星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第八章 過去からの呼び声

77 疑惑

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 神獣の咆哮が掠れ、音とも気配ともつかない“言葉”が、術式空間に残響のように沁み出した。
 死にゆく神獣が放つそれは、呪詛とも遺言ともつかぬ、形を持たない怨念の残響だった。

 

 —四百年前……婚姻を拒んだ、星色の花嫁……再び……我を、拒むか—

 

 空間が一瞬、冷たく震えた。
 風の通らぬ結界の内側で、確かに何かが空気を揺らしたのを、誰もが感じ取った。

 すでに半身が崩れた神獣は、形を保つのがやっとだった。
 その巨大な影は、空間の奥でひび割れた神像のように軋み、赤黒い瘴気を撒き散らしている。

 その傍ら、拘束術に縛られた神官たちがなおももがき、呪文の断片を叫んでいる。
 目は血走り、理性を失った獣のように呻き声を上げていた。だが、それも次第に弱っていく。

 足元では、崩れた祭壇の端に座り込んだ巫女たちが泣いていた。
 催淫術によって精神を染め上げられていた少女たちは、洗脳から解き放たれ、虚脱と恐怖で身体を震わせている。

「いやだ……こわい……っ」
「夢じゃなかった……あれ……わたし……なにを……」

 素肌のまま身を覆うものを抱え、すすり泣くその姿は、あまりにも痛ましい。
 場違いなほど静かな嗚咽が、結界の内側に滲んでいた。

 

「術式感応。残響レベルB。対象指向性あり。周囲警戒、対象者保護優先」

 

 即座に、執行官たちが動いた。
 彼らの発する詠唱は、もはや“呪文”というより音声命令に近い構文言語だった。

 

「概念位相展開――三重防護結界、コード101A、稼働開始」
「対精神干渉フィルタ設定。対象・ヒウラ・カナメ。優先保護フラグ起動」

 

 それに応じて、空中に数式のような術式フレームが浮かび上がった。
 直線と幾何学が折り重なり、無音のまま魔力を構成していくさまは、まるで生きた設計図だった。

 

 それは、言葉が魂を導く祈りとなる――スメラギの魔術とはまったく異なる世界。
 詩情や情念の一片もなく、そこにあるのは“効率”と“正確性”だけ。

 

 祈りではなく命令。願いではなく運用。
 そこに在るのは、機械的に最適化された“法”の執行だった。

 

 無感情な構造体のひとつが、無造作にカナメの前に展開する。

 青白く発光する多重のフィールド。
 何層にも重ねたガラス板のような防壁が、彼女と空間の呪詛を断絶させた。

 

「ヒウラ候補生、後退を。精神干渉の波形があなたに向いています」

 

 淡々とした声とともに、別の結界がカナメの背後にも展開する。
 一瞬の迷いもなく、完璧な手際で、最短経路の防衛が成立していた。

 

(……これが、機関式魔術……)

 

 カナメは微かに唇を噛んだ。
 情を排したこの精密さ――まるで医療機械のような冷たさだ。

 けれど、その中にも、きっと“守る”という意志があるはずだ。そう、信じたかった。

 

 だが心の奥では、どうしても、あの人の姿が脳裏をよぎってしまう。

 傷つきながら、それでも祈るように詠唱を紡いでいた、スメラギの姿。

 ちらりと視線を向ければ、レンに支えられたその身が、静かに揺れていた。
 肩を濡らす血の跡。閉じたままの瞼。
 そして、彼の頬に額を寄せる少年――レンの瞳は、痛みと、何か祈るようなものに揺れていた。

 

 ──言葉が、願いに似ていた。
 ──詠唱が、誰かを救う詠《うた》のようだった。

 

 それと比べてしまえば、現代魔術の結界はあまりに無機質で、冷たかった。

 

「っ……!」

 

 六角構造の防壁が、青白い光とともに空中に出現する。
 それはまるで防弾ガラスのように、絶対的な壁となって彼女を包んだ。

 

 —扉の楔……ワルプルギスの呪い……—
 —ヒウラ・クウガの、忌み子……呪われし者め!!—

 

 その言葉に、カナメの背筋が凍る。

 

(……違う。違う、これは――)

 

 言葉が鋭く胸を突く。
 周囲の執行官たちが「ヒウラ」の名に反応し、彼女が標的にされたと判断したのも無理はなかった。

 だが――“その熱”は、違う。
 あの呪詛は、確かに、別の誰かに向けられていた。

 

(私に、じゃない……)

 

 カナメは、祭壇に横たわる傷ついたスメラギの姿を見つめる。
 星色の花嫁。婚姻を拒んだ者。忌み子。扉の楔。そして――ヒウラ、クウガ。

 

(先生……?)

 

 思考が止まりかける。

 ヒウラ・クウガは、確か千年前の時の人。
 その名と並び立つように紡がれた神獣の言葉に、カナメの内心は揺れる。

 

 もし、スメラギがかかわりあるとしたら……?
 だが、人間が千年も生きられるはずが、ない。それが、この世界の常識だ。

 仮に、彼が「生き証人」だったとして――それは理(ことわり)から外れた存在。

 

(そんな……はず、ない……)

 

 けれど、戦場で見たその背は、誰よりも傷を負い、誰よりも多くのものを背負っているようだった。
 レンの膝の上で意識を手放してなお、どこか孤独を湛えた顔――忘れられない。

 

(先生が……あの千年前の夜の真実を知っていて……あの時代から今まで……)

 

 信じたくない。
 だが、それがもし“真実”だとしたら。

 あの人は、ずっと誰にも言えぬまま、この世界のすべてを、その身に引き受けて生きてきたことになる。

 

「……!」

 

 そうだとすれば、彼の生き方にまつわる数々の謎が、辻褄を持ち始める。
 使用する古代魔法。存在論に踏み込む講義内容。
 そして何より、人間離れした“時間”を背負うその眼差し。

 

(……でも、まだ――)

 

 まだ断定はできない。
 そんなはずない、という常識が、頭の中で何度も否定を繰り返している。

 

 術式防壁の内側で、カナメは唇を強く噛んだ。
 空気は重く、空間はいまだ不安定に揺れている。

 

 呪詛の声は、もう残響すら残さずに消え去ろうとしていた。

 

 目を閉じて、彼女は疑念と常識の間で揺れる自分自身を見つめ直す。

 

(まだ、わからない。でも……)

 

 この夜、見たもの。
 聞いたもの。
 感じたもの――

 

 それらすべてが、“人ならざる時間”を生きる誰かの痛みに繋がっている気がしてならなかった。
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