星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第九章 語られるは、楔の呪い

78 深層意識、巣食う闇

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 純白が眩く、それでいてどこか曖昧な場所だった。

 どこまでも続く白。地平の彼方は、わからない。
 小さな部屋のようでいて、広大な土地のようでもある。空も地も境界を失い、すべてがぼんやりと白に包まれていた。

 時間の流れさえ感じられないその世界に、ただ一つだけ、確かなものがあった。

 痩身で背の高い、よく知った背中。
 青みがかった黒髪が、さらりと揺れている。
 いつもの姿ではない。どちらでもない……白いシャツに、黒いスラックス。
 それだけの姿が、そこにいた。

(……ミナト、さん)

 レンは、なぜ自分がここにいるのかも分からないまま、そこに立ち尽くしていた。
 けれど、その背中を見た瞬間に分かった。この場所が、誰の心の内側なのか。

 彼はレンには気づいていないようだった。
 俯いたまま、静かに、微かに肩を震わせている。
 声はない。けれど、なにかを飲み込んで、黙って傷ついている。そんな気がした。

 胸がきゅうっと締め付けられるような痛み。

 レンは一歩、踏み出した。

 足音すら、靄に吸い込まれて消えていく。
 それでも、歩いた。離れていく背中に、届いてほしくて。

 けれど歩み寄るほどに、何かがおかしいと気づいた。

 彼の周囲の空気だけが、奇妙に沈んでいた。
 まるで、世界に穴が開いているように――そこだけ、重力が変わったような違和感。

 やがて、彼の足がゆっくりと動き出す。

 何かを決意するように、深く、重く、再び“前”へ進もうとしていた。
 けれど――その先にあるものを、レンは見てしまった。

 白のはずの世界が、遠くでわずかに歪んでいる。
 その先には、闇。

 ぬるりと蠢く、仄暗いもの。
 名のない絶望のような、触れてはならない深淵。
 忍び寄るように伸びる無数の魔手――どうしようもないほどの、脅威。

 音はないのに、叫び声が響いたような気がした。

(あそこへ行ったら……)

 ――戻ってこれなくなる。

 直感が叫んだ。彼はまだ、その存在に気づいていない。
 あまりにも静かで、あまりにも無防備な背中。

「……ミナトさん!!」

 反射的に伸ばした手が、彼の手を掴んだ。

 そのまま、力いっぱい彼を抱き寄せた。

 動きが止まる。空気が、張り詰めたように固まった。

 ぎゅっと、強く。どこへも行かせない。誰にも渡さない。
 そんなふうに、ただひたむきに。

 振り返らないまま、微かに彼の声が漏れた。

「……レン……?……」

 気づかないうちに落ちてしまった夢の中、ぽつりと零れた独白のようだった。
 レンが抱きしめた彼の体は、震えている。

 けれども、彼はレンの手を――離さなかった。

 その先へ行ってはいけないと、本能が告げていた。

 一人きりで、沈んでゆくその背中を、
 ただ見送ってはいけないと、心が叫んでいた。

「……先生、かえろ?」

 そう言ったとき、ほんの一瞬だけ、空間の色が変わった気がした。

 白い靄の中に、黒い染みのようなものが滲んでいた。
 こちらを見ている。

 それはまるで、どこか遠くで“誰か”が張り巡らせた呪いの根のようで――
 ミナトの精神が、そこに呑み込まれかけていたのかもしれない。

 レンは、それを知らずに、ただ一途に引き戻す。

 静かに、手を握る。

 その一瞬、確かに、触れた体温のような感覚があった。

 

 ――ここは、たぶん。先生の心の、一番深い場所。

 その直感に、確信はなかった。けれど、否定もできなかった。

 この人が、ずっと誰にも見せずに抱えてきたもの。
 押し殺してきた孤独と、言葉にできない痛み。

 誰にも触れられなかったはずのその最奥に、
 今、たった一度だけ……自分が触れてしまったのだとしたら。

 レンは、静かに、抱きしめ続けた。

 あの人が、もう一度前を向けるように。
 闇に呑まれるその一歩を、止めるために。
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