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第十章 これからのこと
99 波の音、夕暮れ、離れたくない
しおりを挟むランチの後は、少しだけ散歩をして歩いた。
喫茶店を出てから、二人で並んで歩く時間は不思議なほど自然で、気づけば他愛のない会話に笑い合っていた。
レンは、話すうちにスメラギのことをたくさん知った。
本が好きで、読み始めると誰にも邪魔されたくないこと。
キュウビは昔、どうしようもないほどやんちゃだったらしく、実はとても手を焼いたこと。
朝が苦手で、猫舌で──ぼんやりしているときは、たいてい別のことを考えていること。
そんな些細な話をぽつりぽつりと交わすうちに、
「先生」という肩書きが、少しずつ遠ざかっていくのがわかった。
クラスで見ていた地味で野暮ったい印象の教師は、今ではすっかり、冷静で謎めいた、でも美しい優しさを纏った“誰か”に変わっていた。
──いや、違う。
レンは、きっと最初から知っていたのだ。
この人はずっと、素敵なひとだって。
風に揺れるシャツの裾ごしに、横顔を見上げながらそう思う。
たどり着いたのは、海を臨める静かな公園だった。
ちょうど夕陽が傾きはじめ、赤く染まる海に、遠くの橋がきらきらと光を返している。
打ち寄せる波の音がやわらかく響き、どこか世界が丸くなるような感覚が胸を満たしていく。
「ミナトさん、今日はありがとうございました。すごく……楽しかったです」
レンがそう言うと、スメラギはしばらく波の音に耳を傾けてから、微かに唇を綻ばせた。
「……そっか。それはよかった」
たったそれだけの言葉だった。けれど、それがどこまでも優しくて、レンの胸にじんわりと染み込んでいく。
今日の一日は、ただ楽しいだけじゃなかった。
安心できた。誰かに、何もかも預けてもいいんだって、そう思えた。
祖父の教えは強さを支える柱だった。
だけど、その強さがいつしか──「誰にも甘えない」という鎧になっていたのかもしれない。
本当は、ずっと、誰かに甘えたかったのかもしれない。
レンはスメラギの隣で、それをようやく思い出した気がした。
──そして、はっきりと気づいた。
この人を、誰よりも守りたいと。
守られたいんじゃない。守りたい。
それが、自分の本当の願いだ。
(好きだ……)
その想いが、喉の奥で泡のように膨らむ。
「ミナトさん、あの──」
言いかけたその瞬間。
「イシミネ」
スメラギがレンの言葉を遮るように、静かに口を開いた。
「もう日が暮れる。……帰ろうか。寮まで送るよ」
その一言が、現実に引き戻す。
レンの心が、びくんと跳ねた。
終わってしまう。
もうすぐ今日が、終わってしまう。
たまらなかった。胸がぎゅうっと締めつけられて、呼吸さえ苦しくなる。
(……いやだ。終わりたくない)
それは、突き上げるような衝動だった。
──レンは、叫ぶようにその思いを口にした。
⸻
楽しかった。幸せだった。夢みたいだった。
でも、それが夢のまま終わってしまうのは、どうしても耐えられなかった。
スメラギの横顔を、思わず見上げる。
その表情はいつも通り冷静で、少し疲れたようにも見えたけれど、どこか優しい光をたたえていた。
帰る理由も、断る理由も──スメラギの言葉には、何ひとつ間違いはなかった。
それでも。
「……ミナトさん」
声が震えた。レンは慌てて唇を噛み、顔をそらす。
けれど次の言葉は、もう止められなかった。
「……もう少しだけ、一緒にいちゃダメですか……?」
その声音は、ほとんど泣き出しそうなほどだった。
スメラギが目を見開いたのが、わかった。
俯いたままのレンの拳が、ぎゅっと握りしめられる。
言ってしまった。
でも、言わずにはいられなかった。
沈黙が、一瞬だけふたりの間を満たす。
その静けさを破ったのは、レン自身の声だった。
「……俺っ、あなたともっと、一緒にいたい……」
声が震えている。シャツの裾をくしゃくしゃに握りしめて。
俯いた前髪に隠れてその目元は見えなかったが──きっと、潤んでいるのだろう。
(……ああ、この子はどうして、それほどまでに)
スメラギの心に、どうしようもないくらいの愛おしさが込み上げてくる。
閉じていた思いが、溢れ出して今にも弾けてしまいそうだった。
迷いはあった。自分を縛るしがらみが、一歩を踏み込ませることを躊躇わせる。
けれど──
「……なら、星を、見に行くか?」
少し掠れた、けれど甘く、優しく語りかけるような声がそう言った。
「えっ……?」
レンは思わず、間の抜けた声を上げた。
スメラギは空を見上げる。
その瞳に、まだ茜の残る空が映っていた。
「今日は星がよく見える。……星見の丘が近いんだ。寄り道しても、構わないだろう?」
あまりにも自然なその誘いに、レンは思考が追いつかず、ただ見つめ返していた。
けれど数秒後、ようやく心が弾ける。
「……っ、はいっ!!」
パッと顔が輝いた。
まるで夕陽の光をそのまま吸い込んだような、まばゆい笑顔だった。
スメラギはまるで愛しさを隠すように、ふっと笑った。
(……この人は、どうして、こんなにも)
レンは言葉にならない想いを胸に抱えたまま、その背中に歩幅を合わせる。
傾いた陽が海へと沈みはじめる。
遠くの橋が金色にきらめき、空の色がゆっくりと蒼に変わっていく。
──そうして、ふたりは“星を見に行く”。
夜の入り口を踏み出す足取りは、どこまでも静かで、けれど確かだった。
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