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本編
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「おはようございまーす」
研究室に男の声が響いた。
実咲は試験管を揺する手を止める。顔を上げて入り口に立つ男の顔を見た。
雅貴。
実咲の心臓が突然どくどくと音を立てて騒ぎ出した。
「おはよう」
わずかに声がかすれた。
「あれ? 今研究室にいるの、実咲だけ?」
実咲以外いない事に気付くと、雅貴はとたんに砕けた様子になりにこにこしながら入ってくる。
「みんな現場に行ってるから」
実咲はなんでもないフリをして試験管を置き、判定を書き込む。そんな実咲の素っ気なさはいつも通りの反応だったが、「いつも通り」にしようと思うと、いつも通りがどうだったかを見失いそうになる。
「実咲、目、赤い。寝不足?」
歩み寄ってきた雅貴が、実咲の頬を触る。
昨日は何の連絡もしてこなかった人。
なのに心配そうに見つめてくる瞳が愛しくて実咲の胸が痛む。
「そう? 昨夜ちょっと眠れなかったから。そのせいかな」
夜に呼び出して別れを告げるつもりだった。けれど、今なら誰もいない。いっそ、今別れを切り出そうか。
いつも通りを装って会話を交わしながら実咲は考える。
「実咲でも仕事中居眠りとかする?」
「出来るわけないでしょ。だいたいが立ち仕事か、居眠りが出来ないような作業中だし」
苦笑しながら、笑っている雅貴の脇腹を「もうっ」と肘で小突く。
別れを切り出そうかと思うと、顔を見ることが出来なかった。
実咲は新しい試験管を取り出すと小刻みに揺すり、仕事と当たり障りのない会話で動揺を隠す。
「それに今日は検体が多いから忙しいし。あ、そうだ、シャーレ届いてる? 今日中に来ないと足らないんだけど」
「ああ、とりあえず一箱確保してきた。メーカー違うけど大丈夫?」
「サイズは?」
「それは一緒」
「なら良いよ。あ、単価は?」
「あー、えっと。こっちが安い。けどまあ、ほとんど一緒ぐらい。確認する? 単価当たりだと一円以下」
「ふぅん。あ、これ、以前サンプルもらったトコのだね」
「そう、それ」
「次は、いつもの入る?」
「三日後にはいけるはずだけど」
「じゃあ、それで良いよ。経理にも説明お願いね」
別れを切り出そうと思いながら、結局は切り出せないまま仕事の話でごまかしている。早く言わないと、誰かが戻ってくる。
そう思うとどくどく心臓が高鳴り、試験管を持つ手元がわずかに震えた。試験官を振るのが作業の一つで良かったと、心の中で溜息をつく。
突然雅貴が笑った。
「相変わらず、仕事熱心だよな」
「何のこと?」
「他に人いないし、俺が来てるわけだし、少しぐらい手を止めてもよくない?」
からかうような物言いに、実咲は手を止めることなく「あり得ない」と笑う。
「今日は忙しいって言ったでしょ。時間のタイミングが五分ずれたら三十分帰るのが遅れるのよ。めちゃくちゃ濃密スケジュールなの。その代わり、うまくいけば定時で帰れるけど」
「ふぅん。俺も今日は六時には終わるかな。終わったら電話して。晩飯一緒に食おう」
スケジュール帳を確認しながら雅貴が言った。実咲は唾液を飲み込む。
「……そうね」
そうだ、何も今、こんなところで別れを切り出す必要はない。仕事が終わってから、プライベートな時間にする方が良い。
実咲はそう自分に言い聞かせ、少し動揺が落ち着いた心臓の刻む音を感じながら雅貴を見上げる。
「じゃあ、夜に」
雅貴はそういうと、ちらっとドアの向こうを見て実咲にキスをする。
「なにして……っ」
「実咲が素っ気ないから」
当たり前のように雅貴が笑う。実咲はため息をついた。
ああ、なんで口元がゆるんでいるんだろう。
そんな自分が情けなくて、あきれた表情は、雅貴に向けているように見せかけながら、本当に実咲があきれているのは、自分自身だった。
「場所は考えてよね」
「大丈夫、人はいないから。そのくらいは確認した。俺が実咲の評判を落とすようなこと、するわけないだろ?」
「どうだか」
実咲が雅貴を追い払うようなそぶりで手を振れば、彼は「何、その態度」と笑いながら研究室を出た。そうしてできた距離にこっそりほっとする。実咲はにっこりと笑うと、部屋を出た雅貴に帰れとばかりに手を振った。雅貴は素っ気ない実咲の態度を気にした様子もなく、軽く笑うと手を上げてひらりと手を振り去って行った。
その姿が見えなくなって、実咲はため息をついた。
何をしてるんだか。別れようと思っている相手に愛想を振りまいて。バカみたい。
なんでもないフリをするばかげたプライドに、また振り回されている。
結局、予定通り、夜まで先延ばしだ。さっさと言えば、今終わらせることができたというのに。
雅貴が実咲を誘う意味。
それがセックスの誘いであることを十分にわかっていた。
雅貴と会う時は、何もしなくても、身体だけは重ねていた。
抱かれる意味が、愛されているという意味でないことぐらい、十分に分かっている。愛情なんてそんなものなくったっていくらでも出来る行為だっていうことぐらい。
わかっているのに求められることを嬉しいと思う自分は、やはりバカなのだろう。
実咲は、心の中で自分を嘲った。
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