けながら、散乱した羊皮紙をひとつずつ拾い上げ、机の上へと戻していく。
手には小さな試薬瓶。かすかに薬草の香りが漂った。
「……見舞ってやるといいよ」
背を向けたまま、いつになく静かな声でそう言った。
「薬が効いたおかげで、だいぶ落ち着いてきた。ただね――君たちがその調子じゃ、目が覚めた瞬間にまた気を失うかも。怒りすぎて」
くすり、と笑うような口調だったが、その陰にある思いは透けて見えた。
あのアクタビが、こんなふうに言う時――それは、心から案じている証だ。
冗談まじりに包んでいなければ、きっと抑えきれないほどの感情があったのだろう。
レンは頬を赤らめ、目を伏せた。
カナメも、言葉を飲み込むようにして唇を引き結ぶ。
胸の内に広がるのは、安堵と、後悔と――静かな感謝。
それはきっと、誰もが同じように抱えていた想いだった。
「……俺はいい。次の任務がある」
それまで黙っていたビャクヤが、唐突に口を開く。
位置を直した狐の面が微かに揺れ、長い銀の髪が静かに流れるように靡いた。
彼の足音が、静まり返った室内に乾いた響きを刻んでゆく。
扉の前に立ち、ドアノブに手をかけたところで――その動きがふと止まる。
「……ミナトに伝えておけ。事後処理は終わった。お前の懸念は、何一つ残っていない。……安心しろ、ってな」
その背中越しの言葉は、不器用な優しさそのものだった。
伝え方も、間合いも、どこまでもぎこちない。
けれど、嘘偽りのない、まっすぐな真心だった。
振り返ることなく、ビャクヤは研究室を後にする。
その後ろ姿を見送りながら、レンはようやく肩の力を抜くように息を吐いた。
張りつめていた何かが、やっと溶けていくような静かな呼吸だった。
隣にいたカナメが、小さくつぶやく。
「……ほんと、不器用だな、兄弟子は」
「……うん」
レンも微笑みながら、そっと頷いた。
この場に流れる空気は、ようやく穏やかなものに変わりつつあった。
イシミネ、会っておいでよ」
「ヒウラは?……いいの?」
「……アンタが一番会いたいって顔してる。私はその後でいいから」
ふいに、カナメの言葉が優しく背中を押した。
「ヒウラ……」
「その代わり、ロドキン・ジェリーの新作ケーキ、おごってよね!」
照れくさそうにそっぽを向くカナメの頬が、ほんのりと赤く染まっていた。
その横顔を見つめながら、レンの胸にはまた新しい温もりが灯る。
誰かを想う気持ちは、こんなにも優しくて、切なくて、あたたかい。
⸻
研究室の奥。
薬品棚のさらに先――目立たぬ位置に設けられた扉を開くと、そこには静まり返った小部屋があった。
魔力制御の陣が壁に刻まれ、精密な結界が空気を澄ませている。窓から差し込む陽光が、白布の上に静かに広がっていた。
その中央。
整えられた白いベッドの中で、スメラギが穏やかに横たわっている。
蒼白だった頬には、わずかに血の気が戻り、その表情は深い眠りに包まれていた。
「……レン」
それは風が揺れるような、ごくかすかな呼び声だった。
けれど、その音が空気を震わせた瞬間、レンの胸に走ったのは、雷のような衝撃だった。
「ミナトさんっ……!」
声を震わせながら、レンは一気にベッドへと駆け寄る。
その目に映ったのは、こちらを見上げる星のような輝きを宿した瞳――
かつての夜、凍てつく冷静さで決して誰にも触れさせなかった瞳。
けれど今そこにあるのは、わずかに滲む柔らかな光。微細で確かな感情の揺らぎ。
「……無事だったか」
「ミナトさんこそ……! 俺……、俺、何もできなくて……!」
悔しさと安堵が絡みついて、レンの喉が詰まる。
言葉はうまく出てこなかった。それでも、伝えたい想いだけは強くあった。
「……助けてくれて、ありがとう」
かすかに震える声だった。けれど、それはまっすぐで、濁りのない祈りのようだった。
その瞬間――
氷を溶かす陽光のように、スメラギの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……礼を言うのは、俺の方だ」
掠れる声とともに、彼の手がそっと伸ばされ、レンの手を握る。
その指先はまだ少し冷たくて、けれど確かな温もりを持っていた。
ただそれだけで、レンの胸が熱くなる。
涙がにじむ。けれど、こぼさぬよう、ぎゅっと唇を結んだ。
理由はまだ分からない。
でも、この温もりに応えたいと思った――ただ、この人のために。
──この人を、守りたい。何があっても。
⸻
重ねられた手のぬくもりが、レンの胸の奥深くにじんわりと沁み込んでいく。
ベッド脇の椅子にそっと腰を下ろしたレンは、横たわるスメラギの顔をじっと見つめていた。
窓の外では昼下がりの柔らかな光が差し込み、白いカーテンを淡く揺らしている。
部屋を満たすのは、どこかぎこちなくもありながら、不思議と落ち着きを帯びた静けさだった。
「ミナトさん……怪我、もう大丈夫なんですか?」
レンはその静寂を壊さぬよう、声を押し殺して尋ねる。
「……まだ少し痛むが……問題はないよ」
スメラギは小さく頷き、微かに笑みを浮かべた。
額にかかる黒髪が銀色に光をはじき、枕の上にさらりと広がる。
「お前のおかげだ。ありがとう……レン」
その言葉と共に、スメラギの手がレンの髪をそっと撫でる。
ただそれだけのことなのに、レンの心臓は跳ね上がった。
胸が詰まるほどに嬉しくて、なぜそんなにも胸を締めつけられるのか、自分でも驚くほどだった。
かつて決して見せなかった、柔らかな声。
あの無表情だった先生が、今、確かに笑っている。
その笑顔が、たまらなく愛おしかった。
「ミナトさん、無理しないでください……俺、もっと強くなりますから。今度はちゃんと、あなたを守れるように……」
言葉は震えていた。けれど、その瞳に宿る光は揺るぎなかった。
弱さをさらけ出すことを恐れず、まっすぐに差し出されるその想いには、どこまでも透明な強さがあった。
それは、少年が少年であることをやめ、誰かを守る覚悟を胸に灯す決意の光。
スメラギを見つめる瞳は、まるで未来そのものを引き寄せるように、揺るぎなく澄んでいる。
「……そうか」
静かに目を伏せたスメラギは、ひと呼吸置いて、ふと笑う。
その笑みはどこか照れくさそうで、不器用でささやかなものだった。
けれどそれだけに、痛いほど誠実で――レンにとっては、何よりも尊い返答だった。
胸の奥に、じんわりと温かな水が満ちていき、満ちて、零れそうな想い。
「……期待してるよ」
微かな声。それでも、その一言に宿る重みは計り知れない。
心の深くをそっと撫でてくるような響き。
「信じる」という言葉を使わずに、すべてを託すその姿勢に、レンは胸が詰まった。
その言葉が何を意味するのか、レンにはまだ分からなかった。
けれど、今確かに感じた。
ふたりの間に、生まれたばかりの芽のような“なにか”がある。
それはまだ名前のない、けれど確かな、始まりの予感だった。
──これはきっと、自分たちにとっての「始まり」だ。
「だが、その“ミナトさん”というのはやめてくれ……君に言われると、なんだかその、くすぐったくなる」
その声が、どこか戸惑いを含んでいることに、レンはすぐに気づいた。
本気で怒っているわけでも、ただ照れているだけでもない。
もっと複雑で、柔らかな感情が滲んでいた。
「……自分だって俺のこと、レンって呼ぶくせに」
わざと拗ねたように返しながら、レンはくすっと笑った。
その笑顔は、どこか意地っ張りな少年のままで、けれど今はもう、それ以上の何かをまとっていた。
言葉のやりとりひとつさえも、どこかくすぐったく、胸を甘く締めつける。
「……言われてみればそうだな」
ぽつりと零れた言葉に、スメラギは視線を逸らす。
珍しく目を泳がせるその仕草に、レンの胸の奥がじんわりと温かくなる。
どこか不器用で素直になりきれない人――
けれどそんなところが、愛しくてたまらなかった。
レンは唇を尖らせながら、じっと彼の頬を見つめる。
まだ少し青白く、弱々しいその肌。
けれど確かに生きて、今、ここにいる。
……自分の目の前に、戻ってきてくれた。
それだけで、どれほど救われたか。
言葉にできない想いが、胸の奥からせり上がってくる。
「……じゃあ、二人の時だけ……それならいいですか?」
そっと問いかけるように、けれどしっかりと見つめて。
その声の奥には、静かだけれど揺るぎない想いが潜んでいた。
名前を呼ぶ、それだけの行為に込められた親密さと特別さ――それを、この人と分かち合いたい。
「嫌だと言っても、言う気だろ?」
くすっと含み笑いを浮かべて、スメラギが返す。
その言い回しさえ、どこか嬉しそうで。
かすかに緩んだ口元が、無意識にレンの視線をさらっていく。
「うん」
レンが笑った。
それはまるで春の陽射しのようにあたたかくて、
何気ない一言のやりとりの中に、互いへの想いがそっと折り重なっていくようだった。
スメラギも、つられるように笑みをこぼす。
それはとてもささやかな笑顔――けれど今の彼らにとっては、奇跡のような一瞬だった。
ひとしきり笑い合い、ふと沈黙が落ちる。
けれどそこには気まずさの欠片もなかった。
むしろその沈黙すら愛おしいと感じるほどに、あたたかく、やさしい空気が流れていた。
言葉がなくとも、心が触れ合い、通じ合っている。
そんな確信が、胸の奥でじんわりと広がっていく。
触れた手の温もりも、交わした視線も、すべてが確かにこの世界に存在していて。
ふたりだけの世界は、そっと、静かに――けれど確実に、繋がっていこうとしていた。
その静けさを破ったのは、控えめな三度のノック音だった。
レンが振り返ると、重厚な扉がゆっくりと開いていく。
⸻
「お前ら、人の研究室でいちゃつくのは、ほどほどにしてくれよ」
突然の声に、レンはびくりと身を震わせた。
扉の隙間から顔を覗かせたのは、白衣をはだけさせたアクタビだった。
欠伸を混じえた手のひらをひらひらと動かしながら、慣れた足取りで部屋に入ってくる。
「なっ! べ、べべべ、別にいちゃついてなんかッ!」
レンは真っ赤になって立ち上がり、しどろもどろに否定した。
だがアクタビは飄々と、薬瓶の山を器用にすり抜けてスメラギのもとへ近づいていく。
その様子を、スメラギはまぶたを細めて見つめていた。
口元にわずかに浮かぶ笑みは、レンには気づかれなかった。
二人の間に流れるもの——
それに最も早く気づいたのは、誰でもないアクタビだった。
けれど彼女は、それを言葉にして壊すような真似はしない。無粋なことはしない性質だ。
「……まあ、目覚めたことには意味がある。とりあえず本題に入ろうか。“星剣に選ばれしもの”」
その言葉が放たれた瞬間、空気が一変した。
和らいでいた空間に、冷たく張り詰めた緊張が差し込む。
レンにはまだ意味がわからない。けれど、その名が自分の“何か”を決定的に変えたものだということだけは——肌で感じていた。
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