85 / 109
第八章 過去からの呼び声
77 疑惑
しおりを挟む
神獣の咆哮が掠れ、音とも気配ともつかない“言葉”が、術式空間に残響のように沁み出した。
死にゆく神獣が放つそれは、呪詛とも遺言ともつかぬ、形を持たない怨念の残響だった。
—四百年前……婚姻を拒んだ、星色の花嫁……再び……我を、拒むか—
空間が一瞬、冷たく震えた。
風の通らぬ結界の内側で、確かに何かが空気を揺らしたのを、誰もが感じ取った。
すでに半身が崩れた神獣は、形を保つのがやっとだった。
その巨大な影は、空間の奥でひび割れた神像のように軋み、赤黒い瘴気を撒き散らしている。
その傍ら、拘束術に縛られた神官たちがなおももがき、呪文の断片を叫んでいる。
目は血走り、理性を失った獣のように呻き声を上げていた。だが、それも次第に弱っていく。
足元では、崩れた祭壇の端に座り込んだ巫女たちが泣いていた。
催淫術によって精神を染め上げられていた少女たちは、洗脳から解き放たれ、虚脱と恐怖で身体を震わせている。
「いやだ……こわい……っ」
「夢じゃなかった……あれ……わたし……なにを……」
素肌のまま身を覆うものを抱え、すすり泣くその姿は、あまりにも痛ましい。
場違いなほど静かな嗚咽が、結界の内側に滲んでいた。
「術式感応。残響レベルB。対象指向性あり。周囲警戒、対象者保護優先」
即座に、執行官たちが動いた。
彼らの発する詠唱は、もはや“呪文”というより音声命令に近い構文言語だった。
「概念位相展開――三重防護結界、コード101A、稼働開始」
「対精神干渉フィルタ設定。対象・ヒウラ・カナメ。優先保護フラグ起動」
それに応じて、空中に数式のような術式フレームが浮かび上がった。
直線と幾何学が折り重なり、無音のまま魔力を構成していくさまは、まるで生きた設計図だった。
それは、言葉が魂を導く祈りとなる――スメラギの魔術とはまったく異なる世界。
詩情や情念の一片もなく、そこにあるのは“効率”と“正確性”だけ。
祈りではなく命令。願いではなく運用。
そこに在るのは、機械的に最適化された“法”の執行だった。
無感情な構造体のひとつが、無造作にカナメの前に展開する。
青白く発光する多重のフィールド。
何層にも重ねたガラス板のような防壁が、彼女と空間の呪詛を断絶させた。
「ヒウラ候補生、後退を。精神干渉の波形があなたに向いています」
淡々とした声とともに、別の結界がカナメの背後にも展開する。
一瞬の迷いもなく、完璧な手際で、最短経路の防衛が成立していた。
(……これが、機関式魔術……)
カナメは微かに唇を噛んだ。
情を排したこの精密さ――まるで医療機械のような冷たさだ。
けれど、その中にも、きっと“守る”という意志があるはずだ。そう、信じたかった。
だが心の奥では、どうしても、あの人の姿が脳裏をよぎってしまう。
傷つきながら、それでも祈るように詠唱を紡いでいた、スメラギの姿。
ちらりと視線を向ければ、レンに支えられたその身が、静かに揺れていた。
肩を濡らす血の跡。閉じたままの瞼。
そして、彼の頬に額を寄せる少年――レンの瞳は、痛みと、何か祈るようなものに揺れていた。
──言葉が、願いに似ていた。
──詠唱が、誰かを救う詠《うた》のようだった。
それと比べてしまえば、現代魔術の結界はあまりに無機質で、冷たかった。
「っ……!」
六角構造の防壁が、青白い光とともに空中に出現する。
それはまるで防弾ガラスのように、絶対的な壁となって彼女を包んだ。
—扉の楔……ワルプルギスの呪い……—
—ヒウラ・クウガの、忌み子……呪われし者め!!—
その言葉に、カナメの背筋が凍る。
(……違う。違う、これは――)
言葉が鋭く胸を突く。
周囲の執行官たちが「ヒウラ」の名に反応し、彼女が標的にされたと判断したのも無理はなかった。
だが――“その熱”は、違う。
あの呪詛は、確かに、別の誰かに向けられていた。
(私に、じゃない……)
カナメは、祭壇に横たわる傷ついたスメラギの姿を見つめる。
星色の花嫁。婚姻を拒んだ者。忌み子。扉の楔。そして――ヒウラ、クウガ。
(先生……?)
思考が止まりかける。
ヒウラ・クウガは、確か千年前の時の人。
その名と並び立つように紡がれた神獣の言葉に、カナメの内心は揺れる。
もし、スメラギがかかわりあるとしたら……?
だが、人間が千年も生きられるはずが、ない。それが、この世界の常識だ。
仮に、彼が「生き証人」だったとして――それは理(ことわり)から外れた存在。
(そんな……はず、ない……)
けれど、戦場で見たその背は、誰よりも傷を負い、誰よりも多くのものを背負っているようだった。
レンの膝の上で意識を手放してなお、どこか孤独を湛えた顔――忘れられない。
(先生が……あの千年前の夜の真実を知っていて……あの時代から今まで……)
信じたくない。
だが、それがもし“真実”だとしたら。
あの人は、ずっと誰にも言えぬまま、この世界のすべてを、その身に引き受けて生きてきたことになる。
「……!」
そうだとすれば、彼の生き方にまつわる数々の謎が、辻褄を持ち始める。
使用する古代魔法。存在論に踏み込む講義内容。
そして何より、人間離れした“時間”を背負うその眼差し。
(……でも、まだ――)
まだ断定はできない。
そんなはずない、という常識が、頭の中で何度も否定を繰り返している。
術式防壁の内側で、カナメは唇を強く噛んだ。
空気は重く、空間はいまだ不安定に揺れている。
呪詛の声は、もう残響すら残さずに消え去ろうとしていた。
目を閉じて、彼女は疑念と常識の間で揺れる自分自身を見つめ直す。
(まだ、わからない。でも……)
この夜、見たもの。
聞いたもの。
感じたもの――
それらすべてが、“人ならざる時間”を生きる誰かの痛みに繋がっている気がしてならなかった。
死にゆく神獣が放つそれは、呪詛とも遺言ともつかぬ、形を持たない怨念の残響だった。
—四百年前……婚姻を拒んだ、星色の花嫁……再び……我を、拒むか—
空間が一瞬、冷たく震えた。
風の通らぬ結界の内側で、確かに何かが空気を揺らしたのを、誰もが感じ取った。
すでに半身が崩れた神獣は、形を保つのがやっとだった。
その巨大な影は、空間の奥でひび割れた神像のように軋み、赤黒い瘴気を撒き散らしている。
その傍ら、拘束術に縛られた神官たちがなおももがき、呪文の断片を叫んでいる。
目は血走り、理性を失った獣のように呻き声を上げていた。だが、それも次第に弱っていく。
足元では、崩れた祭壇の端に座り込んだ巫女たちが泣いていた。
催淫術によって精神を染め上げられていた少女たちは、洗脳から解き放たれ、虚脱と恐怖で身体を震わせている。
「いやだ……こわい……っ」
「夢じゃなかった……あれ……わたし……なにを……」
素肌のまま身を覆うものを抱え、すすり泣くその姿は、あまりにも痛ましい。
場違いなほど静かな嗚咽が、結界の内側に滲んでいた。
「術式感応。残響レベルB。対象指向性あり。周囲警戒、対象者保護優先」
即座に、執行官たちが動いた。
彼らの発する詠唱は、もはや“呪文”というより音声命令に近い構文言語だった。
「概念位相展開――三重防護結界、コード101A、稼働開始」
「対精神干渉フィルタ設定。対象・ヒウラ・カナメ。優先保護フラグ起動」
それに応じて、空中に数式のような術式フレームが浮かび上がった。
直線と幾何学が折り重なり、無音のまま魔力を構成していくさまは、まるで生きた設計図だった。
それは、言葉が魂を導く祈りとなる――スメラギの魔術とはまったく異なる世界。
詩情や情念の一片もなく、そこにあるのは“効率”と“正確性”だけ。
祈りではなく命令。願いではなく運用。
そこに在るのは、機械的に最適化された“法”の執行だった。
無感情な構造体のひとつが、無造作にカナメの前に展開する。
青白く発光する多重のフィールド。
何層にも重ねたガラス板のような防壁が、彼女と空間の呪詛を断絶させた。
「ヒウラ候補生、後退を。精神干渉の波形があなたに向いています」
淡々とした声とともに、別の結界がカナメの背後にも展開する。
一瞬の迷いもなく、完璧な手際で、最短経路の防衛が成立していた。
(……これが、機関式魔術……)
カナメは微かに唇を噛んだ。
情を排したこの精密さ――まるで医療機械のような冷たさだ。
けれど、その中にも、きっと“守る”という意志があるはずだ。そう、信じたかった。
だが心の奥では、どうしても、あの人の姿が脳裏をよぎってしまう。
傷つきながら、それでも祈るように詠唱を紡いでいた、スメラギの姿。
ちらりと視線を向ければ、レンに支えられたその身が、静かに揺れていた。
肩を濡らす血の跡。閉じたままの瞼。
そして、彼の頬に額を寄せる少年――レンの瞳は、痛みと、何か祈るようなものに揺れていた。
──言葉が、願いに似ていた。
──詠唱が、誰かを救う詠《うた》のようだった。
それと比べてしまえば、現代魔術の結界はあまりに無機質で、冷たかった。
「っ……!」
六角構造の防壁が、青白い光とともに空中に出現する。
それはまるで防弾ガラスのように、絶対的な壁となって彼女を包んだ。
—扉の楔……ワルプルギスの呪い……—
—ヒウラ・クウガの、忌み子……呪われし者め!!—
その言葉に、カナメの背筋が凍る。
(……違う。違う、これは――)
言葉が鋭く胸を突く。
周囲の執行官たちが「ヒウラ」の名に反応し、彼女が標的にされたと判断したのも無理はなかった。
だが――“その熱”は、違う。
あの呪詛は、確かに、別の誰かに向けられていた。
(私に、じゃない……)
カナメは、祭壇に横たわる傷ついたスメラギの姿を見つめる。
星色の花嫁。婚姻を拒んだ者。忌み子。扉の楔。そして――ヒウラ、クウガ。
(先生……?)
思考が止まりかける。
ヒウラ・クウガは、確か千年前の時の人。
その名と並び立つように紡がれた神獣の言葉に、カナメの内心は揺れる。
もし、スメラギがかかわりあるとしたら……?
だが、人間が千年も生きられるはずが、ない。それが、この世界の常識だ。
仮に、彼が「生き証人」だったとして――それは理(ことわり)から外れた存在。
(そんな……はず、ない……)
けれど、戦場で見たその背は、誰よりも傷を負い、誰よりも多くのものを背負っているようだった。
レンの膝の上で意識を手放してなお、どこか孤独を湛えた顔――忘れられない。
(先生が……あの千年前の夜の真実を知っていて……あの時代から今まで……)
信じたくない。
だが、それがもし“真実”だとしたら。
あの人は、ずっと誰にも言えぬまま、この世界のすべてを、その身に引き受けて生きてきたことになる。
「……!」
そうだとすれば、彼の生き方にまつわる数々の謎が、辻褄を持ち始める。
使用する古代魔法。存在論に踏み込む講義内容。
そして何より、人間離れした“時間”を背負うその眼差し。
(……でも、まだ――)
まだ断定はできない。
そんなはずない、という常識が、頭の中で何度も否定を繰り返している。
術式防壁の内側で、カナメは唇を強く噛んだ。
空気は重く、空間はいまだ不安定に揺れている。
呪詛の声は、もう残響すら残さずに消え去ろうとしていた。
目を閉じて、彼女は疑念と常識の間で揺れる自分自身を見つめ直す。
(まだ、わからない。でも……)
この夜、見たもの。
聞いたもの。
感じたもの――
それらすべてが、“人ならざる時間”を生きる誰かの痛みに繋がっている気がしてならなかった。
0
あなたにおすすめの小説
嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま
中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。
両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。
故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!!
様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材!
僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX!
ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。
うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか!
僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。
そうしてニ年後。
領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。
え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。
関係ここからやり直し?できる?
Rには*ついてます。
後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。
ムーンライトにも同時投稿中
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!
野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ
平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、
どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。
数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。
きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、
生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。
「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」
それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。
ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎
兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。
冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない!
仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。
宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。
一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──?
「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」
コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
その捕虜は牢屋から離れたくない
さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。
というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる