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第九章 語られるは、楔の呪い
79 世界の理の、外側
しおりを挟む目覚めの直前、夢の余韻がまだ胸に残っていた。
誰かの手を、強く、必死に握っていた気がする。
それは、温かくて、痛いくらいに切実で――
「……ん、」
薄く瞼が開く。光が眩しくて、目を細めた。
天井は白かった。見知らぬ天井。
消毒薬のにおいと、機械の静かな駆動音。
どこかの医療施設らしい。
そのことに思い至るまでに、少し時間がかかった。
「……イシミネっ!!」
呼ばれた名に、レンはぼんやりと目を向ける。
ベッドの傍にいたのは、カナメだった。
切羽詰まった様子で、レンをじっとみている。その蜂蜜色の両目は、かすかに涙で潤んでいた。
「……よかった、ほんと……ずっと、目を覚まさないから」
少しだけ強がったような笑み。けれど、その目の奥には確かな安堵が宿っていた。
「ヒウラ……?」
喉が乾いて、うまく声にならない。
カナメはすぐにそばの給水ボトルを取り、吸飲みに移しそれをそっと唇に当てる。
ひんやりとした水分が喉を潤し、意識がはっきりしてくる。
「ここ、どこ……?」
「イシュ・アルマの東区画にある医療施設だよ。イシミネ、星縫島で倒れてから三日間も寝っぱなしだったんだから」
「……三日……?」
レンはゆっくりと起き上がろうとするが、体に鉛のような重さが残っていた。
「無理に動かないで。まだ魔素が安定してないし、魂魄にも共鳴痕が残ってるって」
「み、ミナトさんは……!? 先生は、どこ……?」
その名を口にした瞬間、胸が跳ねた。
夢で見た白い場所。あの背中。手を伸ばした感触。
現実だったのか、夢だったのか――わからない。けれど確かに“いた”という感覚だけが残っていた。
カナメの表情が一瞬、翳る。
「……大丈夫。スメラギ先生は、ここから近いアクタビさんの診療所にいる。状態は安定してるって……特別な処置が必要で、アクタビさんが対応してる」
「アクタビ……さんが……?」
レンの脳裏に、あの奇妙な笑顔の女の姿が浮かぶ。
普段はふざけているが、彼女が本気で動くときは、何かが“只事ではない”と知っていた。
カナメは立ち上がり、レンの足元まで毛布をかけ直した。
「先生のことが心配なのはわかる。でも、いまはあなたが回復することも大事。……先生も、それを望んでると思う」
その言葉は、レンの中で何かを落ち着かせた。
けれども、同時に、胸の奥には小さな棘のようなものが残った。
この数日で、何かが確実に変わった。動き始めた。
ただならぬ“気配”が世界のどこかで蠢いている。
「……この三日間、何かあった?」
問うと、カナメは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……私も、いろいろ調べてたの。神域の森の大社跡の記録、国立博物館で出会った魔女たちのこと。それ以外の過去の呪詛事件……」
そこまで口にして、ふと視線を落とす。
「……そして、今回の星縫島。調べれば調べるほど、見えてきたの。点と点が、線になっていく。まるで、最初からすべてが繋がっていたみたいに」
レンは目を見開いた。
カナメの声には確かな覚悟が宿っていた。それは、今までの彼女にはなかった響きだ。
「兄弟子も動いてる。王命での調査に動いていたけど……八咫烏班が掴んだ件の一連を保留状態にしたって。……兄弟子が先生に直接会って話すまで、絶対に止めるって」
「キュウビが……?」
意外だった。あのめんどくさい執着男が、そこまで動くなんて。
けれど、妙に納得もしていた。
きっと彼も、何かに気づいたのだ。
何かが起きている。
この世界の理の外側で。
今までは見えなかった“真実”が、少しずつ輪郭を現し始めている。
「……いまは、とにかく安静に、」
「いや……」
レンはそっとベッドの柵に手を添えた。
「……ミナトさんに会って、話さなきゃ」
その言葉に、カナメは一拍だけ黙り――やがて、静かに頷いた。
その直後だった。
病室のドアが、控えめなノック音とともに開く。
「──思ったより元気そうじゃねえか、ポンコツ」
気怠げな声音とともに、部屋に入ってきたのは、長身の男。
プラチナブロンドの髪を高く束ね、狐の半面を額に上げたその姿は、間違いようがなかった。
「……キュウビ!」
レンは目を丸くする。
キュウビは軽く片手を挙げて挨拶すると、病室の壁にもたれかかるように腰を下ろした。
「キュウビさん、な!ったく、寝起きに女と二人っきりとは、やるじゃねえの。……って言いてえとこだけどよ、こっちの胃はキリキリだぜ」
その口調は軽いが、紫の瞳は鋭かった。
そして何より、その雰囲気からは“並々ならぬ警戒”と“覚悟”がにじんでいる。
「……何か、あったんだよね?」
レンが問うと、キュウビは一度だけ深く息を吐いて、目を伏せた。
「……あったさ。星縫島の件、そしてそれ以前の“全部”が、な」
カナメが少し緊張したように背筋を伸ばす。
「私は、あれからいろいろ調べました。封印史、古代魔術、忌名に関する記録。だけど、きっとあなたは……もっと深くまで知ってるんですね、兄弟子」
キュウビは苦笑した。
「さすがヒウラの血。七光りは伊達じゃねぇな。察しがいい。……ま、バラすつもりはなかったんだが、ポンコツが起きたってんなら話も変わる」
キュウビは立ち上がり、レンのベッドの脇へ歩み寄ると、その横に膝をついた。
「……坊主、よく覚えておけ。ミナトってのは、そうとうヤベェもんを背負って生きてる。……今回の件は、その“はじっこ”に触れただけだ」
その声音は、思いのほか真摯だった。
「今、ミナトはアクタビの管理下にある。俺は八咫烏班の指揮権を使って、この件を“保留”にした。誰にも報告を上げちゃいねえ。……だが、それも時間の問題だ」
「なんで……?」
レンが問うと、キュウビは肩をすくめる。
「お上ってのはな、“理”の外側にあるもんが大嫌いなんだよ。……ミナトの存在は、もうその領域に差し掛かってる」
「……!」
レンの胸がざわめいた。
「でもな。俺は、それを“今ここ”で裁くつもりはない。アイツに直接会って、聞きてえんだよ。本当のことを。……どうして、お前みてえなガキに命を賭けたのか。何を信じるべきなのか、ってな」
キュウビの目はレンを射抜くようにまっすぐだった。
「ミナトさんが嘘をついたとしても、俺は……あの人を信じる。……だから、その真実を、あんたも見届けろ」
その言葉は、レンの中で確かな炎となって燃えはじめていた。
今まで見えなかったもの。知らなかった真実。
“何か”が動き出したことを、もう誰も否定できない。
スメラギがその中心にいるのだとしたら、レンは――
「……俺、ミナトさんに会う。あってちゃんと、ミナトさんの言葉が聞きたい」
レンがそう言ったとき、キュウビの口元がわずかに緩んだ。
「……いい目になったじゃねえか、イシミネ・レン。なら、さっさと支度しな。少しだけ、特別扱いしてやる」
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