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第八章 過去からの呼び声
75 All you need is love
しおりを挟むどこまでも白い、音のない世界が、すべてだった。
降り注ぐ雪の礫は柔らかく、だが容赦なく、生きる熱を奪い去っていく。
ゆっくりと、確実に。
空は白く霞み、風すらも凍りついたかのように、凛と静まり返っていた。
そのなかに、ひときわ小さな影が、ぽつりと、ひとつ。
閉ざされた名もなき村の、古い神木の根元。
積もった雪の上に膝を抱えて蹲るのは、まだ幼い少年だった。
肩に積もる雪も、頬に触れる冷気も、彼を容赦なく追い詰めていた。
彼は、泣いていた。
けれど、声はなかった。
濡れた頬と、震える背だけが、それを物語っている。
その光景を、レンは見つめていた。
どこからともなく、ただ立っていた。
けれど、それを不思議とは思わなかった。目が、離せなかった。
──声なく涙するその子が、彼だと分かっていたからだ。
幼い日の、遠い昔の、
……スメラギ・ミナト。
……どうして、こんな場所に。
……どうして、こんなにも。
胸が締めつけられる。雪よりも冷たい痛みが、胸に迫った。
「……ふっ、く……、ひっう、……」
声をあげまいとこらえればこらえるほど、嗚咽は漏れ始める。
それでも彼は、己の口を小さな手で覆って、必死に声を堪えていた。
そのとき、しんとした空間に、足音が響いた。
重く、確かに地を踏みしめる、ただ一つの存在を示す音。
一人の男が、立っていた。
長身で、端正な顔立ち。束ねた黒髪に、菫色の差し色が映える。
肩に外套をまとったその男は、強い力を持ちながらも、どこか寂しげな気配を纏っていた。
男は、雪の中、少年に歩み寄ってゆく。
その足取りは、決して脅かさぬように、ゆっくりと。
そして、静かに膝をつき、優しく問いかけた。
「……名は?」
声は低く、穏やかだった。
レンの背中に、ひやりとした風が吹く。
それでもその声には、確かなぬくもりがあった。
少年はしばらく、答えなかった。
雪が、髪に、肩に、静かに降り積もっていく。
けれど──
「……ミナト、です……」
やっと、か細く名乗ったその声が、風に乗って届いた。
男は微笑んだ。
わずかに、だが確かに口元が緩んだ。
そして、そっと手を差し出す。
「……おいで。共に行こう」
その声は、不思議なほどにやさしかった。
鳶色の瞳が、凍えた小さな命を、愛おしむように細められる。
幼いスメラギは、一度だけ、躊躇するように視線を泳がせた。
けれど、次の瞬間、おずおずと、小さな手が伸びた。
手袋もしていない、かじかんだ指が、男の指先にそっと触れる。
──その瞬間、雪の中にいたレンの胸が、何かに貫かれたように熱くなった。
目の前で、結ばれた。
小さな縁。
それが、すべての始まりだった。
幼いスメラギが、手を引かれ、立ち上がった──そのとき。
世界が、反転した。
白い雪は、いつしか歪んだ空間の裂け目へと変わっていた。
空が、割れている。
巨大な次元の亀裂が天地を断ち、歪んだ光と風が空間を軋ませている。
その空はもはや、空ではなかった。
磁気嵐の中に立っていたのは、まだ少し少年の面影が残る成長したスメラギだった。
青みがかった長い黒髪が、荒れ狂う風にはためいている。
その目は、涙を堪えるように見開かれ、ただ一人を呼んでいた。
「……先生……っ!!」
叫ぶ声が、いくつも反響する。
スメラギの目が追う先には、あの男が背を向けて立っていた。
黒衣の男は、静かに佇み、何かを決意したように、次元の裂け目を見つめていた。
「先生っ、もう、逃げましょう……っ!! ここは……危険すぎる……!」
スメラギの声が震えていた。
その叫びは祈りのようで、どこまでも脆かった。
だが、その願いは届かない。
男は振り返り、静かに、言った。
「……すまない。ミナト……世界のためだ」
その言葉と同時に、彼の腕が動く。
閃く刃──
銀の魔刃が音もなく走り、スメラギの胸元へと吸い込まれていった。
「……えっ?」
風が止まった。
世界の音が、すべて消えた。
スメラギの瞳が、大きく開かれる。
「すまない……でも、これで……世界が、救われるんだ……」
「せん、せ……い? どう、して……」
まざまざと刻まれる、それはまるで裏切り。
信じていた人に、突き刺された“理由”。
刃が貫いたのは、肉体ではない。
──魂だった。
男が、刃を引き抜く。
同時に、スメラギの胸元から、赤い光がゆっくりと放たれた。
それは魂の核──命の核心。
まるで美しい宝玉のように、空間に浮かび上がる。
スメラギの身体は、崩れ落ちた。
力を失った腕が、だらりと地に落ちる。
その目から涙は出なかった。ただ、静かに、世界から色が消えていった。
「せんせい……クウガ、せんせい……——」
そのまま、瞳がゆっくりと閉ざされていく。
共鳴するように、レンの視界が揺れる。
胸の奥が裂けるように、痛かった。
理解が追いつかない。けれど、感じ取るには十分だった。
スメラギの痛み。
彼の過去。
彼が背負い続けてきた、永遠に癒えぬ傷。
そして今も、それを抱えたまま、誰にも頼らず生きてきたということを。
そのとき、世界がゆらりと白い光に包まれはじめた。
「……ミナトさんっ……!」
レンが叫ぶ。
次の瞬間、光の粒子がはじけるように散って──
レンは、現実の世界へと引き戻されていった。
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